小説「アンタッチャブル」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
本書は、警察小説の枠組みを使いながら、その常識を根底から覆すような、破天荒な物語が展開されます。生真面目な刑事が突如として常識の通用しない世界に放り込まれ、とんでもない上司の下で働くことになる、というのが物語の導入部です。この設定だけでも、何やら面白いことになりそうな予感がしますよね。
物語を牽引するのは、強烈な個性を持つ二人の主人公です。一人は、不祥事を起こして左遷された実直な刑事・宮澤武。そしてもう一人が、彼の新しい上司であり、本作のタイトルにもなっている「アンタッチャブル」な男、公安部の椿警視。この二人の出会いから、予測不可能な物語が幕を開けます。
この記事では、まず物語の結末には触れずに大まかな流れを紹介し、その後、物語の核心に迫る詳細な考察をネタバレありでお届けします。壮大な計画の全貌が明らかになった時、きっとあなたも驚きを隠せないはずです。それでは、馳星周が仕掛けた壮大な罠の世界へご案内しましょう。
「アンタッチャブル」のあらすじ
警視庁捜査一課の敏腕刑事だった宮澤武は、指名手配犯と誤認した男を追跡中に人身事故を起こし、被害者を植物状態にしてしまうという大失態を犯してしまいます。輝かしいキャリアは一瞬にして崩れ去り、彼は深い罪悪感を背負うことになりました。
この事件により、宮澤は事実上の左遷を命じられます。新たな配属先は、警視庁公安部外事三課の「特別事項捜査係」。聞こえは良いですが、その実態は組織のはみ出し者を隔離するための窓際部署でした。しかし、この異動には裏の目的があったのです。
宮澤に与えられた真の任務は、新しい上司となる椿警視を監視し、その行動を逐一報告すること。椿は、東大首席卒業の超エリートでありながら、奇行を繰り返す庁内きっての変人として知られていました。宮澤は、彼の部下であると同時に、彼を監視するスパイという二重の役割を背負わされたのです。
着任早々、椿は宮澤からもたらされた些細な情報から、「北朝鮮の工作員による東京スカイツリー爆破テロ計画」という、にわかには信じがたい壮大な陰謀の存在を断言します。宮澤は半信半疑のまま、この常軌を逸した「捜査」に巻き込まれていくのでした。果たして椿は、卓越した捜査官なのか、それともただの妄想狂なのでしょうか。
「アンタッチャブル」の長文感想(ネタバレあり)
この物語の面白さは、なんといっても「アンタッチャブル」こと椿警視のキャラクターにあります。彼は、代々高級官僚を輩出する名家の出身で、自身も東大法学部を首席で卒業し国家公務員試験もトップで合格した、絵に描いたようなエリートです。しかし、その輝かしい経歴とは裏腹に、壮絶な離婚をきっかけに「頭がおかしくなった」と噂されるほどの変人として描かれています。この巨大な矛盾こそが、物語のエンジンなのです。
読者の視点人物となるのは、実直な刑事・宮澤武です。彼は捜査一課で15年のキャリアを積んできた叩き上げでしたが、悲惨な人身事故を起こしたことで、この椿が待ち受ける狂気の巣窟へと追いやられます。宮澤は私たち読者と同じく、常識と理性の側に立つ人間です。だからこそ、彼の目を通して語られる椿の常軌を逸した言動は、より一層際立って見えるのです。
宮澤に与えられた本当の任務は、椿の部下として働くことではなく、彼の行動を監視し、上層部に報告するスパイとしての役割でした。この設定が非常に巧みで、宮澤は否応なく、椿が繰り広げる奇妙な捜査に付き合わされることになります。彼は常に「この男は本物の狂人ではないか?」という疑念と、「上司の命令には従わなくてはならない」という職務倫理の間で引き裂かれます。
