小説『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が放つこの短編集は、ミステリ界、いや、出版界そのものに向けられた、痛烈な皮肉と愛情(?)が詰まった一品と言えるでしょう。作家、編集者、読者、そして書評家まで、本に関わるすべての人々が彼の容赦ない観察眼の射程に入っています。
収録されているのは、いずれも一癖も二癖もある作品ばかり。税金対策のために小説の内容が歪んでいく様を描いたもの、難解な理系知識をひけらかす小説への揶揄、犯人当てに隠された作家の意図、高齢化社会における作家の現実、小説の内容が現実に模倣される恐怖、そして、水増しされる長編小説への嘆き。どれもこれも、どこかで聞いたことがあるような、しかし、ここまで赤裸々に描かれると笑うに笑えない、そんな業界の裏側が垣間見えます。
この記事では、各短編の物語の顛末に触れながら、その奥に潜む東野氏のメッセージ、あるいは”毒”について、じっくりと語っていこうと思います。ミステリ好きはもちろん、出版業界の裏側に興味がある方、あるいは単に質の高いエンターテインメントを求めている方にも、きっと楽しんでいただけるはずです。
小説『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』の物語の概要
『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』は、8つの短編から構成される作品集です。それぞれが独立した物語でありながら、全体として「推理作家」あるいは「出版業界」を取り巻く様々な「苦悩」や「矛盾」を、痛烈な皮肉を込めて描いています。物語の結末まで含めて、各編の概要を簡単に見ていきましょう。
まず「超税金対策殺人事件」。売れっ子作家が、税金対策のために経費で落とせる高級品や旅行を無理やり小説に登場させ、物語が破綻していく顛末を描きます。ハワイ旅行を経費にするために、北海道が舞台だったはずの物語が急遽ハワイへ飛ぶ滑稽さ。作家の切実な、しかしどこか歪んだ情熱が描かれます。次に「超理系殺人事件」では、難解な科学知識をひけらかすだけの小説に対する皮肉が炸裂。読者が置き去りにされる様を、これでもかと見せつけます。
「超犯人当て小説殺人事件」は、作中作の犯人当てを通して、作家と編集者の間の緊張関係、そして作家が仕掛けた意趣返しを描く本格ミステリ風味の一編。続く「超高齢化社会殺人事件」では、老いた作家が書く、矛盾だらけのミステリを巡る編集者の苦悩が描かれ、読者層の高齢化という現実も突きつけます。「超予告小説殺人事件」は、自作が現実の殺人事件で模倣されてしまった作家の葛藤と、犯人からのコンタクト、そして意外な結末が待っています。名声と良心の間で揺れる作家の姿が印象的です。
「超長編小説殺人事件」は、とにかく分厚い本が売れるという風潮に乗り、担当編集者から無理やり原稿の水増しを強要される作家の悲喜劇。描写や蘊蓄でページ数を稼ぐ涙ぐましい努力が描かれます。「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」は、見切り発車で連載を始めたものの、最終回の結末が思いつかない作家の窮地を描いたショートショート。そして最後に「超読書機械殺人事件」。書評家が導入した、本を読まずに書評が書ける機械「ショヒョックス」が業界に蔓延し、作家も読者も、誰も本を読まなくなるという恐るべき未来を描き、物語は幕を閉じます。
小説『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』の長文見解(物語の結末に触れています)
さて、この『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』という作品集、一言で片付けるなら、東野圭吾氏が隠し持つ鋭利なメス、その切れ味を存分に見せつけた一冊、といったところでしょうか。普段、大衆向けのエンターテインメント作品で我々を楽しませてくれる氏が、時折見せるブラックな一面。それがこの短編集では、遠慮なく、むしろ嬉々として(そう見えるのは私の気のせいでしょうか?)炸裂しています。出版業界、ミステリ界隈、そして我々読者に向けて、容赦ないツッコミと皮肉が、これでもかとばかりに繰り出されるのです。
