小説「メリイクリスマス」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
太宰治が終戦直後の東京を舞台に描いた短編小説、「メリイクリスマス」。皆さまは読まれたことがありますでしょうか。津軽での疎開生活を終え、東京に戻ってきた語り手の「私」が、かつて親しくしていた女性の娘、シヅエ子と偶然再会するところから物語は始まります。五年という歳月は、少女を大人へと変えていました。
この再会が、予期せぬ事実を明らかにし、物語は静かに、しかし深く動き出します。シヅエ子の口から語られる、広島での悲劇。それは、彼女の母親の死でした。「私」にとって、気兼ねなく話せる数少ない存在だった女性の、突然の、そして取り返しのつかない喪失。その事実を胸に、「私」とシヅエ子が見せる行動とは。
この記事では、「メリイクリスマス」の物語の筋道を詳しく追いながら、その結末、つまり物語の核心部分にも触れていきます。さらに、作品を読み解く中で感じたこと、考えたことを、少し長くなりますが、丁寧にお伝えできればと思っています。太宰治が描く、喪失と再生、そして変わらない日常の哀歓に、一緒に浸ってみませんか。
小説「メリイクリスマス」のあらすじ
物語の語り手である「私」、笠井は、一年三ヶ月に及んだ津軽の生家での疎開生活を終え、一九四六年の十一月、妻子を連れて東京へ戻ってきました。焼け跡が残るものの、人々の営みには以前と変わらない空気が流れているように感じられます。彼は、くるめがすりの着流しに二重まわしという出で立ちで、街を散策していました。
十二月のある日、「私」は立ち寄った本屋で、思いがけない人物に再会します。それは、五年前に親しくしていた女性の娘、シヅエ子でした。彼女はもう二十歳になっており、緑色の帽子に真紅の外套(レンコオト)という、どこかクリスマスを思わせる装いをしていました。
シヅエ子の母親は、「私」が心を許せる稀有な存在でした。互いに恋愛感情はありませんでしたが、彼女の家では心置きなく酔うことができたのです。しかし、太平洋戦争が始まる前に母娘は広島へ疎開し、それきり音信不通になっていました。「私」はシヅエ子との再会を喜び、彼女が探していた本「アリエル」が、かつて母親とよく話題にしていた作品であることに気づきます。シヅエ子がその本のことを忘れられなかったと聞き、「私」は、彼女が自分に特別な感情を抱いているのではないか、と少し自惚れた気持ちになります。
母親の話になると表情を曇らせるシヅエ子の様子を、自分への嫉妬かもしれないと解釈した「私」は、彼女を口説こうと考え、母親も一緒に住んでいるというアパートへ案内させます。しかし、アパートの前で母親を呼ぼうとした瞬間、シヅエ子は泣き崩れ、衝撃の事実を告白します。母親は広島の原子爆弾投下によって亡くなっており、死の間際に「私」の名前をうわ言のように口にしていた、と。シヅエ子は、母親の死を言い出せないまま、「私」をここまで連れてきてしまったのでした。
部屋には入らず、「私」はシヅエ子を連れて近くの鰻屋の屋台へ向かいます。そして、亡き母親が好きだった鰻の小串を三人前注文し、皿もコップも三つ用意するように頼むのです。黙って酒を飲み、鰻を食べていると、屋台の奥にいた酔った紳士が、通りかかったアメリカ兵に向かって「ハロー、メリイ、クリスマス!」と季節外れの挨拶を叫びます。兵士は怪訝な顔をして去っていきました。
「私」は、この光景に、やはり東京は何も変わらない、と感じます。そして、皿の中央に一つだけ残っていた鰻の串を、シヅエ子と半分ずつ分け合って食べるのでした。悲しみの中でも、日常は続いていく。そんな現実をしみじみと感じさせる結末です。
小説「メリイクリスマス」の長文感想(ネタバレあり)
「メリイクリスマス」を読み終えたとき、なんとも言えない、静かで深い余韻に包まれました。終戦直後の東京という、混沌としながらもどこか日常が続いている空気感。その中で描かれる、ささやかな再会と、突然突きつけられる喪失。太宰治という作家が持つ、人間の弱さや滑稽さ、そしてその奥にある哀しみや愛おしさを描き出す筆の力が、この短い物語の中に凝縮されているように感じます。読んでいる間、私の心は静かに揺さぶられ続けました。
