小説「予定日はジミー・ペイジ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。角田光代さんが描く、妊娠と出産、そして一人の女性が「母」になっていく過程の物語です。
この物語の主人公、マキはある日突然、自分が妊娠していることを知ります。しかし、多くの人が感じるような手放しの喜びは、すぐには湧いてきません。むしろ、戸惑いや漠然とした不安のほうが大きいのです。夫のさんちゃんは素直に喜びますが、マキ自身はどこか現実感を持てずにいます。
物語は、そんなマキが妊娠期間を通して経験する心と体の変化、周囲の人々との関わりを丁寧に追っていきます。昔の恋人との再会、母親学級で出会う個性的な妊婦仲間との交流。それらを経て、マキは少しずつ、自分のお腹の中にいる新しい命と、そして「母親になる」という自分自身の変化と向き合っていくことになります。
この記事では、「予定日はジミー・ペイジ」の物語の詳しい流れと、結末に触れる部分も含めてお伝えします。さらに、私がこの作品を読んで何を感じ、どう考えたのか、詳しい思いも綴っています。作品の核心に触れる内容が含まれますので、未読の方はご注意くださいね。
小説「予定日はジミー・ペイジ」のあらすじ
主人公のマキは、ある日、近所の産婦人科で医師のリンドウから妊娠を告げられます。「おめでたですね」という言葉にも、どこか他人事のように感じてしまうマキ。夫のさんちゃんは、マキから妊娠を知らされると、手放しで大喜びします。その温度差に、マキは少し戸惑いを覚えるのでした。
梅雨に入り、気分が沈みがちなマキは、ふと出産予定日が伝説のギタリスト、ジミー・ペイジの誕生日と同じであることに気づきます。お腹の子が特別な存在のように思え、ようやく少しだけ嬉しい気持ちが湧いてくるのでした。妊娠初期特有の気分の波や、ものを嘗めたくなる不思議なつわり症状に戸惑いながらも、マキの妊婦生活は静かに始まります。
夏になり、夫のさんちゃんと二人で過ごす最後の旅行として伊豆へ出かけたマキ。昔の恋人、「しげピー」こと淵野辺薫男と、かつてこの地を訪れたことを思い出します。今の自分を知ったら彼は驚くだろうか。そんな思いから、マキは十数年ぶりにしげピーに連絡を取り、再会を果たします。昔と変わらない自由奔放なしげピーの姿に、マキは変わっていく自分自身を改めて意識するのでした。
秋、マキは総合病院のプレママクラスや母親学級に参加します。そこで出会ったのが、スタイリッシュな妊婦、佐伯紀子でした。どこか社会の「母親」像に馴染めない二人は意気投合し、焼き鳥屋でウーロン茶を飲みながら、互いのこれまでの人生や妊娠に対する複雑な思いを語り合います。「落ちこぼれ妊婦」と自嘲する佐伯に、マキは不思議な仲間意識を感じるのでした。
予定日である一月七日を過ぎても、陣痛は訪れません。そして、陣痛が始まったのは、皮肉にもマキが好きではなかった亡き父の誕生日である一月九日でした。父との確執、嫌な思い出が蘇り、マキは不吉な予感を覚えます。生まれてくる子が、あの父の生まれ変わりだったらどうしよう、と。
タクシーで病院へ向かう道中、マキは陣痛の痛みと不安でパニックになりかけます。しかし、病院に到着し、ふと振り返ると、タクシーの運転手が、亡き父とそっくりな優しい笑顔で手を振っていました。その瞬間、マキの中で何かが吹っ切れます。過去へのわだかまりが少しだけ溶け、痛むお腹に手を当てながら、マキもまた、運転手に微笑み返すのでした。出産という、新しい時間の始まりを予感しながら。
小説「予定日はジミー・ペイジ」の長文感想(ネタバレあり)
角田光代さんの「予定日はジミー・ペイジ」を読み終えたとき、なんとも言えない、じんわりとした温かさと、少しの切なさが胸に残りました。これは、単なる「妊娠・出産物語」ではない、一人の女性が自分自身と、過去と、そして未来と向き合っていく、とても個人的で、だからこそ普遍的な物語だと感じます。
まず、主人公マキの妊娠発覚時の戸惑いに、強く心を掴まれました。「おめでたですね」と言われても、素直に喜べない。夫の喜びように、どこか温度差を感じてしまう。この感覚、経験のある方なら「わかる!」と思うのではないでしょうか。社会が押し付ける「母親になる=無条件の喜び」というイメージに対する、静かな、でも確かな違和感。角田さんは、その微妙な心の揺れを、本当に正直に、丁寧に掬い取っています。
妊娠初期の描写も非常にリアルです。気分の浮き沈みが激しくなったり、妙な衝動に駆られたり(作中ではものを嘗めたくなる、という描写がありましたね)、食べ物の好みが変わったり。身体の変化だけでなく、精神的な不安定さも克明に描かれていて、「そうそう、こんな感じだった」と自分の経験と重ね合わせた方も多いはずです。特に、周りに心配をかけたくない、あるいは「何かあったら…」という不安から、その情緒不安定さを一人で抱え込んでしまう姿には、胸が締め付けられるようでした。
そんなマキが、出産予定日がジミー・ペイジの誕生日だと知って、少しだけ前向きな気持ちになる場面が好きです。お腹の子を「天才ギタリストかも」と空想することで、漠然とした不安の中に、ささやかな希望を見出す。このささやかさが、とてもマキらしいと感じます。大きな喜びや感動ではなく、日常の中のちょっとした発見や連想が、彼女を支えていくのです。
