小説「MIST」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
池井戸潤さんの作品といえば、銀行ものや企業小説のイメージが強いかもしれませんが、この「MIST」は少し趣が異なります。のどかな高原の町を舞台にしたミステリーで、どこか懐かしさも感じる雰囲気の中で、ぞっとするような連続殺人事件が起こるんです。一人の駐在さんが、複雑に絡み合った事件の真相に迫っていく様子が描かれています。
この記事では、まず物語の詳しい流れ、つまりどんな事件が起きて、どう展開していくのかを、結末の核心にも触れながらお話しします。そして後半では、私がこの物語を読んでみて思ったこと、感じたことを、ネタバレを気にせず、かなり詳しく書いてみました。登場人物たちのことや、事件の裏側、そして物語全体から受け取った印象などを、じっくり語っていますので、読み応えはあるかと思います。「MIST」の世界に深く浸りたい方は、ぜひ最後までお付き合いください。
小説「MIST」のあらすじ
物語の舞台は、緑豊かな高原の町、紫野むらさきの。桜が舞い散る春、この平和な町で、町に一人しかいない駐在さん、上松ごろう五郎の日常は、ある不穏な出来事から変わり始めます。懇意にしている金物屋の未亡人、古田とくえ徳江さんから、中学校の阿川なつき菜月先生に声をかけてみたらどうか、なんてお節介を焼かれているところに、旅館「かりん」の女将はつさんが駆け込んできます。ヤクザ風の二人組が宿泊している、何かあったら怖い、と。五郎が調べると、男たちは新田と村越といい、特に手配されている人物ではありませんでした。
しかし、話はそれだけでは終わりません。しばらくして、はつさんは再び五郎のもとへ。あの二人組は、町の実力者である間宮産業の社長、間宮しゅうぞう修造への借金の取り立て屋だったと言うのです。間宮は住民から「間宮ファンド」と称して資金を集めていましたが、経営が悪化し、元本割れの噂が広がり始めていました。そして半月後、間宮は自宅の納屋で、農薬を飲み、さらに何者かに喉を鋭利な刃物で切り裂かれるという凄惨な姿で発見されます。妻の辰子は、事件当日に新田と村越が来ていたことから、彼らが犯人ではないかと疑います。
間宮の死から間もなく、今度は東京から取材に来ていた新聞記者、国分こういち絋一が行方不明になります。彼の部屋には『中野「霧」事件の意外な展開』と書かれた手帳が残されていました。「霧」事件とは、5年前に東京の中野で、ネット掲示板「MIST」の会員5人が次々と喉を切り裂かれて殺害された未解決事件のことでした。国分はこの事件を追っており、紫野に転居してきた榊ひろみち弘道という男が怪しいと考えていたようです。榊は戎ファイナンスという金融会社の社長で、新田と村越はその部下でした。やがて国分も、喉を切り裂かれた無残な遺体となって発見されます。
間宮殺害の夜に不審者を目撃していた新田と村越は、その男を町で見かけ追跡しますが、返り討ちにあい、二人とも同じ手口で殺害されてしまいます。国分の同僚記者・関矢ゆずる譲もまた、事件の真相を追って紫野を訪れますが、彼も何者かに襲われ、廃屋で遺体となって発見されます。事件は「霧」事件との関連を深め、紫野の住民たちの間に隠された人間関係や過去が次々と明らかになっていきます。五郎は、限られた手がかりと自身の足で、この深い霧のような謎に包まれた連続殺人事件の真相へと迫っていきます。
小説「MIST」の長文感想(ネタバレあり)
さて、ここからは小説「MIST」を読んだ私の個人的な思いや考えを、物語の結末に触れながら、かなり詳しくお話ししていきたいと思います。まだ読んでいない方、結末を知りたくない方はご注意くださいね。
