眼の壁小説『眼の壁』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

松本清張の生み出した社会派推理小説の金字塔、それがこの『眼の壁』です。発表から半世紀以上が経過した現在でも、その深い洞察力と緻密な構成は色褪せることなく、多くの読者を魅了し続けています。物語は、現代社会に潜む見えない闇、そして人間の心の奥底に潜む欲望と孤独を鮮烈に描き出します。特に、一人の善良な会社員が巨悪に立ち向かう姿は、読者の心に深く訴えかけるでしょう。まるで私たちの日常のすぐ隣に、とてつもない悪が潜んでいるかのような緊迫感が、ページをめくる手を止めさせません。

この作品は単なるミステリーに留まらず、当時の日本社会が抱えていた構造的な問題、たとえば戦後の混乱期に台頭した新興勢力の倫理観の欠如や、金銭が絡むことで人がいかに変貌していくかといったテーマを鋭く抉り出しています。主人公が直面する困難は、まるで現代社会が抱える問題の縮図のようです。人間の尊厳や正義とは何か、そしてそれを守るために個人がいかに戦うべきか、そんな普遍的な問いを私たちに投げかけます。

清張文学の真骨頂とも言える徹底したリアリズムは、この『眼の壁』でも遺憾なく発揮されています。事件の背景にある社会情勢、登場人物たちの心理描写、そして緻密に張り巡らされた伏線。それらすべてが絡み合い、読者を深い闇の中へと引きずり込んでいくような読書体験を提供してくれます。一見すると平穏な日常の裏側に隠された、人間の醜い側面が露わになる過程は、時に胸を締め付けられるほどです。

そして、この物語が私たちに示唆するのは、「目に見えるものが全てではない」という真実です。私たちは普段、自分の「眼」に映るものだけを信じがちですが、その裏側には想像を絶するような陰謀や悪意が潜んでいるかもしれないのです。まさにそれが、この『眼の壁』というタイトルに込められたメッセージであり、物語全体を貫くテーマと言えるでしょう。読後も長く心に残る、示唆に富んだ一作です。

『眼の壁』のあらすじ

物語は、大手電機メーカーに勤める会計課長、関野徳一郎が抱える困難から始まります。取引先の倒産により、会社は給与の支払いに窮していました。資金繰りに奔走する関野は、金融業者の紹介で、とある紳士から融資話を持ちかけられます。都内の銀行応接室という公的な場所での商談に、関野はすっかり信用してしまいます。しかし、これは「パクリ屋」と呼ばれる巧妙な手形詐欺の罠だったのです。白昼堂々、関野は三千万円相当の手形を詐取され、会社に多大な損害を与えてしまいます。その責任を痛感した関野は、深く絶望し、遺書を残して自殺してしまいます。

関野の直属の部下である会計課次長の萩崎竜雄は、敬愛する上司の突然の死に深い衝撃を受けます。萩崎宛ての遺書には、関野が陥った手形詐欺の顛末が詳細に綴られていました。会社の上層部は会社の信用失墜を恐れて事件の隠蔽を図り、警察沙汰を避けようとします。しかし、萩崎は「このままでは関野課長が浮かばれない」と、事件の真相究明を決意します。彼は会社を長期休職してでも、詐欺グループを裁きの場へ引きずり出そうと固く決意するのです。

萩崎は一人で調査を始めますが、素人には限界があります。そこで、新聞記者をしている大学時代からの友人、田村満吉に極秘裏に協力を依頼しました。田村は社会部記者としてのコネクションと情報網を駆使し、詐欺事件の背景を探る手助けを申し出ます。こうして、警察抜きで、会社員と新聞記者による独自の調査チームが発足しました。萩崎たちはまず、関野が詐欺に遭った当日の足取りと、詐欺グループの手口解明に乗り出します。

調査を進める中で、詐欺グループが銀行の応接室を利用する際、長野選出の代議士・岩尾輝輔の名刺を使っていたことが判明します。さらに、関野と同席した白髪の老紳士こそ、岩尾本人である可能性が浮上します。この意外な事実に、萩崎と田村は、背後に政界の有力者まで関与する巨大な犯罪ではないかと疑念を強めます。一方で、関野に融資話を持ちかけた紹介者として、「山杉商事」社長の山杉喜太郎が浮上。山杉の秘書である、美しく謎めいた女性、上崎絵津子の存在が、新たな手がかりとなっていくのです。

『眼の壁』の長文感想(ネタバレあり)

松本清張の『眼の壁』を読み終えて、まず感じたのは、その重厚さと、まるで人間の業を覗き込んでいるかのような感覚でした。この物語は、単なる手形詐欺事件の真相を追うミステリーにとどまらず、社会の闇、人間の欲望、そして見えない「壁」の存在を鮮やかに描き出しています。主人公である萩崎竜雄のひたむきな正義感が、読者の心を強く揺さぶります。