各短編を見ていきましょうか。まずは「超税金対策殺人事件」。作家という商売の、ある種、生々しい側面を描いていますね。売れれば入る印税、しかし、それにかかる税金。どうにか節税しようと、経費で落とせるものを無理やり作品にねじ込む。その結果、物語は奇妙な方向へ…。北海道から唐突にハワイへ飛ぶ展開など、滑稽ではありますが、作家だって霞を食って生きているわけではない、という現実を突きつけられます。どこまでフィクションで、どこからが実話に基づいているのか、想像を掻き立てられますね。まあ、小説を読んでいて、不自然なほど特定の場所や商品が描写されていたら、少し勘繰ってみるのも一興かもしれません。
「超理系殺人事件」。これは、いわゆる「理系ミステリ」への痛烈な皮肉でしょう。専門用語や難解な科学理論をこれ見よがしに並べ立て、読者を煙に巻くような作品。作者の自己満足に読者が付き合わされる構図を、実に巧みに、そして意地悪く描いています。作中の『超理系殺人事件』を読む主人公(そして我々読者)が、その難解さにうんざりし、解説部分を読み飛ばしたくなる気持ち、よく分かります。もちろん、私はしっかりと読み込み、完全に理解しましたが…おっと、誰か来たようです。まあ、これも東野氏自身が理系出身であり、「ガリレオシリーズ」などで科学知識を巧みに物語に組み込んできたからこその、愛憎半ばする批評なのかもしれません。
「超犯人当て小説殺人事件」。これは収録作の中でも、比較的ストレートな本格ミステリの体裁を取っています。作中作の犯人当てクイズ。しかし、重要なのは「フーダニット(誰がやったか)」よりも「ワイダニット(なぜそんなことをしたか)」。作家が編集者たちに犯人当てをさせた真の理由、その動機が見事に決まっています。作家と編集者の力関係、原稿の奪い合いといった、これまた業界の裏側を垣間見せる設定。他の作品に比べると、皮肉の度合いは少し抑えめですが、ミステリとしての出来は確かです。語るべきことが少ない、というのは、ある意味で完成度が高い証左かもしれませんね。
「超高齢化社会殺人事件」。これは、作家と読者、双方にとって耳の痛い話かもしれません。御年90歳の老作家が書くミステリは、矛盾だらけ。それを何とか連載として成立させようと苦悩する編集者。作家に定年はないと言われますが、肉体的な衰え、記憶力の低下は避けられない。愛する作家がいつまでも書き続けてくれるとは限らない、という現実は、長年のファンであればあるほど、胸に迫るものがあるでしょう。そして、読者層の高齢化。若い世代が本から離れているという指摘も、出版界全体の課題です。もっとも、作中で指摘される「致命的な矛盾」が許されないのは、ミステリというジャンル特有の厳しさかもしれません。他のジャンルなら、「勢い」や「面白さ」で押し通せる部分もあるでしょうから。
「超予告小説殺人事件」。これもまた、本格ミステリの要素が強い作品です。自分の小説が現実の事件で模倣される。それによって、無名だった作家は一躍時の人に。しかし、犯人からの接触、そして更なる殺人の指示。作家は名声と良心の呵責の間で苦悩します。編集者は「売れること」を優先し、多少の破綻には目をつぶるべきだと唆す。まさに「作家を生かすも殺すも編集者次第」という構図。そして、犯人の正体が、その編集者だったという結末。これは単なる皮肉を超えて、業界の構造そのものへの痛烈な批判と受け取ることもできるでしょう。売れるためなら、作家の良心すら利用する。穿ちすぎでしょうか? いいえ、そうは思いませんね。