まず、この「MIST」という作品、池井戸潤さんの初期の作品ということもあってか、後の「半沢直樹」シリーズなどに代表される痛快な企業エンターテイメントとは少し毛色が違う、じっとりとした湿り気を感じるミステリーだな、というのが最初の印象でした。舞台となる紫野という高原の町が、また良い味を出しているんです。自然豊かで、一見すると平和そのもの。でも、その閉鎖的なコミュニティの中には、噂話が好きなおばちゃんがいたり、昔ながらのしがらみがあったり、よそ者への警戒心があったり…そういう、日本の地方によくありそうな空気が、濃密に描かれています。こののどかな風景と、そこで起こる喉を切り裂くという残忍な連続殺人事件とのギャップが、物語全体に不穏な影を落としているんですよね。
そんな紫野でたった一人の駐在さん、上松五郎が、この物語の主人公です。彼はスーパーヒーローではありません。特別な推理能力があるわけでも、強力なコネクションがあるわけでもない。どちらかというと、ちょっとお人好しで、町の人たちの御用聞きのような役割もこなす、ごく普通の警察官です。でも、だからこそ、彼の地道な捜査にはすごく共感できるし、応援したくなります。情報収集のために町の人に話を聞き回り、時には厄介事に巻き込まれ、県警の刑事からは少しぞんざいに扱われたりしながらも、彼は決して諦めない。自分の足で情報を集め、一つ一つの事実を繋ぎ合わせ、少しずつ真相に近づいていく。その姿は、まさに現場の叩き上げという感じで、読んでいて非常に好感が持てました。特に、金物屋の徳江さんとのやり取りなんかは、ほっとする場面ですよね。夕食を作ってもらって一緒に食べる、なんていう日常の描写が、事件の陰惨さとの対比でより際立っているように感じました。
そして、この物語の核心にあるのが、5年前に東京で起きた「中野「霧」事件」です。自殺願望者が集うネット掲示板「MIST」の会員が次々と殺害されたこの未解決事件が、現在の紫野の事件とどう繋がってくるのか。これが大きな謎として物語を引っ張っていきます。最初に殺された間宮修造、行方不明になった記者・国分、そしてその国分が追っていた榊弘道。彼らの関係が明らかになるにつれて、過去の事件の影が色濃く浮かび上がってきます。国分や関矢といった記者たちが、この「霧」事件の真相に近づいたために殺されてしまう、という展開は、ミステリーの王道ともいえますが、やはり引き込まれます。彼らが掴みかけた「容疑者リスト」という存在が、犯人を追い詰める鍵になっていくわけですね。
登場人物たちも、それぞれに印象的でした。特に、中学校教師の阿川菜月先生。彼女は、五郎の母親の教え子であり、五郎にとっても少し気になる存在として描かれています。若くて真面目な先生ですが、同僚教師の貴船裕久と不倫関係にあるという、危うさも抱えています。この貴船という男が、また曲者なんですよね。
貴船裕久。彼は理科の教師で、生徒や同僚からの評判も悪くない、一見すると「ほのぼのとした見てくれ」の人物です。菜月先生も、彼に助けられたことから恋愛感情を抱いてしまう。でも、彼には暗い過去と、恐ろしい秘密がありました。彼の妻・香代は、3年前に不倫相手とのドライブ中に事故に遭い、重度の障害を負って寝たきりの状態。貴船は妻を介護しながら、その一方で菜月先生と関係を持っていた。この設定だけでも十分に複雑ですが、物語が進むにつれて、彼が抱える闇の深さが明らかになっていきます。
実は、貴船こそが、一連の連続殺人事件の真犯人であり、5年前の「霧」事件の犯人でもあったのです。彼の動機は、非常に歪んだものでした。彼は、妻・香代が事故に遭う前から、彼女の心が自分に向いていないことに気づき、絶望していました。そんな彼の心の隙間に入り込んできたのが、ネット掲示板「MIST」の存在だったのかもしれません。「MIST」の会員たちは、死にたいと願う人々。貴船は、彼らの「願い」を叶えるという歪んだ使命感、あるいは嗜虐的な快楽から、彼らを殺害していったのではないでしょうか。そして、その殺人を5年間休止していた彼が、紫野で再び凶行に及んだきっかけは、間宮修造が「MIST」の掲示板に書き込みをしていたこと、そしてそれを知った国分記者が自分に近づいてきたことだったと考えられます。
