小説「古惑仔」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
本書は、ノワール小説の旗手として知られる馳星周さんが放った、強烈な一撃のような短編集です。新宿歌舞伎町や返還前の香港を舞台に、社会の底辺でうごめく人々の姿が、一切の情け容赦なく描かれています。収録されている六つの物語は、それぞれが独立していながら、通底するテーマによって固く結びついています。
この作品集を読む上で大切なのは、同じく馳星周さんの代表作である『不夜城』シリーズとは別の物語であるという点です。あちらに登場した魅力的なキャラクターたちは、ここには出てきません。『古惑仔』は、『古惑仔』として独立した絶望の世界を構築しているのです。登場人物は皆、チンピラや不法滞在者、借金取りといった、いわゆる「普通」の社会からはみ出してしまった人々。
彼らが抱くささやかな希望や欲望が、皮肉にも彼ら自身を破滅へと導いていく。その過程はあまりにも無慈悲で、読んでいるこちらの心まで抉られるようです。なぜ彼らは救われないのか。なぜ物語は必ず最悪の結末を迎えるのか。本記事では、その構造を紐解きながら、物語の核心に迫っていきたいと思います。これからお話しする内容は、物語の結末に触れる部分も多く含んでいますので、ご注意ください。
「古惑仔」のあらすじ
『古惑仔』は、六つの短編から構成される物語集です。それぞれの物語は、希望が見えない街で、もがきながら生きる人々の姿を映し出しています。
最初の物語「鼬」では、一人の女に執着した男が、彼女を救い出すために無謀な計画を立てますが、その計画はあまりにも無力で、彼は惨めな現実を突きつけられます。表題作でもある「古惑仔」の舞台は、中国返還を目前に控えた香港。ヤクザの親分の娘を護衛する若いチンピラの家健は、きらびやかな夜景の裏に潜む暴力と裏切りの渦に、あっけなく飲み込まれてしまいます。
「長い夜」では、心優しい女性・涼子が、病に倒れた不法滞在者の友人を救うために奔走します。しかし、彼女の善意は、非情なシステムの前では無力なばかりか、彼女自身をも犯罪の世界へと引きずり込んでいきます。「聖誕節的童話」で描かれるのは、愛を誓い合った中国人カップルの転落劇です。ささいなきっかけから歯車が狂い始め、彼らの愛と信頼は、経済的な困窮によって無残にも破壊されていきます。
「笑窪」では、過去に女に騙された経験を持つ料理人が、再び同じ特徴を持つ女と出会い、違法カジノの罠にはまっていきます。そして最後の「死神」では、会う友人たちが次々と死んでいくという偶然に苛まれる男・阿扁が、自らを「死神」だと信じ込み、破滅的な結末へと突き進んでいくのです。どの物語も、一筋の光さえ見えない結末へと向かっていきます。
「古惑仔」の長文感想(ネタバレあり)
この『古惑仔』という作品集を手に取った時、私はある種の覚悟をしました。馳星周さんの描く世界が、決して甘いものではないことを知っていたからです。しかし、読み終えた今、その覚悟さえも打ち砕かれるほどの、底知れない絶望と衝撃に打ちのめされています。これは単なる犯罪小説ではありません。救済という概念が完全に排除された世界で、人間がいかにして壊れていくかを描いた、壮絶な記録文学のようです。
多くの読後感で語られる「後味の悪さ」や「救いのなさ」。それは決して作者の筆が足りないからではなく、むしろ意図的に、完璧に構築されたものであることが、読み進めるうちに痛いほど伝わってきました。六つの物語は、それぞれが絶望へと至るケーススタディ。登場人物たちは、愛や金、人生のやり直しといった普遍的な願いを抱いていますが、その願いこそが彼らを破滅させる罠として機能しているのです。
「鼬」― 無力な男の哀れな存在証明
最初の物語「鼬」から、読者は一切の容赦なく突き放されます。主人公の武は、惚れた女のために上海マフィアの男を殺そうと計画する。ノワール小説の王道ともいえる設定ですが、彼の計画は驚くほど稚拙で、実行に移すことすらできません。彼はただ、別の人間が目的の男を殺すのを震えながら見ているだけの、取るに足らない傍観者でしかなかったのです。
