小説『さかさ星』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

貴志祐介先生の『さかさ星』は、その重厚な物語と多層的な恐怖の描写で、読者を深く引き込む長編ホラー作品です。私はこの作品を読み終えた時、単なる怪談や心霊現象に留まらない、人間の業と歴史の深淵に触れるような感覚に包まれました。貴志先生のこれまでの作品とは一線を画す「超自然ホラー」への踏み込みは、新たな地平を切り開いたと言えるでしょう。

物語は、不可解な惨劇から幕を開けます。福森家の広大な屋敷で起きた凄惨な事件は、単なる人間の犯行では片付けられない、何か禍々しいものの存在を予感させます。この冒頭の描写から、読者は既に得体の知れない恐怖の渦へと誘い込まれることになります。

そして、心霊系YouTuberの主人公・中村亮太が、この事件の謎に挑むことになります。彼の軽妙なキャラクターと、後に明らかになる霊能者・賀茂禮子との対比が、物語に独特の奥行きを与え、読者は彼と共に戦慄の体験を共有することになります。

小説『さかさ星』のあらすじ

物語は、戦国時代から続く旧家、福森家で起きた凄惨な一家惨殺事件から始まります。親族4人が無残な姿で発見され、現場には何らかの儀式を行ったかのような不気味な痕跡が残されていました。当初、事件の犯人は福森家の八重子と目され、行方をくらましている状況です。

そんな中、福森家と親戚関係にある心霊系YouTuberの中村亮太は、祖母からの依頼を受けて事件の調査に赴きます。しかし、彼はこの悲劇的な出来事を自身のYouTubeチャンネルの動画ネタとしても利用しようと目論んでいました。亮太はどこか頼りなく、オカルトに関する知識も乏しい、ごく普通の若者として描かれています。

祖母の紹介で、亮太は並外れた霊能力を持つとされる霊能者・賀茂禮子と出会います。賀茂は、福森家が長年収集してきた数々の美術品が、実は恐ろしい呪物であり、その中のどれかが今回の惨殺事件を引き起こしたのだと断言します。彼女は、屋敷に点在する不吉な「忌み木」や、天地が逆さまに据えられた「逆柱」といった、屋敷全体に仕掛けられた呪詛の存在を次々と見抜いていきます。

賀茂禮子の詳細な解説によって、読者は福森家に渦巻く呪いの世界観へと引き込まれていきます。彼女の語り口は圧倒的な説得力を持ち、亮太もまた、当初の懐疑的な態度から次第に呪物の存在を信じざるを得なくなっていきます。屋敷には、河童の木乃伊、市松人形、幽霊画、日本刀など、おびただしい数の呪物が存在し、それぞれに悲惨な来歴が紐づけられています。

物語の中盤からは、賀茂禮子の見解とは全く異なる意見を持つ謎の僧侶・月晨が登場します。月晨の出現により、亮太だけでなく読者もまた、何が真実で、誰を信じるべきなのかという深い混乱に陥ります。物語は「さかさ」になるかのように、これまで積み重ねられてきた前提が次々と覆されていくのです。

事件後も、呪いの魔の手は福森家の幼い子供たちにまで及ぶことが明らかになり、亮太は彼らを救うため、恐怖に駆られながらも必死に奮闘します。当初は頼りなかった亮太が、呪物との「バトル」の中で覚醒し、成長していく姿が描かれ、物語は壮絶なクライマックスへと向かいます。

小説『さかさ星』の長文感想(ネタバレあり)

『さかさ星』を読み終えて、まず感じたのは、貴志祐介先生がまたしても新たな領域を切り開いたのだな、という圧倒的な驚きと興奮でした。これまでの貴志作品といえば、『黒い家』や『悪の教典』に代表されるように、人間の狂気や悪意がもたらす「ヒトコワ」が真骨頂でした。しかし、本作『さかさ星』では、その「ヒトコワ」の要素は残しつつも、明らかに「超自然ホラー」の領域へと深く踏み込んでいるのが見て取れます。この変化は、貴志先生の作家としての飽くなき探求心と、ホラーというジャンルへの深い愛着を如実に示していると感じました。単なる怪談では終わらない、もっと根源的な恐怖がそこにはありました。

