小説「にっぽん製」のあらすじをネタバレ込みでご紹介します。長文の感想も書いていますので、どうぞ。

三島由紀夫の長編小説「にっぽん製」は、1953年(昭和28年)に発表された作品で、彼の初期の創作活動における重要な位置を占めています。後に『金閣寺』や『豊饒の海』といった重厚な純文学作品で知られる三島が、大衆向けの「娯楽小説」として新聞に連載したことでも特筆される作品です。この時期、三島は同時に『秘楽―禁色 第二部』のような純文学作品も手がけており、作家としての多様な表現領域を示していました。新聞連載という形式は、大衆への訴求力や読みやすさが重視されたことを示唆しており、後の作品群とは異なる、軽妙で機知に富んだ作風が特徴です。

「にっぽん製」の核心的なテーマは、「古い日本と新しい日本のせめぎあい」であり、これは三島が終生追求した主題の一つです。本作では、恋愛小説という形式の中で、既にその萌芽が明確に描かれています。このテーマは、当時の日本社会が直面していた文化的・精神的葛藤を、登場人物の対比や恋愛の行方という形で象徴的に表現していると解釈できます。経済的な復興と文化的な西洋化が同時に進行する中で、日本人が「日本人らしさ」をどのように再定義するかという問いが、作品の根底に流れているのです。これは、三島が後の作品でより深く探求する「日本」という概念への初期の試みとも言えるでしょう。

1953年という時代背景は、作品の理解において極めて重要です。この年は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効により日本が主権を回復し、占領期を終えたばかりの時期にあたります。朝鮮戦争の特需により経済が回復基調にあり、特に繊維産業など貿易関連企業が発展を遂げました。社会的には、NHKがテレビの本放送を開始し、街頭テレビが社会現象となるなど、新しいメディアが普及し始めた時期であり、人々の生活様式に大きな変化が訪れつつありました。また、洋裁ブームやジャズ、ロックンロールといった西洋音楽の流行に見られるように、欧米の文化が急速に日本社会に浸透し、人々の価値観に大きな影響を与えていました。

作中で「片足にゲタをはいて、片足にクツをはくといふ奇妙な二重生活は、明治以来のわが現代「につぽん」の伝統である」と示唆されるように、古い日本の伝統的な価値観と、急速に流入する近代的な西洋文化が混在し、せめぎ合う過渡期であったことがうかがえます。本作は、このような時代の空気感を色濃く反映しており、戦後日本のアイデンティティ形成期における文化的葛藤が、登場人物の対比を通じて描かれています。

三島がこのような娯楽小説を執筆した背景には、単なる作家としての多作さだけでなく、当時の文壇における純文学と大衆文学の境界、あるいは作家としての生計維持、またはより広い読者層へのアプローチといった戦略的な意図があった可能性も考えられます。純文学で思想的な深みを追求しつつ、大衆小説で時代風俗や人間関係の表面的な機微を描くことで、作家としての幅を広げ、自身の文学的実験の場としていたとも解釈できるでしょう。この二面性が、三島文学全体の複雑な魅力の一端を形成しているのです。

小説「にっぽん製」のあらすじ

小説「にっぽん製」の物語は、戦後日本を舞台に、対照的な二人の男女の出会いと、その後の複雑な恋愛模様を、時にユーモラスに、時に切なく描いていきます。

物語は、パリから羽田空港へ向かうSAS(スカンジナビア航空)の機内で幕を開けます。機内には、パリで1年間デザイナー修業を終え、帰国の途についていたファッションデザイナーの春原美子と、フランスの招待試合に出場し、同じく帰国する柔道家の栗原正の二人の日本人が乗り合わせていました。2日間のフライト中、正は隣席のフランスの老婦人を親身に世話する美子の姿に深く感銘を受け、純粋に彼女を「お嫁さんにしたい」という強い想いを抱きます。

