小説「掟上今日子の備忘録」のあらすじを物語の核心に触れる部分まで含めて紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この作品は、一度眠ると記憶がリセットされてしまう忘却探偵、掟上今日子さんが主人公。彼女の特異な設定が、事件の解決方法や登場人物たちとの関係に、なんともいえない味わい深さをもたらしているのですよ。
隠館厄介くんという、これまた特異な体質の青年との出会いから物語は動き出します。彼はなぜかいつも事件に巻き込まれ、犯人に間違われてしまう不運の持ち主。そんな彼が今日子さんに助けを求めることで、奇妙で、そしてどこか切ない物語の幕が開くのです。
この記事では、そんな『掟上今日子の備忘録』の物語の概要、そして各エピソードがどのように今日子さんの忘却という特性と結びつき、私たち読者に何を問いかけてくるのかを、私なりの視点からじっくりと語っていきたいと思います。西尾維新さんならではの言葉選びの面白さや、登場人物たちの魅力にも触れていければと考えています。
さあ、一日限りの記憶で事件に挑む探偵と、彼女に忘れられてしまう依頼人の物語、一緒に見ていきましょうか。きっと、読み終えた後には、あなたも今日子さんと厄介くんのことが忘れられなくなるはずです。
小説「掟上今日子の備忘録」のあらすじ
『掟上今日子の備忘録』は、眠るたびに記憶を失ってしまう「忘却探偵」掟上今日子さんが、様々な事件を一日で解決していく物語です。彼女は自身の身体に重要な情報をメモすることで記憶を補い、どんな難事件にも「最速」で挑みます。
物語は、常に事件に巻き込まれては容疑者にされてしまう青年、隠館厄介くんが、機密データが入ったSDカード盗難事件の犯人に疑われるところから始まります。絶体絶命の彼が助けを求めたのが、掟上今日子さんでした。今日子さんは、厄介くんを含む研究所の面々の中から、見事に真犯人を見つけ出します。これが、不運な青年と忘却探偵の最初の出会いとなるのです。
続いて今日子さんは、ある漫画家宅で起きた現金盗難事件に挑みます。盗まれたのは百万円なのに、犯人は「返して欲しければ一億円用意しろ」という奇妙な要求をしてきます。一見すると不合理なこの要求の裏に隠された犯人の動機を、今日子さんは鮮やかに解き明かしていきます。常識にとらわれない彼女の推理が光るエピソードですね。
そして物語の後半は、著名なミステリー作家、須永昼兵衛(すながちゅうべえ)を巡る連続した事件へと展開していきます。最初は、須永先生の未発表原稿を探し出すという依頼でした。今日子さんは敬愛する作家のイベントに心躍らせますが、実はこの時、須永先生は既に亡くなっていたのです。厄介くんは、今日子さんを悲しませたくない一心でその事実を隠し、彼女には原稿探しのゲームが続いているように振る舞います。
しかし、事態は須永先生の死の真相究明へと移行します。依頼を受けた今日子さんは、彼の著作全てを読破することで手がかりを得ようと、眠らずに本を読み続けるという荒業に挑みます。彼女の記憶を繋ぎ止めるための壮絶な戦いが描かれ、読んでいるこちらも胸が苦しくなるほどです。
最終的に、過酷な読書の中で今日子さんは倒れてしまいます。記憶を失った状態で目覚めた彼女でしたが、そこからでも事件の真相、そして厄介くんが彼女のために行った行動の全てを見抜いてしまうのです。須永先生の死の真相は非常に複雑なものでしたが、それ以上に、記憶を失ってもなお厄介くんを理解し、許した今日子さんの姿が強く印象に残ります。
小説「掟上今日子の備忘録」の長文感想(ネタバレあり)
『掟上今日子の備忘録』を読み終えて、まず心に残るのは、やはり掟上今日子さんという探偵の、あまりにも儚く、そして強烈な存在感ですよね。眠ると記憶がリセットされる。それは探偵として致命的な欠点であると同時に、彼女を唯一無二の存在たらしめている最大の魅力でもあります。毎日が「はじめまして」で始まる今日子さんと、彼女に何度忘れられても変わらぬ想いを寄せ続ける隠館厄介くん。この二人の関係性こそ、この物語の背骨であり、私たち読者の心を掴んで離さない引力なのだと感じます。
