小説「乞食学生」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この作品は、太宰治が1940年(昭和15年)に発表した、若々しいエネルギーとどこか切ない感傷が入り混じった物語です。舞台は武蔵野、玉川上水や井の頭公園といった、太宰自身も暮らした土地。
主人公である「私」は、自作の小説をポストに投函したものの、その出来の悪さにひどく落ち込み、生きていることさえ嫌になってしまいます。そんな鬱屈した気持ちを抱えて玉川上水のほとりを歩いていると、奇妙な少年、佐伯五一郎と出会うことになります。この出会いが、物語を思わぬ方向へと転がしていくのです。
この記事では、まず「乞食学生」の物語の詳しい流れ、結末まで触れながらご紹介します。自信のなさや虚勢、青臭い理想論などが渦巻く中で、登場人物たちがどのように関わり合い、心を通わせていくのか、その過程を追っていきましょう。
そして後半では、この作品を読んで私が考えたこと、感じたことを詳しく述べていきます。若さ特有のアンバランスな心情や、それでも失われない純粋さ、そして太宰治ならではの人間描写の深さについて、具体的な場面を取り上げながら掘り下げてみたいと思います。ぜひ最後までお付き合いください。
小説「乞食学生」のあらすじ
「私」は小説家です。ある日、自信のない作品を雑誌社へ送った後、自己嫌悪に陥り、三鷹駅近くの玉川上水へと足を向けます。季節は四月半ば、桜は葉桜となり、青葉のトンネルができています。その水の流れを眺めていると、突然、全裸の少年が川を泳いでいるのを目撃し、驚きます。人喰い川と呼ばれる危険な川で、しかも溺れているかもしれないと慌てた「私」は、救助しようと必死に走ります。
ところが、少年は溺れていたわけではなく、岸辺の草原で寝転がっていました。「私」が慌てて走るあまり、少年の腹を踏みつけてしまったのです。少年は「私」を馬鹿にし、奇妙な理屈を並べ立てます。その尊大な態度に「私」は不快感を覚えますが、なぜか見捨てることもできず、井の頭公園の茶店へ連れて行きます。
少年の名は佐伯五一郎。高等学校の学生で、世話になっている代議士の娘が撮影した映画の上映会で、今夜弁士を務めることになっていると言います。しかし、「私」は自分が代わりに弁士をやると言い出してしまいます。持ち合わせがほとんどないにも関わらず、見栄を張ってしまったのです。
弁士を務めるには学生服が必要だということで、二人は佐伯の友人である熊本君の家へ向かいます。渋谷に住む熊本君から制服と制帽を借り、「私」は学生になりすまします。熊本君は「私」の文学論に感心し、拍手してくれます。
三人は食堂に入り、ビールで乾杯することになります。「私」は、自分の言葉で語りたい、血肉を削った言葉をどもりながらでも言いたい、と熱っぽく語ります。佐伯は相変わらずにやにやしていますが、熊本君は真剣に聞いています。
そして、「私」は「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います」と、やや気障な、しかし心からの言葉を口にし、三人はビールジョッキを合わせるのでした。その直後、熊本君が大きなくしゃみをする、というところで物語は終わります。
小説「乞食学生」の長文感想(ネタバレあり)
この「乞食学生」という作品を読むたびに、私の胸にはなんとも言えない、甘酸っぱくもほろ苦い感情が込み上げてきます。それは、遠い昔に経験した、あるいは経験し損ねたかもしれない「青春」そのものの手触りのような感覚です。太宰治の作品には、人間の弱さや醜さ、ダメさ加減を描きながらも、どこかに救いや温かさを感じさせるものが多いですが、この作品は特に、若さゆえの不器用さ、痛々しさ、そして、それにもかかわらず存在する輝きのようなものが、実に鮮やかに描かれているように思います。
物語の冒頭、「私」が自分の書いた小説を「醜作」と断じ、ポストに投函した後の苦悶に満ちた独白から始まります。この自己嫌悪と劣等感の描写は、実に太宰らしいと言えるでしょう。「下手くそなのだ。私には、まるで作家の資格が無いのだ。無智なのだ。」と、自分自身を徹底的にこき下ろします。この過剰なまでの自己否定は、単なる謙遜ではなく、彼の内面に深く根差した 불안감 の表れなのかもしれません。しかし、同時に、この苦悩があるからこそ、彼の創作への渇望や真摯さが伝わってきます。読者である私たちもまた、程度の差こそあれ、自分の能力や存在価値に疑問を抱き、苦しんだ経験があるのではないでしょうか。だからこそ、この「私」の独白に、どこか共感してしまうのかもしれません。
