小説「サファイア」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。湊かなえさんといえば、読んだ後に嫌な気持ちになる、いわゆる「イヤミス」の書き手として広く知られていますよね。人間の心の奥底に潜む悪意や、じっとりとした嫉妬、そして取り返しのつかない後悔を描かせたら、右に出る者はいないと感じさせられます。

しかし、この短編集「サファイア」は、いつもの湊作品とは少し趣が異なるかもしれません。もちろん、人間の持つ闇や業(ごう)といった部分はしっかりと描かれているのですが、読後感が必ずしも「嫌な気持ち」だけではないのです。七つの宝石をモチーフにした七つの物語は、それぞれが独立していながら、どこか不思議な糸で繋がっているようにも感じられます。切なさややるせなさの中に、ふとした救いや温かさが垣間見える瞬間もあり、読者の心を様々な方向へ揺さぶります。

この記事では、そんな「サファイア」の各編の物語の結末に触れながら、その魅力について深く語っていきたいと思います。まだこの本を読んでいない方にとっては、物語の核心に触れる内容が含まれますので、その点をご留意の上、読み進めていただければ幸いです。湊かなえさんの新たな一面を発見できる、そんな一冊かもしれませんよ。

小説「サファイア」のあらすじ

「サファイア」は、七つの宝石の名前を冠した短編で構成されています。最初の「真珠」では、ある男性が中学時代の忘れられない香りの記憶から、その香りの主である女性と再会し、結婚します。彼はその香りの元であるシャンプー会社に就職しますが、配属されたのはお客様相談室。ある日、世間を騒がす放火犯・林田万砂子から指名され、面会することになります。彼女はムーンスター社の歯磨き粉への異常な感謝を語り、その復活を願いますが、話を聞くうちに男性は違和感を覚え、彼女が親友になりすまして放火殺人まで犯していたという衝撃の真実を知ります。

「ルビー」では、東京で働く女性が島の実家に帰省します。実家の近くには刑務所出所者専用の老人ホームがあり、そこの入居者である「おいちゃん」と家族は親しくなっていました。女性は「おいちゃん」が過去に妻と不倫相手を日本刀で殺害した「鉄将軍」ではないかと疑い始めます。母親が彼からもらった赤いブローチが、事件で行方不明になった時価一億円のルビーではないか、と。妹もまたその事実に気づいており、姉妹は互いに牽制しあいながら、ブローチを巡る静かな争いを始めます。

「ダイヤモンド」は、お見合いパーティーで出会った女性に夢中になる男性・古谷が主人公です。ある日、古谷は弱った雀を助けます。するとその夜、人間の姿になった雀が恩返しに現れ、古谷の恋人が実は彼を騙している既婚者の愛人であり、お金を巻き上げるために近づいていることを明らかにします。雀は古谷のために証拠を集めますが、それが裏目に出て、最終的に恋人とその相手は事故死。しかし、その事故は雀が仕組んだものであり、古幣は警察から事故に関与した疑いをかけられるという、やるせない結末を迎えます。

「猫目石」では、隣人の飼い猫を助けたことから、大槻家は隣人の坂口愛子と親しくなります。しかし坂口は、家族それぞれの秘密(父の失業と恐喝、母の万引き、娘の援助交際)を探り当て、互いに暴露し合います。秘密を知られた家族は、坂口を邪魔に思い、猫を利用して彼女が交通事故に遭うように仕向け、殺害してしまうのです。ラストシーンで、ベランダから家の中を覗く猫(猫目石)の視線から逃れるようにカーテンを閉める家族の姿が、彼らの罪深さを物語っています。「ムーンストーン」「サファイア」「ガーネット」は、他の物語とも緩やかに関連しながら、登場人物たちの過去の出来事や心の変化、そして未来への微かな希望を描き出していきます。

小説「サファイア」の長文感想(ネタバレあり)

湊かなえさんの作品を読むとき、どこか身構えてしまう自分がいます。「きっと、また嫌な気持ちにさせられるんだろうな」「人間の醜い部分を見せつけられるんだろうな」と。もちろん、それが湊作品の大きな魅力であることは重々承知しているのですが、この短編集「サファイア」は、そうした予想を良い意味で裏切ってくれました。

全編を通して、人間の心の闇、執着、罪悪感といったテーマは色濃く描かれています。しかし、それだけではないのです。まるで万華鏡のように、覗く角度によって様々な人間の感情がきらめきます。絶望の中にふと差し込む一条の光、罪を犯した人間の僅かな良心、あるいは過去の出来事が巡り巡って誰かの救いとなる皮肉な運命。そうした多面的な感情の揺らぎが、この短編集には詰まっているように感じました。