今日子さんの忘却は、単なる設定上のギミックに留まっていません。それは、彼女の生き方そのものを規定し、事件への取り組み方、そして他者との関わり方に深く影響を与えています。一日という限られた時間の中で、彼女は驚異的な集中力と洞察力を発揮し、事件を解決へと導きます。その姿は、まさに「最速の名探偵」。しかし、その鮮やかな手腕の裏には、常に記憶を失うことへの諦観と、それでもなお「今」を全力で生きようとする切実な覚悟が滲んでいるように思えるのです。
彼女が自身の身体に記すメモは、記憶の代替であると同時に、彼女が「掟上今日子」として存在し続けるための必死の抵抗のようにも見えます。天井に書かれた「お前は今日から、掟上今日子。探偵として生きていく。」という言葉。毎朝、それを見て自分を再定義する今日子さんの姿を想像すると、胸が締め付けられるような思いがします。彼女にとって、自分自身であることは、毎日新たに獲得し直さなければならない、不安定なものなのかもしれません。
そんな今日子さんの前に現れた隠館厄介くんは、彼女とは対照的な存在です。彼は、今日子さんとの出会いや共に過ごした時間を、決して忘れません。だからこそ、今日子さんに忘れられるたびに、新鮮な痛みを感じ続けることになります。それでも彼が今日子さんに依頼し続けるのは、彼女の探偵としての能力への絶対的な信頼はもちろんのこと、彼女という人間そのものへの深い愛情があるからでしょう。彼の視点があるからこそ、私たちは今日子さんの物語を連続したものとして捉え、彼女の人間的な側面に触れることができるのだと思います。
物語に登場する事件は、どれも西尾維新さんらしい捻りの効いたものばかりですが、特に印象深いのはやはり、ミステリー作家・須永昼兵衛を巡る後半の連続事件ですね。敬愛する作家の死という事実を、今日子さんには知られたくないと願う厄介くんの行動は、切なくも美しいものでした。彼の優しさが、結果として今日子さんを追い詰めてしまう可能性もあったわけですが、その危うさも含めて、二人の関係の特殊性を際立たせていたように感じます。
今日子さんが須永昼兵衛の全著作を読破しようとする場面は、圧巻の一言です。記憶を繋ぎ止めるために、眠気と戦い、心身をすり減らしていく彼女の姿は、壮絶ですらありました。探偵としての矜持、そして作家への敬意が彼女を突き動かしたのでしょうが、そこには「忘れる」ことへの抗い、そして「理解したい」という強い渇望があったのではないでしょうか。たとえ明日には忘れてしまうとしても、今この瞬間、対象の全てを知り尽くしたいという、彼女の純粋な探求心が表れていたように思います。
そして、ついに今日子さんが倒れ、記憶を失ってしまう場面。厄介くんが必死に行った「隠蔽工作」は、彼女のためを思ってのことではありましたが、それは同時に、彼女との関係性をある意味でリセットしようとする行為でもありました。しかし、目覚めた今日子さんは、記憶がないにも関わらず、厄介くんの行動とその意図を全て見抜きます。この場面は、本当に感動的でした。具体的な出来事の記憶は失われていても、厄介くんという人間の本質や、彼が自分に向けてくれる感情のようなものを、今日子さんは身体のどこかで感じ取り、信じることができたのではないでしょうか。「記憶はなくしても体の感覚で厄介のことを信じた」という表現が、まさにこの時の今日子さんの状態を的確に表していると思います。
この出来事を通じて、今日子さんと厄介くんの絆は、単なる依頼人と探偵という関係性を超え、より深く、そして確かなものになったように感じられました。言葉や共有された記憶だけが、人と人との繋がりを保証するわけではない。そんな大切なことを、この物語は教えてくれた気がします。