物語の導入部、福森家で起きた凄惨な一家惨殺事件の描写は、まさに貴志先生の面目躍如といったところです。遺体の異様な破壊状況や、儀式めいた痕跡の残る現場は、読者の脳裏に強烈なイメージを焼き付けます。この冒頭から、作品は明確に「超自然ホラー」へと読者を誘い込み、従来の貴志作品とは異なる、新たな次元の恐怖体験の始まりを告げているのです。この凄惨な導入があったからこそ、私たちは物語全体に漂う禍々しい雰囲気に、すんなりと引き込まれることができました。恐怖の予感は、既にページをめくる前から始まっているのです。

主人公の中村亮太は、心霊系YouTuberという、現代的な設定が面白いですね。最初は「今風な若者」で「軽くてちょっと頼りない」印象を受けますが、それが逆に読者にとって感情移入しやすいポイントになっています。彼がオカルト知識に乏しい「一般人」であるからこそ、読者は亮太の視点を通して、異様な事件に巻き込まれていく過程をリアルに体験できます。彼の初期の懐疑的な態度も、超常現象に対する我々の一般的な反応を代弁しており、物語が進むにつれて彼が恐怖を目の当たりにし、変化していく過程が、読者の共感を深める基盤となっています。この頼りなさが、後半の彼の覚醒をより際立たせる効果を生んでいるのです。

そして、物語の語り部として非常に重要な役割を果たすのが、霊能者・賀茂禮子の存在です。彼女が語る福森家の呪物に関する指摘、考察、推理は、息をつかせぬ密度で次々と繰り出されます。正直なところ、どこまで信じていいのか分からない、という不安が常に読者の心にはありますが、それがまた物語の「不確かさ」を際立たせています。彼女の言葉は、まるで「マインドコントロールされる人間の感覚」を体験させるかのように、読者の心理に深く侵食してきます。賀茂の存在なしには、福森家の呪われた世界観をこれほどまでに詳細かつ魅力的に構築することはできなかったでしょう。彼女の語りが、この物語の骨格を形成していると言っても過言ではありません。

福森家の屋敷を埋め尽くす夥しい数の「呪物」の描写も、本作の大きな魅力です。河童の木乃伊、ボーンチャイナのティーカップ、市松人形、幽霊画、日本刀……それぞれの呪物にまつわる悲惨なエピソードや因縁が丁寧に語られることで、単なる怪奇現象の羅列ではなく、「百物語」的な恐怖の深化をもたらしています。これらの呪物が、単独で存在するのではなく、屋敷全体に仕掛けられた呪詛の一部として機能しているという点が、より一層の不穏さを醸し出しています。読者は「どれが呪いの原因なのかを惑わす」パズル的思考を求められ、それがミステリー要素を強化しているのです。この情報量が、読者を飽きさせない工夫として見事に機能しています。

本作の根底に流れるテーマは、「人が人を呪う理由」という、人間の業そのものへの問いかけだと感じました。福森家の先祖が犯した「鬼畜の所業」に対する「根深い恨みつらみ」が何百年もの時を経て、子々孫々にまで及ぶ呪いとして現れる。この怨念の永続性と連鎖は、「やられた側は何百年たっても忘れることはないし、恨みを果たしても死体を切りを繰り返す」という表現で強調されており、読者に強烈な印象を与えます。さらに、このテーマが「かつて日本が犯した戦争犯罪」を比喩として用いることで、単なる家族の呪いを超え、歴史的因果応報や集団的記憶の重さといった普遍的な社会問題へと読者の思考を誘います。ホラーでありながら、これほどまでに深い社会性や哲学的な問いを投げかける作品は稀有だと思います。

そして、物語の真ん中で起こる「さかさ」になる展開は、まさに圧巻の一言です。謎の僧侶・月晨の登場によって、それまで読者が賀茂禮子の語りによって築き上げてきた物語の前提や思考が、一つまた一つと覆されていくのです。この反転は、読者の認識そのものへの挑戦であり、「愛らしい小動物がおぞましい獣に豹変するがごとく」という表現がまさに言い得て妙です。この展開によって、読者は物語の「拠り所をなくし、深い闇の只中へと放り出されてしまう」感覚を味わいます。これは単なるプロットの捻りではなく、ホラー、ミステリ、サスペンス、アクション、時代物、さらにはRPGといったジャンル区分を軽々と飛び越え、めまぐるしく変化する読み味を生み出す要因となっています。貴志先生の構成力には脱帽するしかありません。