特に印象的だったのは、やはり各編の「結末」です。単純なバッドエンドともハッピーエンドとも言い切れない、複雑な余韻を残す物語が多かったように思います。

例えば「真珠」。ムーンスター社の歯磨き粉「ムーンラビットイチゴ味」への異常な執着から、親友を殺害し、その親友になりすまして生きてきた倫子。彼女の語る「感謝」の言葉が、実は自己中心的な欲望を満たすための歪んだ言い訳でしかなかったことが判明する場面は、背筋が凍るような恐ろしさがありました。自分が愛用する歯磨き粉を使い続けるためなら、親友を殺し、自らの容姿を変えることさえ厭わない。その狂気的な執着心は、常軌を逸しています。そして、主人公の平井が、整形して過去の自分を捨てた(かもしれない)妻をこれからも愛せるのか、と自問自答するラスト。倫子の事件を通して、自身の夫婦関係にも深い疑念を抱いてしまう彼の絶望感は、読んでいるこちらまで重苦しい気持ちにさせられました。「香り」という曖昧で個人的な感覚が、ここまで人の人生を狂わせるのか、と考えさせられます。

「ルビー」は、人間の「欲」が生々しく描かれた一編でした。時価一億円とも噂されるルビーのブローチを巡って、腹を探り合う姉妹。互いに嘘をつき、相手を出し抜こうとする姿は、滑稽でありながらも、人間の持つ業の深さを感じさせます。特に、姉が妹の興味を逸らすために創作した「情熱の薔薇事件」の話が、結果的に妹の疑念を確信に変えてしまう皮肉。そして、妹が結婚相手から得た情報をもとに、すでに真相に気づいていたという展開。静かな食卓での会話の裏で繰り広げられる心理戦は、手に汗握るものがありました。結局、ブローチの真贋や、「おいちゃん」の正体は明確には語られませんが、それ以上に、姉妹の間に生まれた亀裂と、金銭への執着がもたらす関係性の変化が強く印象に残りました。

「ダイヤモンド」は、どこか寓話的な雰囲気を漂わせながらも、非常に切ない物語でした。婚活で出会った女性・美和を純粋に信じ、助けようとする古谷。彼の前に現れた人間の姿をした雀は、献身的に古谷に尽くし、美和の裏切りを暴いていきます。しかし、その「恩返し」は、古谷をさらなる窮地へと追い込んでしまいます。美和と鈴木の事故死は、雀が古谷のために起こしたものなのでしょうか。雀が最後に古谷に託したダイヤモンドの指輪は、恩返しの証なのか、それとも悪魔との契約の代償なのか…。古谷が雀に問いかけるラストシーンは、答えのない問いを宙吊りにしたまま、やるせない気持ちにさせられます。信じることの危うさ、そして善意が必ずしも良い結果を招くとは限らないという現実を突きつけられたような気がしました。雀の存在はファンタジックですが、描かれている人間の感情は非常にリアルです。

「猫目石」は、個人的に最も「イヤミス」らしい後味の悪さを感じた作品かもしれません。隣人・坂口の過剰な干渉と秘密の暴露は、確かに不快で許されることではありません。しかし、だからといって、家族ぐるみで彼女の死を計画し、実行に移してしまう大槻家の面々には、倫理観の欠如を感じずにはいられませんでした。父の失業と恐喝、母の万引き、娘の援助交際。それぞれが抱える「秘密」が、家族の絆を歪め、共犯関係へと変質させていく過程が恐ろしいです。特に、秘密が明らかになった後、互いを責めるのではなく、「坂口が悪い」という一点で結束し、犯罪に手を染めてしまう短絡さと身勝手さ。そして、全てを知っているかのように窓から見つめる猫(エリちゃん)の存在。まるで、彼らの罪を見つめる「神の目」のようです。カーテンを引いてその視線から逃れようとする最後の場面は、彼らが罪の意識から完全に逃れることはできないことを暗示しているかのようでした。

「ムーンストーン」は、過去と現在が交錯し、登場人物の立場が逆転する構成が見事でした。中学時代、いじめられていた久実を救い、輝かせてくれたのは、クラスの中心人物だった小百合でした。しかし、大人になり、夫殺しの罪で逮捕された小百合の前に現れたのは、弁護士となった久実。かつて「救われた」側が、今度は「救う」側に立つ。この構図の変化が、物語に深みを与えています。小百合は当時、正義感から行動しただけで、久実個人への深い思いやりがあったわけではない、と回想します。一方、久実は、小百合のおかげで今の自分があると心から感謝し、無償での弁護を申し出る。小百合が久実にあげたムーンストーンが、時を経て二人の関係性を再び結びつける。過去の出来事は変えられませんが、その意味合いは、現在の視点や関係性によって変化しうるのだと感じさせられました。絶望的な状況の中に、確かな希望の光が見えるラストは、この短編集の中でも特に印象に残っています。