そんな鬱屈した「私」の前に現れるのが、全裸で玉川上水を泳ぐ少年、佐伯五一郎です。この登場シーンからして、尋常ではありません。人喰い川と呼ばれる危険な場所で、しかも全裸で泳ぐという行為は、常識からの逸脱であり、一種の挑発のようにも見えます。「私」は慌てふためき、彼を救助しようとしますが、逆に「君は、ばかだね」と嘲笑され、腹を踏みつけられる始末。佐伯は、数学者のガロアやアベルの名前を挙げて「私」の無知を指摘し、優位に立とうとします。この少年の言動は、一見すると傲慢で、人を小馬鹿にしているようにしか見えません。
しかし、彼の言葉の端々には、どこか虚勢のようなものが感じられます。「けさの知識は、けさ情熱を打ち込んで実行しなければ死ぬるほど苦しいのである」と「私」が看破するように、佐伯の知識のひけらかしは、一夜漬けの얄팍한 것일지도 모릅니다。それでも、彼はそれを大声で主張せずにはいられない。それは、彼なりの自己表現であり、世界に対する反抗なのかもしれません。若さ特有の、根拠のない万能感と、その裏側にある 불안정함 が同居しているかのようです。この佐伯というキャラクターの造形は、非常にアンビバレントで、読者の心をざわつかせます。
「私」は、そんな佐伯の態度に不快感を覚えながらも、彼を突き放すことができません。それどころか、持ち合わせがほとんどないにも関わらず、茶店で親子丼をおごり(実際にはおしるこに変更しますが)、さらには映画弁士の代役まで引き受けてしまいます。これは、佐伯に対する反発心や対抗心からくる見栄でもあるでしょう。しかし、それだけではないように思えます。「私」の内にも、佐伯と同じような、持て余したエネルギーや、現状を打破したいという衝動がくすぶっていたのではないでしょうか。だからこそ、奇妙な縁で結ばれたこの少年に、どこか惹かれるものを感じたのかもしれません。
そして、物語は渋谷に住む佐伯の友人、熊本君の登場によって、新たな展開を迎えます。熊本君は、「私」が借り物の学生服を着て語る文学論に、素直に感銘を受け、拍手します。「なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい」。この「私」の言葉は、冒頭の自己否定とは対照的に、創作に対する真摯な決意表明とも受け取れます。借り物の姿でありながら、いや、借り物の姿だからこそ、かえって本心を吐露できたのかもしれません。
この場面は、若者特有の青臭い理想論と言ってしまえばそれまでかもしれません。しかし、そこには紛れもない純粋さと熱情があります。熊本君の素直な反応は、「私」にとっても、そして読者にとっても、一筋の救いのように感じられます。斜に構え、常に相手を値踏みするような佐伯とは対照的な、熊本君の実直さが、場の空気を和ませ、どこか温かいものにしています。
物語のクライマックスは、三人が食堂でビールを飲むシーンです。ここで「私」は、「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います」と口にします。これは、いささか気障で、照れくさい台詞ではあります。しかし、それまでの「私」の屈折した心情や、佐伯との間の緊張感を考えると、この素直な言葉が持つ意味は大きいと言えるでしょう。互いの欠点を認め合い、それでも共に歩んでいこうという呼びかけは、ささやかながらも確かな友情の芽生えを感じさせます。
この言葉に対し、佐伯は相変わらずにやにやと笑っています。彼の心の内は、最後まで読者にははっきりと示されません。しかし、「私」の言葉を完全に拒絶しているわけでもないように思えます。むしろ、その照れ隠しのような態度の中に、彼なりの共感や同意が隠されているのかもしれない、と想像する余地を残しています。
そして、三人がグラスを合わせた直後、熊本君が大きなくしゃみをする、という結末。この唐突なくしゃみは、それまでのやや感傷的で真面目な雰囲気を、一気に日常へと引き戻します。まるで、「まあ、そんなに気張らなくてもいいじゃないか」とでも言うように。このあっけない幕切れは、深刻になりすぎず、どこか軽やかさを残しており、読後感に不思議な爽やかさをもたらします。人生は、シリアスな決意表明だけで成り立っているわけではなく、こうした些細な、偶発的な出来事の連続でもあるのだ、ということを示唆しているようにも思えます。
作中で引用されるフランソワ・ヴィヨンの詩、「大貧に、大正義、望むべからず」や、「若き頃、世にも興ある驕児たり…」といった一節は、この物語のテーマと深く響き合っています。貧しさの中では高潔な理想を保つことは難しい、若き日の傲慢さはやがて失われ、老いとともに口をつぐむようになる、といったヴィヨンの諦念にも似た詩句は、「私」や佐伯が抱える若さゆえの葛藤や、将来への漠然とした不安を映し出しているかのようです。しかし、太宰は単に諦念を描くだけではありません。たとえ欠点だらけで、格好悪くても、懸命に生きようとする若者たちの姿を通して、そこに宿る切実さや美しさを肯定しようとしているのではないでしょうか。