羽田空港に到着した正を待っていたのは、母の突然の訃報でした。急に独りぼっちになった正は、遺影と骨壷の前で亡き母に語りかけ、これからも母の教えに従い「正義の人生」を歩むこと、そして「年寄りに優しいお嫁さん」をもらうことを、美子の姿を思い浮かべながら誓います。この時、部屋の片隅でこっそりその様子を聞いていたコソ泥の根住次郎は、正の純粋で素朴な姿に心を打たれ、盗もうとしていた品々を正に返し、感動のあまり正を「兄貴」と慕い、子分にしてくれと頼みます。自称19歳で田舎には事情があって会えない赤ん坊がいるという次郎に、正は品の一部をくれてやります。次郎は正の恩情に感謝し、もうじき正が大山町の社員独身寮に引っ越すことを聞き、その場を去っていきます。

数日後、正は御幸通りにある美子の「ベレニス洋裁店」を訪ねます。母を亡くしたばかりの朴訥な正の姿に、美子は母性を刺激され、彼をお茶に誘います。正は、空港で美子を出迎えていたパトロンの金杉や客の笠田夫人を美子の両親と勘違いしていましたが、美子はそれを否定せず、話の流れで「両親が結婚を勧める嫌な男に悩まされている」という嘘をついてしまいます。正は美子の言葉を真に受け、「自分になんでも相談してください」と真剣に言い、いきなり美子にプロポーズをしてしまいます。美子はその唐突さに驚き、怒ったふりをしてその場を立ち去るのでした。

独身寮で美子のことで悩む正のため、根住次郎は二人が再び会うきっかけを作ろうと画策します。真夜中にベレニス洋裁店の2階に侵入し、美子が資生堂ビル2階ギャラリーで開く予定のファッションショーのために店に泊まり込みで準備していたデザイン画一式を盗んでくるのです。

早朝、正は次郎が盗んだデザイン画を返しに美子の店を訪れ、代わりに犯人を追及しないよう美子に頼みます。美子は、泥棒と付き合いがある正という意外な側面に興味を抱き、その日の日曜の昼過ぎ、御茶ノ水駅で待ち合わせ、湯島聖堂を散歩することになります。散歩中、美子はふと聖橋の上に、自分を追って探している金杉の姿を見つけます。監視され、囲われ者である自身の境遇を自覚し、美子は軽い怒りを感じます。ときどき店に泊まって仕事をしていたのも、それとなく金杉を避ける気持ちがあったからでした。

11月末のファッションショーの準備が整い、美子はパトロンの金杉と蒲郡へ旅行に出かけます。蒲郡ホテルロビーで、美子は昔付き合っていた画家・阪本と偶然再会します。阪本は美子の過去の男遍歴をよく知る男でした。金杉と阪本がカクテルを飲んでいる時、美子は以前正についた嘘の中の、「父を丸め込んでいる悪い男」の役を阪本にさせることを思いつきます。帰京すると、案の定、阪本はすぐに復縁の電話をしてきます。美子はこの機会を利用し、店の店員・桃子と正を同伴したダブルデートを仕組むのです。4人は西銀座の三国人経営のナイトクラブへ行き、阪本と正を対面させます。阪本を嫉妬させるつもりだった美子ですが、仲良く桃子と踊る正の姿を見て、美子の胸は少しざわつくのでした。

小説「にっぽん製」の長文感想(ネタバレあり)

この作品を読んだとき、まず心に響いたのは、三島由紀夫という作家の多面性でした。純文学の旗手として知られる彼が、これほどまでに軽やかで、時にユーモラスな筆致で、大衆向けの作品を描いていたことに驚きを隠せません。それはまるで、普段は重厚なタキシードをまとっている人が、休日にアロハシャツを着てビーチを散策しているような、意外な一面を垣間見る思いです。しかし、その軽やかさの中にも、彼の文学に一貫して流れるテーマの萌芽がしっかりと息づいていることに気づかされ、やはり三島由紀夫は三島由紀夫なのだと深く納得させられました。