物語が大きく動き出すのは、椿が突如として「北朝鮮による東京スカイツリー爆破テロ計画」の存在をぶち上げた時です。その根拠は、宮澤が報告した些細な情報に過ぎません。常識的に考えれば、誇大妄想としか思えない話です。ここから、宮澤の受難の日々が始まります。彼は、壮大な茶番に付き合わされているという確信を持ちながらも、椿の命令で尾行や張り込みといった「捜査ごっこ」に引きずり込まれていくのです。
この一連の捜査活動は、真面目にやればやるほど滑稽に見えます。特に、日本共産党員の自宅を拠点に張り込みをする羽目になる場面などは、状況の皮肉さが際立つ場面です。読者は宮澤の視点を通して、彼の苛立ちや戸惑いを共有し、この奇妙な状況を笑いながら見守ることになります。しかし、その笑いの裏には、巧妙な仕掛けが隠されているのです。
椿のやり方は、一種の心理操作、いわゆる「ガスライティング」に似ています。彼は圧倒的な階級と知性を武器に、宮澤の常識的な反論をいとも簡単に封じ込め、自らの突拍子もない仮説を事実であるかのように語ります。そして、捜査が進むにつれて、椿の仮説を補強するかのような曖昧な出来事が偶然のように起こるのです。これにより、宮澤は「もしかしたら、この狂人の言うことが正しいのかもしれない」と、自らの判断力に自信をなくしていきます。この心理的な揺さぶりが、物語に絶妙な緊張感を与えています。
物語をさらに複雑にするのが、宮澤が植物状態にしてしまった被害者の娘、浅田千紗の存在です。宮澤は罪滅ぼしのために彼女の父親の病室を訪れますが、そこで待っているのは千紗からの冷たい憎悪でした。彼の罪悪感は、彼女に対して彼を非常に弱い立場に追い込みます。
ところがある日、二人の関係は奇妙な形で変化します。酔った千紗が宮澤に「責任を取れ」と迫り、二人は一夜を共にしてしまうのです。その日を境に、彼女はまるで二つの人格を持っているかのように振る舞い始めます。普段は古風で控えめな女性ですが、ひとたびお酒を飲むと、非常に大胆で積極的な女性へと豹変するのです。
宮澤はこの不可解な関係に混乱しながらも、次第に千紗に本気で惹かれていき、結婚まで考えるようになります。しかし、この恋愛劇の裏には、実は操り師がいました。そう、すべては椿が仕組んだことだったのです。彼が千紗に「でたらめ」を吹き込み、宮澤に近づくように仕向けていたのでした。宮澤は、恋愛という最も個人的な感情さえも、椿に支配されていたのです。
この千紗をめぐる一連の出来事は、椿という人物の行動様式を象徴しています。彼女の極端な人格の変化は、一見すると不自然に感じられるかもしれません。しかし、これこそが椿が仕掛ける壮大な「テロ計画」という、ありえない物語の縮図なのです。千紗の行動も、テロ計画も、どちらも「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と思わせる点で共通しています。そして、その裏に椿の操作があったとわかることで、すべての辻褄が合うようにできているのです。
物語はクライマックスに向けて一気に加速していきます。テロ決行日とされた日が近づくにつれ、張り込みや情報収集は緊迫の度合いを増し、宮澤は疑念を抱きながらも、プロの刑事として職務を全うしようとします。ここでの描写は、王道のスリラー作品のように読者の心を惹きつけ、本当に大事件が起きるのではないかという緊張感を生み出すことに成功しています。
そして、ついにクライマックスの時が訪れます。椿と宮澤は、存在しないはずのテロを「未然に防ぐ」ために行動し、見事に「作戦成功」を収めます。大げさな宣言、見せかけの危機、そして起こるはずのなかった大惨事の回避。外部の目から見れば、彼らは東京を救った英雄として映ったことでしょう。この見せかけの成功が、最後のどんでん返しへの完璧な舞台装置となるのです。
ここからが、この物語の核心です。北朝鮮によるテロ計画は、すべてが椿によって捏造された、完全な「自作自演のでっち上げ」でした。彼の目的はテロの阻止などではなく、警察組織と政府内部における権力闘争、つまり官僚的なクーデターを引き起こすことだったのです。