貴船の犯行は、非常に計画的でありながら、衝動的な側面も感じさせます。農薬に関する知識を活かして間宮の自殺を偽装し、邪魔になった国分、関矢、そして自分を追ってきた新田と村越を次々と殺害していく。その手口は、喉を鋭利な刃物で切り裂くという、「霧」事件と共通する残忍なものです。彼が普段見せる穏やかな教師の顔と、冷酷な殺人鬼の顔。その二面性が、この物語の恐ろしさを際立たせています。菜月先生が、貴船の不審な点に気づき始め、彼が「霧」事件のあった時期に東京にいたことを知って疑念を深めていく場面は、読んでいてハラハラしました。
榊弘道や間宮修造といった人物たちも、事件の重要なピースです。榊は戎ファイナンスの社長として、間宮や立花ハイカラ堂の春彦に金を貸し、彼らを追い詰めていきます。彼自身も過去に関東相互銀行での不祥事に関わっており、どこか影のある人物です。彼が紫野にやってきたことが、結果的に事件の発端の一つとなったわけですが、彼自身もまた、貴船によって殺害されてしまいます。多英が榊に襲われ、気を失っている間に貴船が忍び込み、榊を殺害して多英に罪を着せようとした、という流れでしょうか。間宮修造も、強欲な経営者として描かれ、多くの人から恨みを買っていましたが、彼の死もまた、貴船の連続殺人の始まりとなったわけです。
紫野の住民たちの人間模様も、物語に深みを与えています。立花ハイカラ堂の一家は、まさに地方社会が抱える問題の縮図のようです。事業に失敗し借金に苦しむ父・春彦、その父の借金返済のために榊と不適切な関係を持ってしまう母・叶江、そして両親の不和や経営難に心を痛める娘の多英と息子の千明。多英が、母と榊の関係を知り、榊の別荘に乗り込んでいく場面は、痛々しくも、彼女の必死さが伝わってきました。また、不良少年の高田丈司が、多英を気遣い、五郎に協力する姿も印象的です。彼らのような若い世代が、大人たちの複雑な事情に翻弄されながらも、懸命に生きている姿が描かれています。
記者たちの存在も忘れてはいけません。国分は姉・貴江の自殺の真相を探る中で「霧」事件と榊を結びつけ、紫野にやってきました。彼の死の謎を追う先輩記者の関矢もまた、真相に近づきすぎたために命を落とします。彼らの死は、事件の闇の深さを示すと同時に、ジャーナリズムの執念のようなものも感じさせました。特に、関矢が中野署の老刑事・喜多から「霧」事件の情報を引き出そうとする場面や、国分の取材ノートから榊の存在を突き止める過程は、ミステリーとしての面白さを高めています。
そして、ついに五郎は、様々な情報と状況証拠から、貴船が犯人であると確信します。貴船が過去に中野に赴任していた事実、農薬に関する知識、そして榊殺害現場から農業用水路を通って逃走した可能性と、関矢の遺体が発見された廃屋近くの井戸との繋がり。井戸で見つかった榊の血痕が付着したシャツ。決定的でしたね。貴船の自宅での事情聴取に同行した五郎は、そこで貴船の妻・香代が危篤状態にあるのを発見します。貴船は、菜月に「MIST」の閲覧履歴を見られたことで全てを悟り、絶望の中で香代の生命維持装置を外そうとした(あるいは外した)のでしょう。窓から投げ捨てられたオルゴールに入っていた、香代と不倫相手の写真が、彼の最後の引き金を引いたのかもしれません。この場面は、貴船の人間としての破綻と、底知れない絶望を感じさせ、非常に重苦しかったです。