この物語の本当に恐ろしいところは、その結末にあります。すべてに失敗し、路地裏に逃げ込んだ彼が目にしたのは、一匹の美しいイタチ。その瞬間、彼の心に歪んだ考えが浮かびます。「自分のような最低の人間でも、最高の美しいものを破壊できる」。そして彼は、そのイタチに銃口を向けるのです。これは単なる気まぐれな暴力ではありません。
彼は、人間社会では何一つ成し遂げられなかった。恋敵を殺すことも、女を手に入れることもできなかった。そんな彼に残された唯一の自己表現が、無意味で一方的な「破壊」だったのです。これは、力を完全に奪われた人間が最後に示す、あまりにも哀れで、しかし強烈な存在証明でした。この冒頭の物語で、私はこの作品集が描こうとしているテーマの核を、まざまざと見せつけられた気がしました。
「古惑仔」― 偽物の宝石と使い捨ての命
表題作である「古惑仔」は、舞台を返還前の香港に移します。主人公の家健は、ヤクザの親分の娘・里美を護衛するチンピラ。ヴィクトリアピークから見下ろす夜景を「宝石みたい」と讃える里美に、彼は広東語で「紛い物の宝石じゃねえか」と吐き捨てます。この一言が、物語のすべてを象徴しているように感じました。
きらびやかに見える香港の街も、その実態は偽物に過ぎず、その下には暴力と裏切りが渦巻いている。そして、その世界で生きる家健自身の命もまた、驚くほど安く、使い捨ての「紛い物」でしかないのです。物語の結末は、あまりにも突然訪れます。敵対組織の襲撃に遭い、命乞いも虚しく、彼は青龍刀で首を刎ねられてしまう。あまりにもあっけない、一行で終わる死でした。
この唐突さは、衝撃的であると同時に、彼の存在の軽さを物語っています。彼は大きな権力闘争の盤上の一駒に過ぎず、その死は誰の心にも留まらない、些細な出来事として処理される。返還を前にした香港の不安定な情勢と、そこで生きる人間の命の儚さが、この短い物語の中に凝縮されていました。彼の死は、読者に感傷に浸る隙さえ与えません。ただ、冷たい事実としてそこにあるだけなのです。
「長い夜」― 善意が蝕まれるシステムの恐怖
「長い夜」は、この短編集の中で最もやるせない気持ちにさせられた物語かもしれません。主人公の涼子は、ごく普通の心優しい女性。しかし、不法滞在者である友人ミーナが重病に倒れたことで、彼女の日常は暗転します。正規の医療を受けさせられない友人のために、彼女は裏社会の闇へと足を踏み入れていくのです。
彼女の行動は、すべて友人への善意から始まっています。しかし、その善意が、結果的に彼女を犯罪に加担させ、パスポートをマフィアに渡すという取り返しのつかない状況へと追い込んでいく。この物語が描いているのは、個人の優しさがいかに巨大で非情な「システム」の前で無力であるか、という冷徹な事実です。
必死に金策に走り、あらゆる手を尽くした涼子。しかし、彼女の努力が実を結ぶことはありませんでした。ミーナは、彼女が戻るのを待たずに冷たくなっていたのです。ミーナの死は、病気が発覚した時点、いや、彼女が不法滞在者としてこの国にいた時点で、すでに決定づけられていたのかもしれない。涼子の善意は、この救いのないシステムの中では、悲劇を加速させる燃料にしかならなかったのです。
「聖誕節的童話」― 愛が崩壊していく軌跡
「聖誕節的童話」というタイトルは、あまりにも皮肉に響きます。物語は、希望に満ちた中国人カップル、一方は、恋人を日本に呼び寄せ、輝かしい未来を夢見ていました。しかし、入管の捜査の噂という些細なきっかけで職を失ったことから、彼らの人生は転落の一途をたどります。
この物語が描き出すのは、経済的な困窮が、いかに人の心や愛といった尊いものまで破壊していくか、という恐ろしいプロセスです。ギャンブルに溺れ、借金を重ね、強盗にまで手を染める一方。そして彼は、ついに越えてはならない一線を越えてしまう。借金返済のために、愛する恋人に売春を強要するのです。
この瞬間、彼らの関係の基盤は完全に崩壊しました。かつて純粋だった愛は見る影もなく、彼女もまた薬物に溺れ、別の生き方を見つけていく。最後にマフィアに捕らえられた一方が、助けを求めて彼女に電話をかける場面は、この物語の残酷さを象徴しています。彼女は、冷たく彼を見捨てるのです。愛し合っていた二人が、互いを憎み、裏切るまでに壊れていく軌跡に、ただただ戦慄するしかありませんでした。