椿の真の狙いは、自らが作り出した国家的な危機を利用して、敵対する派閥の人間、特に警察組織のトップである警視総監や、個人的に嫌っていた幹部たちを失脚させることでした。彼は、テロが「すんでのところで回避された」という状況を作り出すことで、情報共有の失敗といった「組織の不手際」を露呈させ、その責任を標的たちに押し付けたのです。結果、彼らは次々と引責辞任に追い込まれていきました。
この壮大な計画を可能にしたのは、彼の天才的な知性、そして代々高級官僚を輩出してきた一族が持つ莫大な富と権力でした。彼はその資産を使って役者を雇い、陰謀の幻影を完璧に創り上げたのです。そして何より、不祥事を起こした有能な刑事である宮澤を「信頼できる語り手」として利用したことが、この計画の成功に決定的な役割を果たしました。宮澤からの報告は、この嘘を真実であるかのように見せかける上で、この上ない効果を発揮したのです。
この物語は、私たちが生きる現代社会への痛烈な風刺でもあります。椿の計画は、現実の脅威ではなく、脅威に対する「恐怖」そのものを利用します。危機を演出し、官僚たちが予測通りのパニックと自己保身に走る様は、現実世界でも見られる「見せかけの安全対策」を彷彿とさせます。国家の安全保障という大義名分が、いとも簡単に個人の権力闘争の道具になりうるという、ぞっとするような現実を突きつけてくるのです。
結末として、椿の計画は完璧に成功します。彼はこの功績(もちろん捏造されたものですが)によって昇進し、警察組織内の権力構造を自らにとって都合の良い形に塗り替えることに成功します。続編である『殺しの許可証 アンタッチャブル2』では、彼が警視正へと出世していることが語られており、彼の完全勝利がうかがえます。
一方で、宮澤は完全に袋小路に追い込まれます。捜査一課への復帰というささやかな望みは絶たれ、自分がおそるべき天才の手の中で踊らされていたという残酷な真実を知りながらも、彼の支配から逃れることはできません。彼は永遠に、この「アンタッチャブル」な上司に囚われ続けるのです。浅田千紗との関係も、その始まりが仕組まれたものであったという事実が、重い影を落とします。
最終的に、椿は「狂っている」わけではありませんでした。彼は「狂気」という認識を、自らにとって最大の武器として利用する、冷徹で卓越した策略家だったのです。彼の奇行はすべて、周囲の干渉を排除し、自らの目的を遂行するための完璧なパフォーマンスでした。『アンタッチャブル』は、その破天荒な笑いの裏に、権力構造の恐ろしさと、真実のもろさを描き出した、実に奥深い一冊だといえるでしょう。
まとめ
小説「アンタッチャブル」は、一言でいえば、常識がまったく通用しない破天荒な警察小説です。生真面目な主人公が、天才的な頭脳を持つ変人の上司に振り回される様は、読んでいて思わず笑ってしまう場面の連続でした。
しかし、物語が進むにつれて、その笑いは次第に別の感情へと変わっていきます。単なるコメディだと思っていた物語が、実は壮大な権力闘争を描いたノワールであったことが明らかになるのです。この見事などんでん返しこそ、本書最大の魅力だと感じました。
すべての真相が明かされた時、タイトルである「アンタッチャブル」という言葉が持つ、幾重にも重なった意味に気づかされ、鳥肌が立ちました。恐ろしくも魅力的な人物、椿警視の掌の上で転がされる感覚は、まさに圧巻の一言です。
痛快なエンターテイメントでありながら、その裏には社会の仕組みに対する鋭い視線も感じられます。笑って、驚いて、そして最後には少しぞっとする。そんな刺激的な読書体験を求める方に、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。