物語の冒頭で、会計課長の関野が手形詐欺に遭い、命を落とすという衝撃的な展開に、一気に引き込まれました。会社の信用を守るため、事件を隠蔽しようとする上層部の思惑と、敬愛する上司の無念を晴らしたいという萩崎の情熱が対立する構図は、現代社会の縮図のようにも思えます。萩崎が会社を休職してまで、自らの手で真相を追及しようとする姿には、並々ならぬ覚悟と強い責任感が感じられました。

萩崎の調査に協力する新聞記者の田村もまた、非常に魅力的なキャラクターです。記者の情報網と嗅覚、そして萩崎の純粋な正義感が合わさることで、素人では到底たどり着けない真実の断片が、少しずつ明らかになっていく過程は、まさに圧巻です。彼らが足で稼ぎ、地道な聞き込みを重ねていく様子は、まるで私たちが彼らの隣で共に捜査を進めているかのような錯覚に陥ります。

代議士の岩尾輝輔の関与が浮上したあたりから、物語は単なる詐欺事件の範疇を超え、政界の闇へとその奥行きを広げていきます。政治家の名刺を利用し、銀行という公的な場所で堂々と詐欺を働く手口の巧妙さには、背筋が寒くなる思いでした。社会の信頼を逆手に取るその手口は、権力と金が結びつくことの恐ろしさを如実に物語っています。

そして、山杉商事の秘書である上崎絵津子の登場は、物語に一層の深みを与えました。彼女の美しさの中に秘められた憂い、そしてどこか秘密を抱えているかのような眼差しは、萩崎だけでなく、読者をも強く惹きつけます。萩崎が、容疑者の一人であるはずの絵津子に惹かれ、彼女を庇おうとする心理描写は、人間の感情の複雑さを浮き彫りにしています。正義と感情の間で揺れ動く萩崎の葛藤は、非常に人間臭く、共感を覚えました。

右翼の若き領袖、舟坂英明の存在もまた、物語の不穏な空気を一層濃くしています。表向きは愛国運動家でありながら、裏社会にも精通しているという彼の二面性は、戦後の混乱期における社会の歪みを象徴しているかのようです。彼のような人物が台頭する背景には、当時の社会情勢がいかに不安定であったかが伺えます。

会社の顧問弁護士である瀬沼俊三郎の失踪は、事件が単なる詐欺では終わらない、より大きな陰謀が渦巻いていることを予感させました。法のプロである彼が、証拠集めのために裏で動いていた矢先に消息を絶つという展開は、犯人グループがいかに狡猾で、どこまでも非情であるかを読者に突きつけます。物語の緊迫感は、このあたりから一気に高まっていきます。

萩崎と田村が、舟坂英明と絵津子の出身地が長野県であること、そして舟坂の履歴に空白があることを突き止める過程は、清張らしい緻密な調査描写の真骨頂と言えるでしょう。それぞれの人物がバラバラに存在しているようでいて、実は見えないところで強固な繋がりを持っているという事実が明らかになるにつれて、物語の全体像が少しずつ見えてくるのがゾクゾクします。

特に、田村が舟坂英明本人に接触を試みるシーンは印象的でした。舟坂の風貌や言動から漂う威圧感、そして初対面の田村を煙に巻く巧妙な話術は、彼がただ者ではないことを物語っています。そして、萩崎が舟坂の風貌から、彼が詐欺現場にいた一人である可能性に気づく瞬間は、読者にも閃きをもたらします。点と点が線で繋がるこの瞬間のカタルシスは、ミステリーの醍醐味そのものです。

しかし、物語はここで終わらず、萩崎の良き相棒であった田村が銃撃されるという、さらなる悲劇が襲いかかります。この展開には、大きな衝撃を受けました。犯人側の非情さ、そして萩崎自身も命の危険に晒されているという事実が、読者に重くのしかかります。同時に、萩崎の「何としても犯人を捕まえる」という決意をさらに強固なものにします。

田村を撃った犯人が、絵津子の兄である黒崎健吉であることが判明したときには、萩崎の心境を考えると胸が痛みました。愛すべき女性の肉親が、自らの正義を阻む存在であるという皮肉な運命。この複雑な関係性が、物語に深い人間ドラマを加えています。そして、警察の捜査網が狭まる中で、組織が黒崎健吉すらも口封じのために抹殺するという非情な決断を下す様子は、その悪の根深さを象徴していました。

長野県の山中で発見された白骨死体が、黒崎健吉であることが判明する場面は、清張ならではの冷徹な事実の提示です。自殺と見せかけられたその死体に、萩崎が抱く不自然さ。遺体の状態と死後経過時間の矛盾から、萩崎が偽装工作を見破る洞察力には、舌を巻くばかりです。人間の骨すらも道具として利用するその手口は、まさに悪魔的としか言いようがありません。

そして、萩崎が黒崎健吉の故郷を訪ね、梅村音次という人物の存在、そして彼が舟坂英明へと改名し、被差別部落出身という出自から成り上がってきた事実を突き止めるくだりは、この物語の核心であり、最大のネタバレでしょう。貧困と差別に苦しんだ過去が、彼の強烈な野心と怨念の源となり、犯罪に手を染めていく動機となったことが明らかにされます。清張は、単なる事件の解決だけでなく、犯罪者の背景にある社会構造や心理までをも深く掘り下げて描いています。

