小説『カンガルー・ノート』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
安部公房の遺作として知られる『カンガルー・ノート』は、読者を奇妙で不条議な世界へと誘う傑作です。ある朝、主人公の脛に突然生えてきたカイワレ大根。この異様な事態をきっかけに、彼は自走するベッドに乗せられ、不可思議な旅へと出発します。病院、硫黄温泉、そして賽の河原へと、現実と非現実が混濁したような情景が次々と展開していくのです。
物語は、まるで夢の中にいるかのような浮遊感を伴いながら進行します。しかし、その根底には、人間存在の根源的な問い、特に「死」という普遍的なテーマが深く横たわっています。ユーモラスでどこかコミカルな描写の裏に隠された、生と死の曖昧な境界線が、読者の心に静かに、そして鋭く突き刺さってくるでしょう。
安部公房の独特の筆致は、この作品でも遺憾なく発揮されています。乾いた筆致で淡々と語られる奇妙な出来事は、時に不条理な笑いを誘い、時にぞっとするような冷たさを感じさせます。この特異な世界観こそが、『カンガルー・ノート』を唯一無二の存在たらしめているのです。
本作は、単なる奇妙な物語として消費されるべきではありません。その深奥に秘められたメッセージは、読む者の死生観を揺さぶり、新たな視点を与えてくれるはずです。さあ、あなたもこの不思議な旅路へと足を踏み入れてみませんか?
『カンガルー・ノート』のあらすじ
主人公は、ごく平凡な文房具会社に勤めるサラリーマン。ある朝、目覚めると彼の脛にはびっしりとカイワレ大根が生えていました。その異様な光景に困惑し、彼は病院へと向かいます。診察室で医師に局部麻酔をかけられた主人公は、そのまま意識を失ってしまいます。
次に意識を取り戻すと、主人公は生命維持装置付きの頑丈な自走式ベッドに縛り付けられていました。医師からは「硫黄温泉行き」を宣告され、ベッドは彼の意思とは関係なく、街を走り出します。途中、警察官の職務質問を受けながらも、ベッドは止まることなく進み続けます。
やがて、ベッドは都市部から地下の坑道へと舞台を変え、さらに仏教的な世界観が広がる賽の河原へと向かいます。そこでは、幼い亡者たちが石を積む光景が広がっており、驚くべきことにその場所は観光地化されているようでした。小鬼たちは物悲しい歌を歌い、観光客の同情を誘います。
主人公は小鬼たちの石積を手伝い、その礼としてカイワレ大根を挟んだサンドイッチを供されます。その後も行く先々で、主人公の奇病の象徴であるカイワレ大根が様々な料理として登場し、彼はその受難を味わいます。奇妙で不条理な出来事が次々と起こり、主人公の旅はどこまでも続いていくのです。
『カンガルー・ノート』の長文感想(ネタバレあり)
安部公房が晩年に放ったこの『カンガルー・ノート』は、彼の文学世界が到達した一つの極地と言えるのではないでしょうか。読了後、一種の茫然自失にも似た感覚に襲われました。それは、物語の特異性からくるものだけでなく、その中に込められた「死」というあまりにも重いテーマが、軽妙な筆致によって逆説的に際立っていたからです。
物語の導入からして、常軌を逸しています。主人公の脛にカイワレ大根が生えるという、まさしくシュールレアリスムの極致。この奇妙な設定は、読者に一瞬の戸惑いを与えつつも、すぐさまその異世界へと引きずり込みます。カイワレ大根という、ごくありふれた野菜が、不条理の象徴として機能している様は、安部公房の非凡な着想力を改めて示していると言えるでしょう。
自走するベッドに縛り付けられ、半ば強制的に旅に出る主人公の姿は、まさに人生そのもののようにも思えました。私たちは自分の意思とは関係なく生を受け、そして死へと向かっていく。その過程で出会う様々な出来事は、時に理不尽であり、時に滑稽である。このベッドの旅は、そうした人生の縮図として見事に機能しています。
病院の場面では、医者や看護師とのやりとりもまた、どこか滑稽で、それでいて不気味です。特に、顔がスプリンクラーのように見える医者の描写は、まさに幻覚的。看護師が採血を得意とし、「ドラキュラの娘」と自称したがる設定も、血と死というモチーフを強く意識させます。彼女らの存在は、主人公が向かう先が、単なる療養所ではないことを暗に示唆しているかのようです。
物語が賽の河原へと舞台を移すあたりから、その不条理性はさらに加速します。死者の子どもたちが石を積むという仏教的なイメージと、それが観光地化されているという現代的な皮肉。この二つの要素が混在する光景は、生と死、現実と虚構の境界が限りなく曖昧になっていることを示しています。小鬼たちの歌声「オタスケオタスケオタスケヨ」は、救いを求める声であると同時に、商業主義に利用される悲劇のメタファーのようにも聞こえました。
