小説「ダス・ゲマイネ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治の作品の中でも、独特の雰囲気を持つこの「ダス・ゲマイネ」は、一度読んだだけでは掴みきれない、不思議な魅力に満ちています。新潮文庫の短編集『走れメロス』に収録されている一編としても知られていますね。

物語は、大学生の佐野次郎という青年の視点を中心に進んでいきます。彼が出会う個性的な人物たち、特に「まだ本気を出していないだけ」と嘯く音楽学生の馬場数馬との交流が、物語の核となります。芸術家気取りの若者たちの、どこか空虚で、それでいて切実なやり取りが描かれています。

この記事では、まず「ダス・ゲマイネ」の物語の筋道を、結末まで含めて詳しくお話しします。どのような登場人物がいて、どのような出来事が起こるのか、物語の全貌を明らかにしていきます。まだ読んでいないけれど内容が知りたい、という方にも分かりやすいように努めます。

そして後半では、この作品を読んで私が感じたこと、考えたことを、たっぷりと語らせていただこうと思います。物語の解釈や登場人物への思い入れ、タイトルの意味するところなど、様々な角度から「ダス・ゲマイネ」という作品の深層に迫っていきたいと考えています。少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

小説「ダス・ゲマイネ」のあらすじ

物語の中心人物は、帝国大学に通う学生、佐野次郎です。彼は、かつて心惹かれた色街の女性に似ているという理由で、上野公園の甘酒屋で働く娘、菊ちゃんに淡い思いを寄せていました。お金がない時には、彼女の姿を眺めに行くのがささやかな慰めだったのです。

その甘酒屋で、佐野は馬場数馬という風変わりな男と知り合います。馬場は上野の音楽学校に籍を置いていると自称し、「まだ本気を出していないだけ」と大言壮語を繰り返す、どこか掴みどころのない人物でした。しかし、純粋な佐野は馬場の芸術家めいた言葉を信じ込み、二人は親しくなります。

ある日、馬場は佐野に「一緒に同人雑誌を作らないか」と持ちかけます。芸術への漠然とした憧れを抱いていた佐野は、この提案に心を動かされます。馬場は、挿絵を頼む相手として、親戚で画家の佐竹六郎を紹介すると言います。佐竹は、自身の絵を売って生計を立てている、馬場とは対照的に地に足のついた青年でした。

しかし、佐野が偶然出会った佐竹から聞かされたのは、衝撃的な事実でした。佐竹は、馬場が語る武勇伝や経歴のほとんどが嘘っぱちであると暴露します。音楽学校に通っているかすら怪しく、いつも持ち歩いているヴァイオリンケースは空っぽだと言うのです。それでも佐野は、「馬場さんを信じています」と佐竹に告げるのでした。

雑誌制作の話は進み、佐野の家で最初の打ち合わせが行われることになります。メンバーは佐野、馬場、佐竹、そして佐竹が紹介した新人作家の「太宰治」。しかし、この太宰治という作家と馬場は初対面から反りが合わず、激しい口論の末に馬場が太宰を殴ってしまい、雑誌の話は完全に頓挫してしまいます。

その夜、佐野と馬場はおでん屋で酒を酌み交わします。そこで馬場は、「雑誌なんて最初からやる気はなかった。君が好きだから、離したくなかったんだ」と佐野に思いを打ち明けます。そして「君は誰が一番好きなんだ?」と問います。佐野は「誰もみんな嫌いです。菊ちゃんだけを好きなんだ」と答え、店を飛び出します。翌日、馬場は佐竹に、佐野が昨夜、電車にはねられて死んだことを告げるのでした。馬場は「うまく災難にあったものだ」と呟き、菊ちゃんもその場に居合わせますが、馬場に「泣くな」と言われ、「はい」と答えるのみでした。「生きているというのは、なんだか、なつかしいことでもあるな」という馬場の言葉に、佐竹は「人は誰でもみんな死ぬさ」と応じるのでした。