まず、語り手である「私」、笠井という人物に注目してみましょう。一年三ヶ月ぶりに津軽から戻った彼は、東京の街を見て「以前と何も変わらない」と感じます。くるめがすりに二重まわしという服装も、どこか世間から浮遊しているような、彼の内面を表しているのかもしれません。戦後の変化を目の当たりにしながらも、彼の心の中には、ある種の停滞感や、現実への微妙な距離感があったのではないでしょうか。この「変わらない」という感覚が、物語の終盤で再び繰り返されるとき、その意味合いが変化していく点も見逃せません。
そんな彼が、本屋でシヅエ子と再会する場面は、物語の大きな転換点です。五年という歳月を経て大人になったシヅエ子。緑の帽子に赤い外套という姿は、確かにクリスマスの色彩を帯びていますが、物語の季節は十二月初旬。そして、この後の展開を知ると、その色彩がどこか物悲しい対比を生んでいるようにも思えてきます。かつて「私」が唯一「恐怖困惑せずにすむ」相手だったという母親。その娘との再会は、過去への扉を開くきっかけとなります。
母親との関係性の描写は、実に太宰らしいと感じます。「恋とか愛とか、そんなものすごいものでは決して無かった」と言いながらも、彼女の存在が彼にとっていかに特別だったかを語る。貴族の生まれで美しく、財産もある。しかし、それらが理由ではないと否定し、最終的に「綺麗好き」であること、そして何より「酒を飲ませてくれる」ことを挙げる。このあたりの、照れ隠しなのか本音なのか判然としない、人間の屈折した心理描写は、読者を引きつけます。彼が感じていた安らぎは、社会的な体面や恋愛感情といった複雑な関係性を抜きにした、もっと素朴な人間同士の繋がりの中にあったのかもしれません。
しかし、そんな感傷的な回想から一転、「私」は目の前のシヅエ子に心を動かされ始めます。彼女が自分に好意を持っているのではないかと勘違いし、「こいをしちゃったんだから」とまで思う。この自己中心的な思い込み、ある種の軽薄さは、読んでいて少し呆れてしまうほどです。母親への感傷と、その娘への下心が同居してしまう。このどうしようもない人間臭さ、弱さこそが、太宰作品の魅力の一つでもあるのでしょう。読者は、この「私」の姿に、苦笑しつつも、どこか共感してしまう部分があるのではないでしょうか。
シヅエ子が探していた「アリエル」という本も、象徴的に感じられます。かつて母親と語り合った本を、シヅエ子が忘れられずにいた。それは、母親への思慕の念なのか、それとも「私」への淡い想いの表れだったのか。あるいは、その両方だったのかもしれません。「私」は後者だと解釈しますが、真実は曖昧なままです。この曖昧さが、物語に奥行きを与えています。過去と現在、母と娘、そして「私」を結びつける、細く、しかし確かな糸のような存在として、この本は機能しているように思えます。
そして訪れる、衝撃の告白。アパートの前で、母親が広島の空襲で亡くなったことを知らされる場面。「私」の甘い期待や感傷は、一瞬にして打ち砕かれます。シヅエ子の涙と告白は、戦争という抗いようのない現実の爪痕を、生々しく突きつけてきます。母親が死の間際に「私」の名を呼んでいたという事実は、彼の心を深く揺さぶったはずです。彼の軽薄な思い込みは、ここで完全に崩壊し、彼は深い喪失感と、シヅエ子に対する申し訳なさのような感情に包まれたのではないでしょうか。彼の「バカ」さが、最も際立つ瞬間とも言えます。
その後の鰻屋のシーンは、この物語の白眉と言えるでしょう。なぜ、鰻屋だったのか。それは、亡き母親が好きだったから。そして、三人前の鰻と酒を注文する行為。これは、亡き母親を含めた三人の食卓を再現しようとする、彼なりの弔いの形なのでしょう。言葉少ないながらも、そこには深い悲しみと、故人への想いが込められています。部屋に入らず、屋台という開かれた空間を選んだことにも、何か意味があるのかもしれません。閉ざされた空間での感傷に浸るのではなく、日常の喧騒の中で静かに死者を悼む。そんな姿が描かれています。
黙々と酒を飲み、鰻を食べる二人。そこに響く、酔った紳士の「ハロー、メリイ、クリスマス!」。季節外れの、そして場違いなこの呼びかけは、強烈な印象を残します。戦争が終わっても変わらない、人々の軽薄さや無神経さ。あるいは、悲しみの淵にある人々のすぐ隣で、無邪気に続けられる日常の営み。この対比が、戦後の東京の空気を、そして人生の持つある種の不条理さを象徴しているようです。アメリカ兵の怪訝な表情も、この場の奇妙な雰囲気を際立たせています。