主人公が小鬼たちを手伝い、カイワレ大根のサンドイッチを振る舞われる場面も印象的です。彼が自身の奇病の象徴であるカイワレ大根を食事として摂取するという、この矛盾した行為は、彼が自身の「死」を受け入れつつある過程を示しているのかもしれません。ヘルシー定食のラーメンの味噌汁に大量のカイワレ大根が浮かんでいる描写は、その滑稽さの中に、彼の境遇のどうしようもない悲劇性が滲み出ているように感じられました。
物語の中盤で、主人公が再び病院の共同病棟に戻ってくる展開は、旅が単なる放浪ではないことを示唆しています。そこでは、看護師とアメリカ人研究者の恋人、そして他の患者たちとの交流が描かれます。交通事故死を研究するアメリカ人研究者の存在は、「死」というテーマをより具体的に、学術的に掘り下げようとする作者の意図が感じられます。
そして、主人公の亡き母親が登場する場面は、この物語に感情的な深みを与えています。「親不孝者!」と息子を責めながらも、最後にもう一度だけ話したいと願う母親の姿は、死者との再会という願望と、それがもたらす滑稽な現実のギャップを鮮やかに描いています。ここで浮上する安楽死のテーマもまた、生命の尊厳と死の選択という、現代社会が直面する重い問いを投げかけてきます。
ベッドが故障し、主人公がそこから解放される終盤の展開は、彼が自身の運命を受け入れ、あるいはそこから一歩踏み出すことを象徴しているように思えました。これまでの旅は、ある意味で彼が「死」というものと向き合うための巡礼だったのかもしれません。そして、かつての少女、魅力的な少女との再会は、彼の冥府巡りがついに終焉を迎えることを示唆しているかのようです。
しかし、物語はここで穏やかな結末を迎えるわけではありません。最後に提示されるのは、新聞記事の抜粋。そこには、主人公と思しき人物が奇病のために病院で亡くなったことが、冷徹なまでに無機質に報じられています。この結末は、それまでのシュールな世界が実は現実と地続きであったことを、読者に突きつける衝撃的なものです。まるで、長い夢から無理やり覚まされたような、あるいは残酷な真実を突きつけられたような感覚に陥ります。
この新聞記事の挿入は、安部公房の巧みな仕掛けと言えるでしょう。物語全体が夢や幻覚であったかのように読者を錯覚させながら、最後に現実の冷酷さを突きつけることで、読者は改めて「死」の圧倒的な存在感を意識させられます。それは、物語が描くファンタジー的な世界観と、現実の生と死の厳しさとの対比を際立たせる効果があるように思えました。
『カンガルー・ノート』というタイトルもまた、意味深長です。有袋類のカンガルーは、腹の袋で子を育てるという特徴を持ちます。このイメージは、主人公が自身の肉体の中に「死」という異物を抱え込み、それを育てているかのような、はたまた、生命の儚さや、孤絶した状況でかろうじて生き延びようとする存在の象徴として解釈できるかもしれません。彼の存在は、まさしく袋の中に閉じ込められた脆弱な生命のようにも感じられます。
全体を通して、本作には安部公房の「死」に対する独自の視点が凝縮されています。悲壮感漂うテーマを、ナンセンス・コメディやシュールレアリスム的な手法で描くことで、彼は死の無意味性、あるいは日常の中に潜む不条理を浮き彫りにしています。それは、重いテーマを重く描くのではなく、あえて軽やかに、しかし冷徹に描くことで、読者の心に深く刻み込む彼の戦略だったのかもしれません。
安部公房自身が病床にあった時に書かれたという背景を知ると、この作品の持つ意味はさらに重みを増します。彼自身の死生観が、この物語の随所に散りばめられていることは想像に難くありません。まさに、彼の最期の言葉が凝縮された、魂の書と言えるでしょう。
『カンガルー・ノート』は、読む人を選ぶかもしれません。しかし、安部公房の文学に触れたいと考えるならば、避けては通れない一冊です。その不条理な世界観の中に、人間の生と死の本質が、確かに描き出されているのですから。
まとめ
安部公房の長編小説『カンガルー・ノート』は、主人公の脛に生えたカイワレ大根という奇妙な現象から始まる、不条理と死の旅を描いた傑作です。自走式ベッドに縛り付けられた主人公は、病院から硫黄温泉、そして賽の河原へと、現実と幻想が入り混じった世界を彷徨います。
物語全体を覆うのは、軽妙でありながらも冷徹なユーモアと、生と死の曖昧な境界線です。賽の河原での奇妙な観光地化や、カイワレ大根の受難、亡き母との再会など、随所にちりばめられた非現実的な描写が、読者を深く物語の世界へと引き込みます。
しかし、その根底には、「死」という普遍的で重厚なテーマが横たわっています。作者自身の死期を意識したとされる本作は、死の無意味性や生のはかなさを、独特の筆致で浮き彫りにしています。最終盤の新聞記事による abrupt な結末は、物語の虚構性を打ち破り、読者に現実の冷酷さを突きつける強烈な印象を残します。
『カンガルー・ノート』は、単なる奇想天外な物語に終わらず、読む者の死生観を揺さぶる深遠な問いを投げかける作品です。安部公房のシュールレアリスム的手法と、彼の哲学が凝縮されたこの一冊は、文学の持つ可能性を改めて感じさせてくれるでしょう。ぜひ手に取って、この独特な世界を体験してみてください。