小説「ダス・ゲマイネ」の長文感想(ネタバレあり)

この「ダス・ゲマイネ」という作品、初めて読んだ時の正直な気持ちは、「よく分からない…」でした。物語の展開が掴みにくく、登場人物たちの会話もどこか核心を避けているような、もどかしさを感じたのです。場面転換も多く、誰の視点で何が語られているのか、追いかけるだけで精一杯だったというのが実情です。面白いのかどうか、判断する余裕もありませんでした。

しかし、不思議なもので、二度、三度と読み返していくうちに、少しずつこの作品の持つ独特の味わいのようなものが分かってきた気がします。決して明快な面白さではないのですが、登場人物たちの空回りするような情熱や、彼らの抱える屈託、そしてどこか醒めたような空気感が、じわじわと心に染みてくるのです。未だに完全に消化できたとは言えませんが、確かに心惹かれる部分が多くある作品だと感じています。

まず最初に興味を引かれたのは、この物語の中に「太宰治」という名前の作家が登場することです。もちろん、作者本人とは別人格として描かれているわけですが、では、この物語の中で作者・太宰治の分身、あるいは投影と言える人物は誰なのだろうか、と考えずにはいられませんでした。

語り手である佐野次郎。彼はどこか受動的で、他人に流されやすい弱さを持っているように見えます。馬場の言葉を鵜呑みにし、雑誌制作に夢中になったかと思えば、あっさりとその夢が破れ、最後は不可解な死を遂げる。その危うさや、現実への適応が難しいような不器用さに、太宰治自身の持つある種の脆さが重なるように感じられました。彼の内面的な葛藤や苦悩が、佐野というキャラクターを通して描かれているのかもしれません。

次いで、強烈な個性を放つ馬場数馬。彼は裕福な家庭の出身で、芸術家気取りの「ビッグマウス」、佐竹に言わせれば「ホラ吹き」です。しかし、人を惹きつける妙な魅力があり、その大言壮語もどこか憎めない。彼の根拠のない自信や、現実離れした言動、そして佐野に対する執着ともいえる感情は、太宰作品によく登場する、どこか破綻した、しかし人間味のある人物像を彷彿とさせます。太宰自身の抱える虚栄心や、他者への依存心のようなものが、馬場に託されているのではないかとも思えました。

そして、馬場とは対照的な存在として描かれる佐竹六郎。彼は美大生でありながら、自らの絵を売って生計を立てる現実的な芸術家です。馬場の虚言癖を見抜き、冷ややかに批判する彼は、地に足のついた常識人にも見えます。しかし、彼もまた芸術の世界に生きる人間であり、その冷静さの裏には、芸術と生活との間で葛藤する苦悩が隠されているのかもしれません。太宰自身が、作家として生計を立てること、つまりは芸術を俗世間の価値観の中に置くことに対して抱いていたであろう抵抗感や矛盾が、佐竹というキャラクターに反映されている可能性も考えられます。

さらに、作中に登場する「太宰治」という名の新人作家。彼は佐野や馬場にとって、どこか鼻持ちならない、俗物的な存在として描かれています。自作の詩の一節をわざとらしく口ずさんだり、馬場と衝突したりする姿は、決して好ましいものではありません。これは、太宰治自身が、世間から見られるであろう「作家・太宰治」のイメージ、あるいは自身の中にある俗物的な側面を、客観的に、あるいは自嘲的に描いたものなのかもしれません。芸術の純粋性を求めながらも、名声や評価といった俗的なものから逃れられない自己矛盾を、この作中人物に投影したのではないでしょうか。

このように、「ダス・ゲマイネ」には、佐野、馬場、佐竹、そして作中の「太宰治」と、四人の主要な男性が登場しますが、その誰もが、多かれ少なかれ、作者である太宰治自身のある側面を映し出しているように思えるのです。読んでいるうちに、「この人物こそが太宰のモデルだ」と特定しようとすると、かえって混乱してしまいます。むしろ、これらの登場人物たちの間で揺れ動く感情や関係性そのものが、太宰治という一人の人間の複雑な内面世界を映し出しているのかもしれない、と考える方が自然かもしれません。