この「メリイ、クリスマス!」という言葉が、そのまま作品のタイトルになっている点は、非常に示唆的です。単なる季節外れの挨拶として片付けるには、あまりにも強い響きを持っています。それは、平和への希望の象徴なのか、それとも空虚な響きに過ぎないのか。あるいは、悲しみの中にもたらされる、予期せぬ瞬間のきらめきのようなものなのかもしれません。解釈は読者に委ねられていますが、このタイトルが、物語全体に複雑な陰影を与えていることは確かです。
そして、最後に残された一本の鰻を、二人が分け合って食べる場面。弔いのために用意された鰻を、結局は生者が食べてしまう。この行為は、一見すると不謹慎にも思えるかもしれませんが、むしろ非常に人間的な行為ではないでしょうか。悲しみの中でも、人は生きていかなければならない。食べなければ、生きていけない。死者を悼む心と、生きていくための現実的な欲求が、そこには同居しています。神妙な弔いの儀式が、最後はごく自然な食事の風景へと着地する。この流れに、私は深い共感を覚えました。
物語の最後で、「私」は再び「東京は相変らず。以前と少しも変らない。」と呟きます。しかし、この言葉は冒頭のそれとは明らかに響きが異なります。表面的には変わらない街の風景、酔っ払いのくだらない冗談。しかし、その「変わらない」日常の中で、かけがえのない人がいなくなってしまったという事実。「私」は、その喪失感を抱えながら、変わらない(ように見える)東京の街に佇んでいるのです。それは、死者だけを置き去りにして、無情にも時間は流れ、街は動き続けていくという、一種の諦念やもの悲しさを伴った認識ではないでしょうか。
太宰治の文章は、時に軽やかに、時に深く沈み込むように、読者の心を捉えます。この「メリイクリスマス」においても、語り手の内面の揺れ動き、シヅエ子の健気さ、そして戦後の空気感が、独特のリズムと繊細な言葉遣いで描かれています。決して声高に叫ぶのではなく、日常のささやかな出来事の中に、人生の哀歓や真実を映し出す。彼の筆致は、人間のどうしようもない弱さや滑稽さを、決して突き放すことなく、むしろ温かい眼差しで見つめているように感じられます。だからこそ、私たちは彼の描く人物たちに、どこか愛おしさを感じてしまうのかもしれません。
この作品が問いかけるテーマは、多岐にわたるでしょう。死と生、記憶と忘却、戦争がもたらした喪失感、人間関係の脆さと温かさ、そして日常の中に潜むささやかな救い。派手な出来事が起こるわけではありませんが、読後には、人生というものについて、静かに考えさせられるはずです。特に、大きな喪失を経験した後でも、人々が生きていく姿、そして変わらない日常が続いていくことの、ある種の残酷さと尊さが、胸に迫ります。
「メリイクリスマス」は、太宰治の作品群の中では、比較的知名度が高いとは言えないかもしれません。しかし、短い物語の中に、彼の文学のエッセンスが凝縮された、まさに逸品だと思います。悲しみと可笑しみ、喪失感と生の実感が交錯するこの物語は、読むたびに新たな発見を与えてくれるような気がします。もし未読の方がいらっしゃれば、ぜひ一度手に取ってみてはいかがでしょうか。きっと、あなたの心にも、静かで深い余韻を残してくれるはずです。
まとめ
太宰治の短編小説「メリイクリスマス」は、終戦直後の東京を舞台に、語り手「私」が経験する、ある冬の日の出来事を描いた物語です。津軽から戻った「私」が、かつて親しかった女性の娘シヅエ子と再会し、彼女の母親が広島の原爆で亡くなっていたことを知る、という筋立てになっています。
物語の核心は、母親の死を知った後の「私」とシヅエ子の行動にあります。彼らは鰻屋の屋台で、亡き母親のために三人前の鰻と酒を注文し、静かに故人を偲びます。その中で響く、季節外れの「メリイ、クリスマス!」という酔客の声。そして最後に、残された鰻を二人で分け合って食べる場面は、喪失の中でも続いていく日常と、人間の持つたくましさ、あるいは哀しいまでの現実を象徴しているかのようです。
この作品は、太宰治特有の、人間の弱さや滑稽さを描き出す筆致が光ります。「私」の自意識過剰な思い込みや、感傷と下心が同居する様は、まさに人間臭さそのもの。しかし、それを単に断罪するのではなく、どこか温かい眼差しで捉えている点が、読者の共感を呼びます。戦争の影、死、そして変わらない日常が交錯する中で、登場人物たちの心の機微が繊細に描かれています。
派手さはないものの、読後に深い余韻を残す「メリイクリスマス」。人間の哀歓をしみじみと感じさせてくれる、味わい深い短編です。この記事が、皆さまにとって、この作品に触れるきっかけとなれば幸いです。