小説「むかしのはなし」のあらすじを物語の核心に触れつつ紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

三浦しをんさんが紡ぎ出す、七つの物語が収められたこの作品集は、私たちに馴染み深い日本の昔話が、もし現代に、それも世界の終わりが目前に迫る状況で生まれたとしたら、という非常に興味深い着想から成り立っています。あと三ヶ月で巨大隕石が地球に衝突するという、絶望的で切迫した状況が、全ての物語の背景にあるのです。

そんな極限状態の中で、人々は何を思い、どう行動するのでしょうか。選ばれた者だけが乗れる木星への脱出ロケットという、かすかな希望。しかし、ほとんどの人々にとっては、それは手の届かない星のようなもの。日常が非日常へと変貌し、世界の終わりが現実味を帯びてくる中で、登場人物たちはそれぞれの「むかしのはなし」を、まるで告白するように語り始めます。

この記事では、それぞれの物語がどのような昔話に着想を得ていて、終末の世界でどのように生まれ変わったのか、その物語の筋を辿りながら、心に残ったこと、考えさせられたことを、物語の結末にも触れながら、たっぷりと語っていきたいと思います。どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

小説「むかしのはなし」のあらすじ

「むかしのはなし」は、地球滅亡が三ヶ月後に迫るという極限状態を舞台に、日本の古典的な昔話をモチーフとした七つの短編が織りなす物語集です。人々の唯一の希望は、抽選で選ばれた者だけが乗れる木星への脱出ロケット。そんな終末的な状況下で、登場人物たちはそれぞれの胸の内を、一人称の独白や告白といった形で吐露していきます。

物語の語り手は様々で、ホストクラブのホストであったり、十六歳の少女であったり、女性のタクシードライバーであったりします。彼らの語りは、時に刑務所の中から、あるいは病院のベッドの上から、すでに出発してしまったロケットの中から、未来の誰かに宛てて、あるいは観葉植物に向かって綴られる日記の形で、静かに、しかし切実に響いてきます。

それぞれの物語は独立しているようでいて、登場人物やテーマが微妙に絡み合い、大きなタペストリーのように繋がっています。例えば、「かぐや姫」を思わせる話があったかと思えば、「花咲か爺」や「浦島太郎」、「桃太郎」といった、誰もが知る物語が、現代的な、そして終末的な解釈で再構築されているのです。

迫りくる世界の終わりは、単なる背景ではありません。それは人々の本性を炙り出し、彼らの行動や選択を色濃く映し出す触媒として機能します。日常が崩壊していく中で、愛、喪失、裏切り、記憶、そして運命といった普遍的なテーマが、より一層際立って描かれます。

各物語は、語り手の個人的な体験が、滅びゆく世界の「むかしのはなし」へと変容していく様を描いています。それはまるで、世界の終わりに際して、自分という存在が生きた証を、物語という形で残そうとする切ない願いのようにも感じられます。

そして、これらの物語群は、まるでリレーのように繋がっていきます。ある物語の小さな要素が、次の物語へと受け継がれ、やがて最後の物語へと収斂していく構成は、読む者を深く引き込みます。

小説「むかしのはなし」の長文感想(ネタバレあり)

三浦しをんさんの「むかしのはなし」を読み終えたとき、なんとも言えない、胸の奥がざわつくような、それでいて不思議な静けさに包まれるような感覚を覚えました。隕石衝突による世界の終末という、とてつもなく大きな出来事を背景にしながらも、そこで語られるのは非常に個人的な、心のひだに触れるような物語たち。その一つ一つが、古くから伝わる日本の昔話の骨格を持ちながら、全く新しい物語として立ち上がってくる様に、ただただ引き込まれました。

最初の物語「ラブレス」は、「かぐや姫」がモチーフです。語り手はホストの男性。彼の語る恋愛模様は、どこか現実離れしていて、手の届かないものを追い求めるかのような儚さを感じさせます。終末が迫る世界では、人と人との繋がりはより切実なものになるはずですが、ここでの繋がりはどこか刹那的。まるで、いずれ月に帰ってしまうかぐや姫のように、永遠には続き得ない関係性を予感させます。お金を介した関係性も描かれ、それが次の「ロケットの思い出」へと繋がっていくのですが、この物語が最後の「懐かしき川べりの町の物語せよ」とも響き合っていることに気づいたとき、作品全体の構成の見事さに唸りました。