「超長編小説殺人事件」。これはもう、笑うしかない。とにかく分厚い本が売れる、という一時期の風潮(今も完全になくなったとは言えませんが)を、徹底的に茶化した快作です。原稿用紙3000枚を目指し、ひたすら描写を水増しし、蘊蓄を垂れ流し、物語を引き延ばす。その涙ぐましい(?)努力たるや。読んでいるこちらも、作中の作家と一緒に疲弊していくかのようです。東野氏自身、この作品を書きながら、特定の誰かを思い浮かべていたのではないか、と邪推したくなりますね。まあ、その名前をここで挙げるのは、少々憚られますが。無駄な描写を削ぎ落とし、簡潔さを旨とする昨今の風潮とは真逆ですが、これもまた、出版界の一つの「病」だったのでしょう。
「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」。これは、見切り発車で書き始めたミステリ作家の末路を描いたショートショート。連載最終回、トリックも犯人も決まっていない。追い詰められた作家がひねり出す結末とは…。これもまた、編集者にそそのかされて(?)無謀な挑戦をした結果。ここでも編集者が、間接的に作家を追い詰めている構図が見て取れます。「超犯人当て~」や「超予告小説~」といい、この時期、東野氏は編集者に対して何か思うところがあったのでしょうかね? まあ、邪推はこのくらいにしておきましょう。
そして、最後を飾る「超読書機械殺人事件」。これが、この短編集の白眉であり、最も強烈な毒を持つ一編でしょう。書評家が、本を読まずに書評を書くための機械「ショヒョックス」を導入する。やがてその機械は作家にも普及し、「ショヒョックス」に高評価されるための小説が書かれるようになる。ついには、読者も「ショヒョックス」で生成された感想を読んで読んだ気になり、他人と話を合わせるようになる。誰も本を読まないのに、読書という行為だけが形骸化して残る。この、悪夢のような未来予想図。発表から年月を経た今、AIが文章を生成する技術が現実のものとなりつつある現代において、この物語は、単なるSF的な空想とは言えない、恐ろしいほどの現実味を帯びて迫ってきます。小説は何のために存在するのか? 誰のために書かれるのか? 東野氏が突きつけたこの問いは、今、我々が真剣に向き合うべきテーマなのかもしれません。
この作品集全体を通して感じるのは、東野氏のミステリ、そして本に対する複雑な感情です。愛しているからこその厳しい視線、業界の矛盾に対する怒り、そして、それでもなお、この世界で生きていくのだという覚悟のようなもの。それは、まるで切れ味の鋭すぎるメスのような皮肉、と言えるでしょう。表面的な面白さだけでなく、その奥にある苦味や毒気も含めて味わうべき作品。それが『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』なのです。まあ、少々毒にあてられすぎたかもしれませんが、たまにはこういう刺激も悪くないものです。
まとめ
東野圭吾氏の『超・殺人事件―推理作家の苦悩―』、その深部に触れてきましたが、いかがでしたでしょうか。単なるミステリ短編集として片付けるには、あまりにも多くの皮肉と問題提起が詰め込まれた、実に”厄介”な一冊と言えるでしょう。作家の税金対策から始まり、業界の構造的な問題、果ては読書という行為の本質まで、その射程は驚くほど広い。
各短編は、それぞれが独立したエンターテインメントとして成立しながらも、通底するテーマは一貫しています。それは、小説を取り巻く世界の「欺瞞」や「矛盾」への鋭い眼差しです。特に、最後の「超読書機械殺人事件」が示す未来は、今の我々にとって決して他人事ではありません。便利さや効率性を追求する先に、我々は何を失うのか。考えさせられます。
まあ、あまり難しく考えず、まずは東野氏一流のブラックな筆致を楽しんでみるのも良いでしょう。ミステリ好きならばニヤリとさせられる仕掛けも満載ですし、そうでなくとも、出版業界の裏側を覗き見るようなスリルは味わえるはずです。ただし、読み終えた後、あなたが本を読むという行為、あるいは小説という存在に対して、以前と同じ目ではいられなくなる可能性は否定できませんがね。それもまた、この作品が持つ”毒”の効能なのかもしれません。