須永昼兵衛の死の真相も、自殺に見せかけた殺人、しかもその構図がさらに捻られているという、非常に凝ったものでした。作家の過去の作品にヒントが隠されているという展開も、ミステリー好きにはたまらない仕掛けだったのではないでしょうか。西尾維新さん自身がミステリーというジャンルを深く愛し、その可能性を追求していることが伝わってきます。
『掟上今日子の備忘録』は、忘却探偵という斬新な設定を軸に、魅力的な登場人物たちが織りなす人間ドラマと、巧妙な謎解きが融合した、素晴らしい作品だと感じます。今日子さんのように、毎日を新たな気持ちで迎え、過去にとらわれずに生きることは、ある意味で理想的かもしれません。しかし、私たちは過去の経験や記憶を積み重ねることで成長し、他者との関係を深めていく生き物です。その両面を、この物語は描き出しているように思います。
今日子さんの「忘却」は、私たちに「記憶とは何か」「生きるとはどういうことか」という根源的な問いを投げかけてきます。そして、厄介くんの「記憶」は、たとえ相手に忘れられても、誰かを想い続けることの強さや切なさを教えてくれます。この二人の対比が、物語に奥行きと深みを与えているのですね。
西尾維新さん特有の軽快な文章でありながら、時折ハッとさせられるような鋭い洞察や、心に染みるような言葉が散りばめられているのも、この作品の大きな魅力です。登場人物たちの会話はテンポが良く、読んでいて飽きることがありません。
この物語は、ミステリーとしての面白さはもちろんのこと、人間関係の機微や、生きることの儚さと愛おしさを感じさせてくれる作品です。今日子さんがこれからもどんな事件に挑み、厄介くんとの関係がどのように変化していくのか、非常に楽しみです。彼女がいつか、天井のメッセージの書き手を見つけ出し、自身の過去と向き合う日が来るのでしょうか。そんな想像を掻き立てられる、魅力に満ちた物語でした。
読み終えた後、ふと「忘れること」と「覚えていること」について、考えさせられました。私たちは日々多くのことを忘れ、そしてまた新しいことを記憶していきます。その繰り返しの中で、何が本当に大切で、何を残していきたいのか。今日子さんの生き方は、そんなことを問いかけてくるようです。彼女は忘れてしまうけれど、彼女と関わった人々の中には、確かに今日子さんの記憶が刻まれていく。それもまた、一つの救いなのかもしれません。
この作品は、一度読んだだけでは味わいきれない魅力がたくさん詰まっているように感じます。今日子さんの言葉の端々や、厄介くんの表情の裏にある想いなど、再読することで新たな発見がありそうです。そんな風に、何度も読み返したくなる作品に出会えたことは、とても幸せなことですね。
まとめ
『掟上今日子の備忘録』は、一日で記憶を失う探偵・掟上今日子さんと、彼女に事件解決を依頼する不運な青年・隠館厄介くんの物語です。この特異な設定が、ミステリーとしての面白さだけでなく、二人の関係性に切なさや温かさをもたらしていますね。
今日子さんが見せる鮮やかな推理と、忘却というハンデを乗り越えようとする姿は、読む私たちを引き込みます。特に、彼女が自身の身体に情報を書き留める様子や、眠りにつくことへの複雑な思いは、この登場人物ならではの深みを感じさせます。
そして、今日子さんに忘れられてもなお、彼女を支えようとする厄介くんの存在が、物語に人間味あふれる温もりを与えています。記憶がリセットされても揺るがない二人の絆は、私たちに「本当に大切な繋がりとは何か」を問いかけてくるようです。
西尾維新さんらしい言葉遊びや、先の読めない展開も満載で、最後まで一気に読み進めてしまいました。ミステリーが好きな方はもちろん、少し変わった設定の物語や、登場人物たちの心の機微に触れる物語が好きな方にも、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。