特に印象的だったのは、物語の「不確かさ」がもたらす恐怖です。賀茂禮子の語りの信憑性や、月晨の登場による見解の対立は、読者に「この『語り』を、信じていいのだろうか?」「それは『騙り』ではないのか?」「もしかしたら、自分は根本的に何かを勘違いしているのではないか?」といった果てしない問いを残します。この「不確かさ」を核としたリアリズムは、我々の現実世界の不安が明確な答えを見出せないことと呼応し、読者の深層心理にまで侵食するような持続的な恐怖を生み出しています。明確な悪役や解決策が示されない分、読者は自らの解釈を強いられ、それが作品への深い没入感を促していると感じました。

クライマックスにおける亮太の覚醒も、この物語の大きな見どころです。当初は「頼りなさげなYouTuber」に過ぎなかった彼が、絶体絶命のピンチの中で「イヤでも強くなる」姿は、読者に強いカタルシスを与えます。子供たちを呪いから守ろうと孤軍奮闘する亮太の姿は、「真打ち登場的」であり、「カッコよすぎて」読者はますます物語に引き込まれます。古典怪談『雨月物語』の一場面を彷彿とさせる「異様な緊張感」の中での彼の奮闘ぶりは、超自然的な恐怖が支配する世界において、一人の人間が困難に立ち向かい、自己を超越していく希望と感動を与えてくれます。この人間的な成長の物語が、壮大なホラー要素をより深く印象的なものにしているのです。

そして、約600ページにも及ぶ大ボリュームでありながら、物語が上下巻の「二部作」として構想されているという事実も驚きでした。上巻の結末は、一部の呪物が生き残っていることを示唆しており、「ラストがこれで終わり?」という感覚を残します。これは意図的なクリフハンガーであり、下巻への期待感を高める効果的な手法です。この二部作構成は、単に物語のボリュームを増やすだけでなく、「終わらない呪い」という作品のテーマを深く掘り下げるための戦略的な選択だと感じました。福森家にかけられた数百年続く呪いの根深さ、そしてそれがもたらす因果応報の連鎖は、一冊では描ききれないほど広大で複雑なものです。下巻でどのような展開が待ち受けているのか、今から楽しみでなりません。

『さかさ星』は、貴志祐介先生の新たな代表作となることは間違いないでしょう。人間心理の暗部を描く「ヒトコワ」の技法と、超自然的な呪いの世界が融合したこの作品は、多層的な恐怖体験を提供し、読者の心に深く刻まれることでしょう。単なるホラーを超えた、思索的な傑作だと私は確信しています。

まとめ

貴志祐介先生の『さかさ星』は、その壮大なスケールと多層的な恐怖描写で、読者を深く引き込む長編ホラーの傑作です。人間心理の闇と、根源的な超自然的な怪異が織りなす物語は、まさに貴志作品の新たな地平を切り開いたと言えるでしょう。

戦国時代から続く福森家の呪われた因縁を巡る物語は、単なる怪談にとどまらず、人間の業や歴史の重さといった普遍的なテーマを深く掘り下げています。軽妙な心霊系YouTuber・中村亮太と、霊能者・賀茂禮子の対比、そして謎の僧侶・月晨の登場による物語の「さかさ」になる展開は、読者の認識を揺さぶり、予測不能なスリルを提供します。

屋敷に点在するおびただしい数の呪物とその詳細な来歴は、物語に「百物語」的な恐怖の深みをもたらし、読者は呪いの原因を見極めるパズル的思考を求められます。そして、頼りなかった主人公が困難に直面し、覚醒していく過程は、物語に強いカタルシスを生み出し、読者に感動と希望を与えます。

『さかさ星』は、単なるホラー小説の枠を超え、読者の深層心理にまで侵食するような「不確かさ」を核としたリアリズムを追求しています。この作品は、恐怖を通じて人間とは何か、歴史とは何かという問いを投げかけ、読後もその余韻が長く心に残る、まさに必読の一冊です。