特に、雑誌制作を巡る佐野の家での議論の場面は、非常に難解です。馬場と作中太宰の間の対立は表面的なものに過ぎず、その背後には、芸術観、人生観、あるいはもっと根源的な人間同士の相容れなさのようなものが渦巻いているように感じられます。佐野がそのやり取りをただ傍観しているしかない、という構図も印象的です。読者もまた、佐野と同じように、彼らの言葉の真意を探りながら、その混乱した場の空気に引き込まれていくような感覚を覚えます。この掴みどころのなさが、かえって読者の想像力を掻き立てるのかもしれません。

そして、物語の終盤、馬場が佐野に向かって「君が好きだ」と告白する場面。この「好き」が、友情としての好意なのか、それとも恋愛感情を伴うものなのか、はっきりとは示されません。この曖昧さが、また深い余韻を残します。もし友愛だとすれば、馬場は佐野の純粋さや、自分にはない何かに対する憧れを抱いていたのかもしれません。もし恋愛感情だとすれば、馬場の抱える孤独や、他者への渇望がより切実に伝わってきます。どちらの解釈を取るかで、その後の馬場の言動、特に佐野の死に対する彼の反応の意味合いも微妙に異なってくるでしょう。この解釈の幅広さが、物語に奥行きを与えています。

物語の結末も、非常に唐突で、読者を困惑させます。佐野の死は事故として処理されているようですが、その直前の馬場との会話や、佐野が店を飛び出していく状況を考えると、本当にただの事故だったのか、疑問が残ります。馬場の「うまく災難にあったものだ」という言葉も、どこか突き放したような、それでいて奇妙な安堵感のようなものすら感じさせ、不気味です。菊ちゃんの反応も、悲しみを押さえつけているのか、それとも何か別の感情があるのか、判然としません。この宙ぶらりんな終わり方が、読後になんとも言えないもやもやとした感覚を残します。解決されない謎、消化しきれない感情が、かえってこの作品を忘れがたいものにしているのかもしれません。

タイトルの「ダス・ゲマイネ」の意味についても触れないわけにはいきません。一般的に、ドイツ語で「通俗的なもの、卑俗なもの」といった意味と、太宰の故郷である津軽の言葉で「んだすけ、まいね(だから、だめなんだ)」という嘆きを表す言葉が掛け合わされていると言われています。この二つの意味を知ると、物語の解釈がさらに深まります。

「通俗性、卑俗性」という意味合いは、登場人物たちの行動や心理に色濃く反映されています。芸術家を気取りながらも俗っぽい言動を繰り返す馬場、生活のために絵を描く佐竹、そして文学で身を立てようとする作中の太宰治。彼らは皆、純粋な芸術への憧れと、世俗的な欲望や現実との間で揺れ動いています。佐野の菊ちゃんへの想いも、純粋な恋愛というよりは、かつての女性への執着という、ある種「通俗的」な動機から始まっています。彼らの生き方や苦悩そのものが、「ダス・ゲマイネ」という言葉に集約されているようです。

一方、「だから、だめなんだ」という津軽弁の響きは、登場人物たちの抱える諦念や、どうしようもなさ、袋小路に迷い込んだような閉塞感を象徴しているように思えます。結局、雑誌制作は頓挫し、佐野は死に、残された者たちもどこか虚無感を漂わせています。彼らの試みは結局実を結ばず、「だめだった」という結末を迎える。このやるせない結末が、タイトルに込められた嘆きと共鳴するのです。この二重、三重の意味を持つタイトルが、作品全体に陰影を与え、忘れられない印象を残します。

さらに、この作品が発表された1935年という時代背景を考えると、別の解釈も浮上します。参考資料にもあったように、当時の日本はファシズムが台頭し、社会全体が息苦しい空気に包まれていた時代です。そうした時代状況に対する批判的なメッセージが込められている、という読み方も可能です。