そして、表題作でもある「サファイア」と、その続編にあたる「ガーネット」。この二編は、一連の物語として読むことで、より深い感動を覚えました。「サファイア」では、主人公・真美が、恋人の修一に「二十歳の誕生日に指輪が欲しい」とおねだりしたことが、彼の死を招いたのではないか、という罪悪感に苛まれます。修一が死の間際にアルバイトで得たお金で買ってくれたサファイアの指輪。しかし、そのアルバイトが悪質な指輪販売だったと知り、修一が誰かに恨まれて殺されたのではないか、と疑念を抱く真美の苦悩が痛々しいほど伝わってきます。「欲しい」という気持ちを封印し、心を閉ざしてしまう彼女の姿は、読んでいて胸が締め付けられました。

しかし、「ガーネット」で物語は新たな展開を見せます。作家として成功した真美は、自身の小説『墓標』の映画化で主演を務める女優・麻生雪美と対談します。そこで雪美が「人生を変えた品」として取り出したのは、かつて修一と同じアルバイトをしていたタナカから、高額で売りつけられた安物の指輪でした。普通なら恨み言の一つも言いたくなる状況ですが、雪美はその指輪を「なりたくない自分」の象徴とし、反骨精神で努力を重ね、女優として成功したのだと語ります。この言葉は、修一の死に責任を感じ続けてきた真美にとって、大きな救いとなったはずです。「あの時の出来事が、誰かの人生を良い方向に変えるきっかけにもなったのだ」と。さらに、修一が指輪を売った別の女性からも、真美の小説を読んだことで救われた、という手紙が届きます。修一の死や、過去の出来事が無意味ではなかったこと、そして自分の書いた物語が誰かの心を動かしたことを知り、真美は再び前を向いて歩き出す決意をするのです。ラストシーンで、夢の中の修一に「新しい本を書く」と告げる真美の姿には、深い感動を覚えました。罪悪感や後悔を乗り越え、過去を受け入れ、未来へと進む人間の強さが描かれていました。

この短編集全体を通して感じたのは、宝石というモチーフの効果的な使い方です。それぞれの宝石が持つ意味合いや輝きが、物語のテーマや登場人物の心情と巧みにリンクしています。「真珠」の歪んだ純粋さ、「ルビー」の燃えるような欲望、「ダイヤモンド」の傷つきやすい輝きと永遠性、「猫目石」の覗き見るような視線、「ムーンストーン」の神秘的な光と変化、「サファイア」の誠実さと悲しみ、「ガーネット」の情熱と実り。これらの宝石が、物語に彩りと深みを与えているように感じました。

湊かなえさんの描く世界は、決して甘くはありません。人間の弱さ、醜さ、そして犯した罪の重さが、容赦なく描かれます。しかし、この「サファイア」には、それだけではない、人間の複雑な感情の機微や、思いがけない救い、そして再生への微かな希望が確かに存在します。イヤミスとしての側面も持ち合わせながら、読後にはどこか温かい気持ちや、考えさせられる余韻が残る。そんな、一筋縄ではいかない魅力に満ちた作品集だと言えるでしょう。

まとめ

湊かなえさんの短編集「サファイア」は、七つの宝石をモチーフに、人間の心の奥底に潜む様々な感情を描き出した、読み応えのある一冊でした。いつもの湊作品に期待されるような、人間の闇や業を描いた「イヤミス」的な要素ももちろん健在ですが、それだけではない多様な読後感を味わえるのが、この作品集の大きな特徴です。

各短編は、独立した物語でありながら、執着、罪悪感、秘密、裏切り、そして救いといった共通のテーマで緩やかに繋がっているようにも感じられます。「真珠」の狂気的な執着、「ルビー」の強欲、「ダイヤモンド」の切ない恩返し、「猫目石」の家族の共謀、「ムーンストーン」の逆転した関係性、そして「サファイア」と「ガーネット」で描かれる罪悪感からの再生。それぞれの物語が、読者の心を強く揺さぶります。

必ずしも後味が悪いだけでなく、中には希望の光が見えたり、登場人物の成長に救いを感じたりする物語も含まれており、読了後に複雑な余韻を残します。湊かなえさんのファンはもちろんのこと、人間の心理の深淵や、奇妙な運命の巡り合わせに興味のある方にも、ぜひ手に取っていただきたい作品です。きっと、あなたの心にも忘れられない輝きと影を残すことでしょう。