「笑窪」― 被害者が加害者になる絶望の連鎖
「笑窪」は、詐欺と裏切りの連鎖を描いた物語です。主人公の良は、かつて「えくぼ」のある女に金を騙し取られた過去があります。そして彼は、またしても同じ「えくぼ」を持つ女、メグと出会い、違法カジノの罠にはまっていく。この「えくぼ」というモチーフの反復が、彼が特定の種類の罠に弱いことを示唆しているようで、不気味でした。
やがて良は、自分が嵌められたこと、そして自分もまた、次のカモを誘い込むための「サクラ」になることを要求されているという真実を知ります。このカジノのシステムは、単に客から金を奪うだけでなく、被害者自身をシステムの一部、つまり新たな加害者として取り込むことで成り立っていたのです。
良の前に示された選択肢は、捕食者になるか、あるいは破滅するか。彼はそのどちらでもない、第三の道を選びます。それは「報復」でした。カジノを警察に密告し、自らもまた刺客に襲われる。もみ合いの末、相手を刺し返すという、相互破壊の結末。彼はサイクルを断ち切りましたが、それは自らの破滅と引き換えでした。この物語は、一度悪のサイクルに囚われた人間が、そこから抜け出すことの絶望的な困難さを見事に描き出していると感じます。
「死神」― 自己成就する破滅の予言
最後の物語「死神」は、罪悪感という内面的なテーマを扱った、心理的な恐怖に満ちた一編でした。主人公の阿扁は、自分と会った友人が次々と死んでいくことから、自らを「死神」だと信じ込んでいます。これは「生存者の罪悪感」とでも言うべき、非合理な思い込みから始まっています。
しかし、物語が進むにつれ、彼がもう一つの、現実の罪を抱えていることが明らかになります。彼は成功者などではなく、雇い主に金を騙し取られ、その復讐のために雇い主一家を惨殺していたのです。彼の心は、非合理な罪悪感と、合理的な罪悪感の二重の重圧に押し潰されようとしていました。
中国に帰る友人のための送別会。その席で、彼はすべてを告白します。自らが犯した殺人を。そして、自らが「死神」であることを。友人たちが恐怖に凍りつくなか、彼は自らのこめかみに銃口を当て、引き金を引きます。これは、彼が「死神」としてのアイデンティティを完遂するための、最後の儀式でした。「死神」であることをやめるために、「死神」になる。この悲劇的な矛盾に満ちた結末は、この作品集の締めくくりとして、あまりにも強烈な印象を残しました。
この『古惑仔』という作品集は、読者に安易な共感や感動を与えてはくれません。ただ、社会の暗部で生きる人々の、息苦しいほどの現実と、避けられない破滅を突きつけてくるだけです。しかし、だからこそ、この物語には抗いがたい力があります。目を背けたくなるような絶望の深淵を、あえて直視させる。馳星周という作家の、揺るぎない覚悟と筆力を感じさせる傑作だと思います。
まとめ
小説『古惑仔』は、読む人を選ぶ作品であることは間違いありません。物語に救いを求めたり、読後に晴れやかな気持ちになりたいと思っている方には、決してお勧めできません。ここに描かれているのは、希望という名の光が完全に遮断された、底なしの暗闇だけだからです。
収録された六つの物語は、どれも例外なく、登場人物たちが最悪の結末を迎えます。彼らのささやかな願いはことごとく打ち砕かれ、暴力と裏切り、そして絶望の渦へと飲み込まれていきます。その無慈悲な展開に、読んでいるこちらも心が疲弊し、重苦しい気持ちになることは避けられないでしょう。
しかし、この強烈な「後味の悪さ」こそが、『古惑仔』という作品の本質であり、最大の魅力なのかもしれません。社会の片隅で、声もなく消えていく人々の存在。そのどうしようもない現実を、一切の感傷を排して描き切った作者の筆力には、ただただ圧倒されます。
もしあなたが、文学に綺麗事だけではない、人間のどうしようもなさや、世界の非情さといったものまで求めるのであれば、この作品は忘れられない一冊になるはずです。ただし、読む際には相応の覚悟が必要。これは、あなたの心に深い傷跡を残していく物語なのですから。