クライマックスは、行方をくらました貴船が、菜月先生を襲う場面です。学校に潜んでいた貴船から間一髪で五郎に助けられた菜月。しかし、油断はできません。警察の保護下にあるはずの菜月の部屋に、貴船は再び現れるのです。電話線は切られ、携帯もまともに操作できない恐怖の中、ドアが開き、ナイフを持った貴船が侵入してくる…。この緊迫感は凄まじいものがありました。絶体絶命の菜月を救ったのは、やはり五郎たち警察官でした。
事件解決後、五郎が菜月に事件の全容を語る場面で、物語は締めくくられます。貴船はなぜ「霧」事件を起こし、そして紫野で再び殺人を繰り返したのか。それは、彼の内面に深く根差した絶望と、歪んだ他者への支配欲、そして秘密を守るための冷徹な計算によるものだったのでしょう。彼にとって、死を願う人々を「救済」することは、自身の存在意義を確認する行為だったのかもしれません。そして、その秘密を知られそうになった時、彼は躊躇なく邪魔者を排除する。その冷酷さが、この事件の最も恐ろしい点だと感じました。
この物語全体を通して感じたのは、人間の心の闇の深さです。特に貴船のそれは、底なし沼のように、どこまでも深く、暗いものでした。(ここで比喩を1回使用)。平和に見える町の日常のすぐ隣に、そんな闇が潜んでいるかもしれない。ネットという匿名空間が、そうした闇を増幅させる装置として描かれている点も、現代的で考えさせられます。「MIST」が書かれたのは2000年代初頭ですが、ネット掲示板が持つ危うさのようなものは、今も変わらない、むしろより深刻になっている部分もあるかもしれません。
また、地方社会が抱える閉塞感や人間関係のしがらみといったテーマも、池井戸作品らしい要素として描かれていました。間宮ファンドの問題や、立花家の経営難などは、経済的な困窮が人間関係を歪め、時として悲劇を引き起こす可能性を示唆しています。
結末として、犯人は逮捕され、事件は解決します。しかし、菜月先生が負った心の傷や、紫野の町に残ったであろう傷跡を思うと、決して手放しで喜べる終わり方ではありません。それでも、上松五郎という一人の実直な駐在さんが、諦めずに真実を追い求めたことで、これ以上の悲劇を防ぐことができた。そこに、わずかながらも救いを感じることができる、そんな読後感でした。派手さはないけれど、人間の心理と地方社会の現実をじっくりと描いた、読み応えのあるミステリー作品だと思います。
まとめ
池井戸潤さんの小説「MIST」は、のどかな高原の町・紫野で起こる連続殺人事件を描いたミステリーです。物語は、町で唯一の駐在さんである上松五郎が、次々と起こる不可解な事件の謎を追う形で進んでいきます。喉を鋭利な刃物で切り裂かれるという残忍な手口は、5年前に東京で起きた未解決の連続殺人「中野「霧」事件」との関連を匂わせ、物語は過去と現在が交錯しながら展開します。
この記事では、物語の詳しい流れを、結末の核心部分まで含めて紹介しました。紫野に潜む人間関係のしがらみや、事件の裏に隠された過去、そして意外な真犯人の正体とその動機に迫っています。また、後半の感想部分では、登場人物たちの心理描写や、紫野という舞台設定が醸し出す独特の雰囲気、そして事件の真相に対する私なりの解釈などを、かなり詳しく述べさせていただきました。
「MIST」は、後の池井戸作品とは少し異なる、重厚でじっとりとした読後感を残す作品です。人間の心の闇や、地方社会が抱える問題にも光を当てており、単なる犯人当てに留まらない深みを感じさせます。派手なアクションや逆転劇を期待すると少し違うかもしれませんが、地道な捜査と人間ドラマが織りなす本格的なミステリーをじっくり味わいたい方には、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。