続く「ロケットの思い出」は、「花咲か爺」を下敷きにしています。主人公の部屋に泥棒が入り、それがきっかけで高校時代の記憶が蘇るという展開。ここでいう「花咲か爺」の犬や灰は、おそらく大切なペットとの思い出や、失われたものへの愛惜の念なのでしょう。盗まれたものは単なる物品だけでなく、穏やかな日常や信じていたものかもしれません。タイトルの「ロケット」は、もちろん脱出ロケットを指し、終末を間近にした人々の記憶の尊さを際立たせます。ここでの「不実」という要素が、次の物語へのバトンとなります。

「ディスタンス」は、「天女の羽衣」の物語。十六歳の少女が語り手で、十四歳年上の叔父である鉄八との、社会的には許されないであろう関係が描かれます。少女の「いつまでも追いつけない」という言葉が、どうしようもない隔たりと、禁じられた想いの苦しさを物語っていて胸が痛みます。天女が羽衣を奪われて天に帰れなくなるように、彼女もまた、この関係性から逃れられないのかもしれません。あるいは、鉄八こそが彼女にとっての「天人」で、決して自分のものにはならない存在なのかもしれません。この物語から「入り江は緑」へは、「祝福されない愛」や「親との断絶」というテーマが引き継がれます。

そして「入り江は緑」。これは「浦島太郎」です。舞台は舟屋が立ち並ぶ水のコミュニティ。語り手の「ぼく」の兄貴分である修ちゃんが、五年ぶりに女性を連れて帰ってくる。カメちゃんという登場人物もいて、モチーフが分かりやすく提示されています。時の流れの残酷さ、変わってしまったものと変わらないもの、そして取り残されたような感覚。浦島太郎が竜宮城から戻ってきたときの途方もない孤独感が、終末を前にした小さなコミュニティの変化と重ね合わされます。「入り江の緑」というタイトルも、失われゆく美しい日常を象徴しているかのようです。ここでの「車」や「乗り物の上での感情」が、次への橋渡しとなります。

「たどりつくまで」は、「鉢かつぎ姫」の物語。語り手は女性のタクシードライバーで、隕石衝突まであと二ヶ月という状況です。「どうせ死ぬなら自分の納得いく容姿で死にたい」という登場人物の言葉が、非常に印象的でした。頭に鉢をかぶって自身の美しさを隠していた姫のように、人もまた、社会的な役割や他者の目、あるいは自分自身の思い込みによって、本当の自分を隠しているのかもしれません。世界の終わりを前にして、その「鉢」を取り払い、ありのままの自分で最期を迎えたいという願いは、切実で普遍的なものだと感じました。語り手自身の性別に関する描写も、アイデンティティの揺らぎや解放といったテーマを深めています。「花とその香り」という要素が、次の物語へと繋がります。

六番目の「花」は、「猿婿入り」がモチーフ。結婚生活に疑問を感じている女性が語り手です。「どうしてこんな男と結婚したんだろう――」という冒頭の一文から、彼女の抱える不満や孤独が伝わってきます。そんな彼女の元に、ある夜、水色の百合を抱えた猿が現れる。この猿との出会いは、何を意味するのでしょうか。人間同士の関係に失望し、あるいは行き詰まりを感じている彼女にとって、人間ではない存在との間に生まれるかもしれない絆は、ある種の救いになるのかもしれませんし、あるいは新たな戸惑いを生むのかもしれません。「だまされた」という彼女の言葉には、複雑な感情が込められているように思えます。ここでの「友達」という繋がりが、最後の物語の伏線となっているようです。

そして最後の物語、「懐かしき川べりの町の物語せよ」。これが「桃太郎」をモチーフとした、作品集の中で最も長い物語です。中心人物はモモちゃんという女性。彼女の「隕石が落ちようが落ちまいが人が死ぬことは生まれた時からきまってるんだよ。何を今更」という言葉には、ハッとさせられました。死への達観、あるいは絶対的な運命の受容。その強さと潔さは、まさに現代の英雄の姿かもしれません。彼女は脱出ロケットのチケットを手に入れますが、それを他人に譲ろうとします。この行為に、モモちゃんの優しさや、死を前にした人間の気高さのようなものが凝縮されているように感じました。宇田さんという男性との関係も示唆され、物語に深みを与えています。モモちゃんの携帯電話から流れる「フィンランディア」のメロディが、静かで荘厳なエンディングを予感させます。