元恋人しげピーとの再会シーンも印象的です。昔と変わらないしげピーと、妊娠によって確実に変わりつつある自分。過去の自分と現在の自分、そして未来の自分について、否応なく考えさせられる瞬間です。しげピーは、マキが通り過ぎてきた「自由」や「若さ」の象徴のようにも見えます。彼との再会は、過去へのノスタルジーであると同時に、過去の自分ときちんと区切りをつけ、新しいステージへ進むための儀式のようにも感じられました。
そして、母親学級で出会う佐伯紀子との関係。これもまた、この物語の大きな魅力の一つだと思います。「ちゃんとした母親」にならなければ、というプレッシャーを感じがちな中で、「落ちこぼれ妊婦」と自称する佐伯との出会いは、マキにとって大きな救いになったはずです。世間の物差しではなく、自分たちのペースで、自分たちの言葉で、妊娠や出産、これからの人生について語り合える相手。焼き鳥屋でウーロン茶片手に語り合う二人の姿は、シスターフッド的な連帯を感じさせ、読んでいて心強く、温かい気持ちになりました。
物語の終盤、陣痛が始まった日が、マキが好きではなかった父親の誕生日だった、という展開には、少しドキリとさせられました。父との確執、嫌悪感。それが、これから生まれようとしている自分の子どもへの不安と結びついてしまう。過去のトラウマが、未来への希望を曇らせてしまう瞬間です。このあたりの心理描写の鋭さは、さすが角田光代さんだと感じ入りました。
しかし、ラストシーンで、そのわだかまりが少しだけ解ける兆しが見えたことに、救いを感じます。病院へ向かうタクシーの運転手が、亡き父にそっくりな笑顔を見せる。それは幻だったのかもしれません。でも、その笑顔を見たマキが、長年の憎しみやわだかまりから、ほんの少し解放されたように見えたのです。過去を完全に許したり、忘れたりするわけではないけれど、それを受け止めて、それでも前を向いて新しい命を迎え入れようとする。その静かな決意のようなものが、マキの微笑み返しに表れているように感じました。
この物語は、声高に「母性の素晴らしさ」を謳うわけではありません。むしろ、妊娠や出産に伴う戸惑い、不安、身体的な苦痛、精神的な揺らぎを、どこまでも正直に描いています。だからこそ、多くの女性が共感し、自分自身の経験と重ね合わせて読むことができるのだと思います。
「子どもを産むということは、時間を手に入れることかもしれない」という作中の言葉が、深く心に残っています。子どもが成長していく姿を通して、私たちは否応なく時間の流れを実感する。それは時に切なく、でも同時に、かけがえのない豊かさをもたらしてくれるものなのかもしれません。マキが、お腹の中の赤ん坊を「私たちが幾度もくりかえしてきた祈りみたいな気分でできている」と感じる場面も、とても詩的で美しいと思いました。
角田光代さんは、出産経験がないとどこかで読んだ気がしますが、それを全く感じさせないリアリティと、深い洞察力には本当に驚かされます。人間の感情の機微、特に女性が抱える複雑な思いを掬い取り、言語化する力は、やはり卓越していると感じます。
読み終えて、マキがこれからどんな母親になっていくのか、想像が膨らみます。きっと、世間一般の「理想の母親像」に無理に自分を当てはめようとはしないでしょう。戸惑いながら、悩みながら、それでも自分なりのペースで、子どもとの時間を大切にしていく。佐伯紀子とは、出産後も焼き鳥屋で、今度はビール片手に、子育ての愚痴や喜びを語り合っているかもしれません。そんな未来を想像すると、なんだか微笑ましい気持ちになります。
この作品は、妊娠・出産を経験した人はもちろん、これから経験するかもしれない人、あるいは全く経験のない人にとっても、多くの気づきを与えてくれる物語だと思います。一人の女性の個人的な体験を通して、「生きること」「時間」「過去との向き合い方」「他者との繋がり」といった、普遍的なテーマについて考えさせてくれる、深く、静かに心に響く一冊でした。
まとめ
角田光代さんの小説「予定日はジミー・ペイジ」は、妊娠を知った主人公マキの戸惑いから始まり、出産に至るまでの心の軌跡を丁寧に描いた物語です。単なる「おめでた」話ではなく、一人の女性が「母になる」過程で経験する、喜びだけでなく、不安や葛藤、身体の変化への戸惑いといったリアルな感情が正直に綴られています。
物語の中では、過去の恋人との再会や、同じように妊娠に複雑な思いを抱える友人との出会いを通して、マキが自分自身や過去と向き合い、少しずつ変化を受け入れていく様子が描かれます。特に、好きではなかった亡き父への複雑な感情が、出産間近の心境に影を落とす場面は、深く考えさせられるものがありました。
しかし、物語の終わりには、過去のわだかまりが完全に消えるわけではなくとも、それを受け止め、新しい命、新しい時間を迎え入れようとする、静かな希望が感じられます。「予定日がジミー・ペイジの誕生日」というユニークな設定も、物語に独特の彩りを与えています。
この作品は、妊娠・出産という出来事を軸にしながらも、時間とは何か、過去とどう向き合うか、人との繋がりとは何か、といった普遍的なテーマを問いかけてきます。角田光代さんならではの繊細な筆致で描かれる、等身大の女性の物語として、多くの読者の心に響く一冊だと思います。