瀬沼弁護士の遺体が発見されるという衝撃的な事実もまた、この事件の残忍さを際立たせます。飢餓状態で白骨化していた彼の遺体は、犯人たちがどれほど非道な手段を選ばないかを示しています。そして、黒崎健吉の遺体を巡る不可解な「碍子の木箱」の存在。萩崎が簗場駅で得た駅員の証言から、絵津子が関与している可能性に気づく瞬間は、読者にも鳥肌が立つほどの興奮を与えます。点と点だった情報が、一本の太い線で繋がっていくさまは、まさに推理小説の醍醐味です。

これらの証拠を総合し、萩崎が事件の全貌にたどり着く過程は、清張の構成力の凄まじさを見せつけられます。舟坂英明(梅村音次)、黒崎健吉、そして上崎絵津子の三人の血縁が、この恐ろしい事件の中枢を成していたという事実。彼らが背負ってきた過去、そしてそれが生み出した悲劇の連鎖は、読者に深い感慨を抱かせます。特に、舟坂が遺体を酸で溶解させるという、彼の皮革工場での経験に基づいた残忍な手口は、その徹底した悪意に戦慄を覚えました。

しかし、この完璧に見えた偽装工作に綻びが生じます。それが、絵津子の良心であり、兄の死に対する疑問でした。彼女が警察に告白の手紙を書き、自らの罪をも覚悟して真実を明かす決意をする場面は、この物語における希望の光と言えるでしょう。彼女の勇気ある行動が、巨悪を暴く最後の決め手となります。舟坂に捕らえられ、清華園に監禁されてしまう絵津子の運命は、読者の心を締め付けますが、彼女の告白によって警察が清華園に踏み込み、舟坂一派が逮捕される展開は、まさにカタルシスです。

首謀者の舟坂英明が、自らが作り上げた酸の浴槽に身を投じて最期を迎えるという結末は、あまりにも劇的で、そして皮肉な幕切れでした。彼の野心と怨念が、まさに彼自身を飲み込む形で終焉を迎えるという象徴的な描写は、読者に強烈な印象を残します。

事件終結後、萩崎が田村記者と再会し、関野課長の墓前に報告するシーンは、長い戦いを終えた安堵感と、しかし同時に残る一抹の虚しさを感じさせます。彼はこの経験を通して、それまで見えていなかった「世の中の裏側」を垣間見てしまいました。都会のビル群や行き交う人々、ごく当たり前の日常の風景が、彼の「眼」にはどこか違って見える。自分の目に映るものが現実のほんの一部に過ぎず、その向こうには厚い壁のように隠された世界がある――。この気づきこそが、『眼の壁』というタイトルの真の意味を深く理解させてくれるのです。

松本清張は、この作品を通して、人間社会の暗部と、それに立ち向かう個人の正義のあり方について、私たちに深く考えさせてくれます。萩崎竜雄の奮闘は、決して楽な道ではありませんでしたが、彼のひたむきな努力と、真実を求める心の強さが、巨悪を打ち破りました。しかし、その過程で彼が見てしまった「眼の壁」の向こうの世界は、彼の心に深く刻み込まれたことでしょう。私たちは、彼の旅路を通して、自分たちの日常の「眼」の壁の存在に気づかされるのです。

まとめ

松本清張の『眼の壁』は、昭和電業制作所の会計課長・関野が手形詐欺に遭い命を落とした事件を追う、一人の会社員・萩崎竜雄の奮闘を描いた傑作社会派推理小説です。敬愛する上司の無念を晴らすべく、萩崎は会社の隠蔽工作に逆らい、新聞記者の友人の協力を得て、事件の真相究明に乗り出します。この物語は、単なる犯罪捜査に留まらず、当時の日本社会に潜む権力と金銭が絡む闇、そして人間の心の奥底に潜む欲望と葛藤を、緻密な筆致で描き出しています。

調査が進むにつれて、事件の背後には政界の有力者や新興右翼団体の首領、そして謎めいた女性の存在が浮かび上がってきます。犠牲者が増え、仲間も命を狙われる中で、萩崎は粘り強く真実を追い求めます。やがて、事件の首謀者と、彼を動かす過去の怨念、そして登場人物たちの血縁関係が複雑に絡み合っていることが明らかになるのです。

物語のクライマックスでは、隠蔽された真実が次々と暴かれ、非情な偽装工作が明らかになります。そして、愛する家族を失った一人の女性の告白が、事件の全ての謎を解き明かす鍵となります。巨悪に立ち向かった萩崎の奮闘は、読者に正義のあり方、そして人間の尊厳について深く考えさせます。

この『眼の壁』というタイトルには、「目に見えるものが全てではない」という、清張からの強いメッセージが込められています。私たちの日常のすぐ隣に、気づかれないまま存在する巨大な悪の存在。萩崎竜雄は、その「眼の壁」の向こう側を、自らの手で暴き出したのです。読後も長く心に残る、重厚で示唆に富んだ一作です。