また、「私」が口ずさむ『アルト・ハイデルベルク』の歌も、作品に彩りを添えています。「♪むかしの姿、いまいずこ、ああ、わがハイデルベルク…」という歌詞は、過ぎ去った青春への郷愁や、失われたものへの哀感を漂わせます。しかし、物語の登場人物たちは、まさにその青春の渦中にいます。彼らにとっては、未来こそが不確かであり、今この瞬間をどう生きるかが問題なのです。この歌は、彼らの現在と、いずれ訪れるであろう過去へのまなざしとを対比させ、物語に奥行きを与えています。
この「乞食学生」というタイトルも、非常に示唆的です。「乞食」という言葉には、物質的な貧しさだけでなく、精神的な飢餓感、他者からの承認や愛情に対する渇望といった意味合いも含まれているように思えます。「私」も佐伯も、そしておそらく熊本君も、何かしらの欠落感を抱え、それを埋めようともがいている「精神の乞食」なのかもしれません。彼らは、互いに反発し合い、見栄を張り合いながらも、どこかで繋がりを求め、理解し合おうとしています。その不器用なやり取りの中にこそ、この物語の核心があるように感じられます。
舞台となった玉川上水や井の頭公園の描写も、作品の雰囲気を豊かにしています。葉桜のトンネル、濁った水の流れ、人喰い川の伝説といった風景は、登場人物たちの内面と呼応し、時に彼らの心情を代弁しているかのようです。特に、冒頭の「青葉のトンネル」の描写は、「ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い」という「私」の言葉と結びつき、自然の美しさと、それに対する憧憬、そして自身の創作への葛藤を象徴しています。太宰が実際に暮らした三鷹の風景が、作品世界にリアリティと詩情を与えています。
この作品が書かれた1940年という時代背景を考えると、また違った感慨も湧いてきます。日中戦争が泥沼化し、やがて太平洋戦争へと突き進んでいく暗い時代の中で、このような若者の純粋さや葛藤を描いた作品が生み出されたことには、ある種の奇跡のようなものを感じます。もちろん、作品の中に直接的な戦争の影はほとんど見られません。しかし、時代の閉塞感や不穏な空気は、登場人物たちの根拠のない不安や焦燥感と、無関係ではないのかもしれません。そんな時代だからこそ、太宰は若さの中に宿る普遍的な輝きを描き留めようとしたのではないでしょうか。
「乞食学生」は、決して派手な事件が起こるわけでも、明確な結末が示されるわけでもありません。しかし、読者の心に深く、長く残り続ける作品です。それは、誰もが経験する(あるいは経験しなかったとしても想像できる)青春期特有の、自意識過剰と自己嫌悪、理想と現実のギャップ、友情の芽生えと衝突といった、普遍的なテーマを扱っているからでしょう。そして、太宰治ならではの、人間の弱さや滑稽さを温かい眼差しで見つめ、それをペーソス溢れる筆致で描き出す手腕が、遺憾なく発揮されているからです。
読むたびに、登場人物たちの青臭さや不器用さに、少し呆れたり、苦笑したりしながらも、最後にはなぜか胸が熱くなる。そんな不思議な魅力を持った作品です。彼らの姿は、欠点だらけで、矛盾を抱えながら生きる私たち自身の姿を映し出す鏡なのかもしれません。そして、どんなに格好悪くても、不器様でも、前を向いて歩いていこうとする小さな勇気を、そっと与えてくれるような気がするのです。
まとめ
太宰治の「乞食学生」は、若さゆえの葛藤、自己嫌悪、そして不器用ながらも通い合う心を鮮やかに描いた作品です。自信のない小説家の「私」と、風変わりな学生・佐伯五一郎との出会いから始まる物語は、読者を青春時代特有の空気感へと誘います。
物語の結末部分にも触れながら、その詳しい流れを追ってきました。登場人物たちの見栄や虚勢、青臭い理想論の中に垣間見える純粋さや、友情の兆しは、読む者の心を打ちます。特に、最後の乾杯シーンと、その直後のあっけない幕切れは、深い余韻を残します。
また、この作品が持つ魅力について、私なりの解釈や考えを詳しく述べさせていただきました。ヴィヨンの詩や時代背景との関わり、登場人物たちの心理描写の巧みさ、そして太宰治ならではの温かい眼差し。これらが一体となって、「乞食学生」を単なる青春物語以上の、普遍的な価値を持つ作品にしているのだと思います。
まだ読んだことがない方はもちろん、以前読んだことがある方も、ぜひこの機会に再読してみてはいかがでしょうか。きっと、新たな発見や共感が待っているはずです。瑞々しくもほろ苦い、青春の断片がここにあります。