物語の軸となるのは、春原美子と栗原正という、あまりにも対照的な二人の男女です。美子はパリ帰りのファッションデザイナーで、洗練された都会的な女性。彼女の洋裁店「ベレニス」という名前からして、すでに西洋の香りが漂っています。一方の正は、朴訥とした柔道家で、亡き母の教えをひたすらに守り、純粋な心で生きる青年です。彼が空港で美子に一目惚れし、いきなりプロポーズする場面は、そのあまりの純粋さに思わず微笑んでしまいます。この二人の存在そのものが、まさに戦後日本が直面していた「古い日本」と「新しい日本」の価値観のせめぎ合いを象徴していると感じました。

美子が象徴する「新しい日本」は、自由と自立を謳歌し、西洋文化を積極的に取り入れ、自己の欲望に忠実であろうとします。しかし、その裏には、パトロンである金杉に囲われているという、ある種の不自由さや、過去の恋愛遍歴といった複雑な側面も抱えています。彼女が正に対してついた嘘や、その嘘を補強するために元恋人の阪本を利用する狡猾さは、新しい時代を生きる女性が、社会の荒波の中で身を守り、有利に立ち回るために身につけた処世術なのかもしれません。それは、単なる悪意ではなく、現代社会を生き抜くための「仮面」のようにも見えました。

一方、正が象徴する「古い日本」は、純粋さ、正直さ、そして伝統的な倫理観を重んじます。彼は、美子の嘘や複雑な背景を全く知らず、ひたすら一途に彼女を想い続けます。その朴訥なまでの純粋さは、現代社会のあらゆる打算や策略とは無縁であり、ある種の「真実」を体現していると言えるでしょう。しかし、その純粋さゆえに、彼は時に現代社会の欺瞞に無防備であり、危うさを感じさせる場面もありました。

この作品の大きな魅力の一つは、根住次郎というコソ泥の存在です。彼は、正の母の葬儀に紛れ込み、盗みを働こうとしながらも、正の純粋な姿に心を打たれ、改心します。そして、正を「兄貴」と慕い、子分になることを志願するという、何とも奇妙で心温まる展開を見せるのです。さらに、次郎が正と美子の関係を進展させるために、洋裁店のデザイン画を盗むという、一見すると非論理的で突拍子もない行動に出る点には、思わず笑ってしまいました。彼の存在は、物語に奇妙なユーモラスさと、予測不能な展開をもたらすトリックスターの役割を担っています。同時に、社会の底辺にいる人物が、正の持つ「正義」に触れることで変化していく可能性を示唆しており、三島由紀夫が描きたかった「純粋さの力」のようなものが、この次郎という人物を通して表現されているようにも感じられました。

美子の感情の揺れ動きも、この作品の大きな見どころです。最初は正の唐突なプロポーズに驚き、怒ったふりをして立ち去る彼女ですが、正が泥棒と付き合いがあるという意外な側面に興味を抱き始めます。そして、ダブルデートで正が桃子と仲良く踊る姿を見て、「胸が少しざわつく」という描写は、美子の複雑な内面を巧みに描き出しています。彼女は、計算高く、状況を有利に進めようとする一方で、正の純粋さや素朴さに触れることで、自身の奥底に眠るより本質的な感情や、純粋な愛を求めているのではないかと感じさせるのです。この「ざわめき」は、美子が象徴する「新しい日本」が、その表層的なモダンさや合理性の裏側で、正が象徴する「古い日本」の持つ純粋さや素朴さに無意識のうちに惹かれている、あるいはそれらを完全に捨て去ることへの寂寥感を感じている可能性を示唆しています。恋愛の感情の揺らぎが、そのまま時代の精神的葛藤を映し出す鏡となっているように思えました。