主人公の佐野は、どこか世の中にうまく適応できず、デカダンス(退廃的)な雰囲気を漂わせています。彼の無気力さや、現実からの逃避願望のようなものは、当時の社会に対する消極的な抵抗の表れと見ることもできるかもしれません。馬場や佐竹、作中の太宰治といった芸術家たちの、空回りするような議論や行動も、自由な表現が圧殺されかねない時代における、芸術家の苦悩や無力感を反映しているとも解釈できます。

ファシズムが「国家」や「社会」といった大きなものを称揚するのに対し、「ダス・ゲマイネ」で描かれるのは、極めて個人的で、内向きで、どこか「卑俗」な若者たちの姿です。彼らの個人的な葛藤や挫折を描くこと自体が、全体主義的な風潮へのアンチテーゼとなっていた可能性も考えられます。もちろん、これが太宰の主たる意図であったかは分かりませんが、時代背景を踏まえて読むことで、作品に新たな深みが加わることは確かでしょう。

また、「自意識過剰」というテーマも、この作品を読み解く上で重要な視点です。馬場が手紙を書く際に他人の目を意識したり、作中の太宰治が芝居がかった態度をとったりする場面は、まさに自意識の表れと言えます。彼らは常に「他者からどう見られているか」を過剰に気にしています。

佐竹が馬場の自意識過剰ぶりを「見せかけだ」と批判する場面は興味深いです。「本当に自意識過剰なら、自分を表現することなんてできない」という佐竹の言葉は、当時の流行や風潮としての「自意識過剰」を安易に身にまとう人々への皮肉とも取れます。現代で言うところの「ファッション〇〇」のような、表層的な自己演出への批判が込められているのかもしれません。太宰自身も、作家として世に出る中で、他者の視線や評価というものに常に晒され、自意識との戦いを強いられていたはずです。その葛藤が、登場人物たちの言動に投影されているのでしょう。

この「ダス・ゲマイネ」という作品は、読めば読むほど、様々な解釈の可能性が広がっていく、実に多層的な物語だと感じます。最初は掴みどころがなく、難解に思えるかもしれませんが、登場人物たちの心理や、彼らが交わす言葉の裏にある意味、そして時代背景などを考え合わせながら読み進めることで、その複雑な魅力に気づかされるはずです。一度で理解しようとせず、何度も繰り返し味わうことで、その深淵に触れることができる、そんな作品ではないでしょうか。

まとめ

今回は、太宰治の「ダス・ゲマイネ」について、物語の筋道から結末、そして私なりの解釈や感じたことを詳しくお話しさせていただきました。最初に読んだときは戸惑いもありましたが、読み返すたびに新しい発見があり、その度に作品への興味が深まっていくのを感じています。

登場人物たちの個性的な造形、特に佐野、馬場、佐竹、そして作中人物としての太宰治が織りなす人間関係は、非常に複雑で、一筋縄ではいきません。彼らの会話や行動には、芸術への憧れ、現実との葛藤、自意識、そして時代の空気などが色濃く反映されており、多くの示唆に富んでいます。

タイトルの「ダス・ゲマイネ」が持つ複数の意味合い(通俗性・卑俗性、そして津軽弁の嘆き)を知ることで、物語の理解はさらに深まります。登場人物たちの生き様や、物語のやるせない結末が、このタイトルと見事に響き合っているように思います。唐突に感じられる結末も、かえって深い余韻を残します。

この作品は、すぐに面白いと感じられるタイプの物語ではないかもしれません。しかし、その難解さや曖昧さの中にこそ、読者を引きつけてやまない魅力が潜んでいるように思います。もし、この記事を読んで「ダス・ゲマイネ」に興味を持っていただけたなら、ぜひ一度、ご自身で手に取って読んでみてください。そして、あなた自身の解釈を見つけていただけたら嬉しいです。