これらの物語は、単に昔話をなぞっているわけではありません。それぞれの物語が、現代社会の抱える問題や、人間の普遍的な感情を鋭くえぐり出し、終末という極限状況の中で、それらがどのように変容し、あるいは剥き出しになるのかを描いています。

特に印象的だったのは、各物語を繋ぐ「連鎖」の妙です。「お金」「不実」「祝福されない愛」「車」「花」「友達」といった要素が、前の物語から次の物語へとリレーのバトンのように渡されていく。それが非常に自然で、まるで一本の大きな川の流れを見ているような感覚になりました。そして、その流れは最後にモモちゃんの物語へと注ぎ込み、大きなうねりとなって読者の心に迫ってきます。

また、物語の語り口が、どれも一人称の「告白体」であるという点も重要だと感じます。彼らは誰かに聞かせるともなく、あるいは特定の誰かに向かって、自分の内面を吐露します。それはまるで、消えゆく世界の中で、自分の存在した証を、物語として残そうとする必死の叫びのようにも聞こえました。植物に語りかける者、未来の誰かに書き記す者。その行為自体が、人間にとって「物語ること」がいかに根源的で、救いとなりうるのかを示しているように思います。

三浦さんの筆致は、時に淡々と、時に情熱的に、登場人物たちの心の揺れ動きを捉えます。世界の終わりという壮大なスケールの中で、個人の小さな、しかし切実な物語が丁寧に紡がれていく。そのコントラストが、作品に独特の深みと余韻を与えています。

どの物語も、いわゆる「めでたし、めでたし」では終わりません。それはそうでしょう、世界の終わりが目前なのですから。しかし、だからこそ、そこには希望や救済とは異なる形の「決着」が描かれているように感じました。それは、後悔や痛みを抱えながらも、何かを受け入れ、あるいは誰かと僅かでも繋がり、自分なりの「けじめ」をつけるということなのかもしれません。モモちゃんの選択は、その象徴と言えるでしょう。

この作品集を読んで、私たちは普段、いかに「終わり」を意識せずに生きているか、そして「終わり」を意識した時、何が本当に大切になるのかを考えさせられました。それは高価なものでも、社会的な成功でもなく、もっとささやかな、誰かとの温かい記憶や、自分自身と向き合う時間、そして最後に誰かに何かを手渡せるような、そんな心のありようなのかもしれません。

読み終えた後、しばらくは物語の世界から抜け出せないような、不思議な感覚が続きました。それぞれの登場人物の「むかしのはなし」が、まるで自分の記憶の一部になったかのように感じられたのです。それは、三浦さんの物語の力が、私たちの心の奥深くに眠っていた何かを呼び覚ましたからなのかもしれません。重いテーマを扱いながらも、どこか澄んだ読後感を残す、忘れがたい作品です。

まとめ

三浦しをんさんの「むかしのはなし」は、終末という極限状況を背景に、誰もが知る日本の昔話を新たな視点から描き出した、非常に独創的な作品集でした。七つの物語は、それぞれが独立した輝きを放ちながらも、巧みな連鎖によって繋がり合い、一つの大きな物語世界を形作っています。

隕石衝突という抗いようのない運命を前に、登場人物たちは何を思い、何を選び取るのか。彼らの語る「むかしのはなし」は、愛、喪失、記憶、そして希望といった、人間の根源的なテーマに深く触れてきます。特に、最後の物語のモモちゃんの生き様は、私たちに「死」とは何か、そして「生きる」とは何かを改めて問いかけてくるようです。

この作品は、単に奇抜な設定や物語の面白さだけでなく、人間の心の奥底にある感情や、極限状態で見せる人間の本質を鋭く描き出している点に、大きな魅力があると感じました。読者は、登場人物たちの告白に耳を傾けるうちに、いつしか自分自身の内面と向き合わざるを得なくなるでしょう。

読み終えた後には、切なさとともに、不思議な静けさと温かさが心に残ります。もしあなたが、日常の中で何か大切なものを見失いそうになっていると感じるなら、あるいは、物語の持つ力に触れたいと願うなら、ぜひこの「むかしのはなし」を手に取ってみてください。きっと、あなたの心に深く響くものがあるはずです。