三島由紀夫の作品は、しばしば難解で哲学的であると評されますが、「にっぽん製」は、そうしたイメージとは一線を画しています。新聞連載という形式が示すように、読者が気軽に楽しめる娯楽性、物語の面白さ、キャラクターの魅力、そしてテンポの良い展開が重視されています。しかし、その中にあって、三島由紀夫が終生追求した「日本」というテーマがしっかりと根底に流れていることに感銘を受けました。軽妙な筆致の中に、時代の空気と人間の内面的な葛藤を巧みに織り交ぜる三島の作家性が光る作品と言えるでしょう。

特に、戦後復興期の日本社会の様子が生き生きと描かれている点も興味深いところです。ファッション、洋裁店、ナイトクラブ、柔道、独身寮、コソ泥といった当時の世相が、物語の背景として鮮やかに描かれており、当時の人々の生活や価値観を垣間見ることができます。これは、歴史の資料としても価値のある作品だと感じました。

「古い日本と新しい日本のせめぎあい」というテーマは、三島文学全体を貫く重要な主題ですが、「にっぽん製」では、これを柔道家とファッションデザイナーの恋愛という、非常に分かりやすく大衆的な設定で描いています。これは、三島が自身の思想的テーマを、純文学という限られた読者層だけでなく、新聞連載という広範なメディアを通じて、より多くの人々に届けようとする意図があったことを示唆します。複雑な哲学や思想を直接的に語るのではなく、身近な人間関係や社会現象に落とし込むことで、読者に共感と考察を促す「通俗化」の戦略と見ることができます。これにより、三島は自身の文学的影響力を拡大し、後のより深い作品への布石を打っていた可能性もあるでしょう。

本作を読むことで、三島由紀夫という作家の奥行きを改めて感じることができました。彼の作品は、決して一面的ではなく、様々な角度から楽しむことができるのだということを、この「にっぽん製」が教えてくれたように思います。現代社会においても、グローバル化の進展の中で自国の文化や伝統と、外来の価値観との間で揺れ動く状況は変わらない普遍的なテーマとして存在します。この作品は、約70年前の日本の姿を通じて、私たち自身のアイデンティティや、変化する時代の中で「真実」とは何かを問い続ける普遍的な問いを投げかけているのです。

まとめ

三島由紀夫の「にっぽん製」は、単なる恋愛物語としてだけでなく、戦後日本のアイデンティティが揺れ動く中で、伝統と近代、東洋と西洋の価値観がいかにせめぎ合い、混じり合っていたかを鮮やかに描き出した作品です。朴訥な柔道家・栗原正と、洗練されたファッションデザイナー・春原美子の対照的な人物像は、当時の日本社会が抱えていた二重性を象徴しています。

美子の嘘と策略、そして正の純粋な求婚という恋愛の行方は、表面的な「新しい日本」の華やかさの裏に潜む複雑さや、それでもなお失われずに残る「古い日本」の精神的な価値を浮き彫りにします。根住次郎のような脇役の予期せぬ介入は、物語に偶然性と皮肉な展開をもたらし、社会の底辺にいる人物が純粋さに触れて変化する可能性を示唆しつつ、現代社会の複雑な側面を描き出しています。また、美子の感情の「ざわめき」は、新しい価値観の中で生きる女性の内面的な葛藤と、より本質的な感情への希求を映し出しています。

本作は、三島由紀夫の初期の「娯楽小説」としての位置づけでありながらも、彼が終生追求した「日本」というテーマの萌芽を明確に示しています。軽妙な筆致の中に、時代の空気と人間の内面的な葛藤を巧みに織り交ぜる三島の作家性が光る作品と言えるでしょう。

現代社会においても、グローバル化の進展の中で自国の文化や伝統と、外来の価値観との間で揺れ動く状況は変わらない普遍的なテーマとして存在します。この作品は、約70年前の日本の姿を通じて、私たち自身のアイデンティティや、変化する時代の中で「真実」とは何かを問い続ける普遍的な問いを投げかけているのです。