小説「素敵な日本人」のあらすじを核心部分に触れつつ紹介します。長文の見解も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が紡ぐ、九つの人間模様が詰まった短編集であります。日常に潜む僅かな歪み、ささやかな悪意、そして思いがけない結末。それらが、あたかも季節が移ろうように淡々と、しかし鮮やかに描かれているのです。
人は皆、心の中に何かを隠し持っているもの。この短編集に登場する人物たちも例外ではありません。正月、バレンタインデー、雛祭り、クリスマスといった季節の行事を背景に、彼らの秘めた思いや計画が、思いもよらぬ形で露わになっていきます。読み進めるうちに、彼らの行動原理や心理の深層に触れ、時には共感し、時には呆れ、そして時には背筋が冷たくなるような感覚を覚えるかもしれません。
この記事では、各物語の概要から、その結末、そして私なりの少々ひねくれた見解まで、余すところなくお伝えしようと思います。読み終えた後、あなたの目に映る「素敵な日本人」とは、果たしてどのような姿をしているのか。それを確かめてみるのも一興でしょう。しばし、私の語りにお付き合いください。
小説「素敵な日本人」の物語の概要
この短編集「素敵な日本人」は、それぞれ独立した九つの物語で構成されています。季節の移ろいや日本の風物詩を織り交ぜながら、人間の心の機微や、日常に潜むミステリーを描き出しているのが特徴と言えるでしょう。一つ一つの話は短くとも、読後にはしっかりとした印象を残します。
例えば、正月早々、神社の境内で倒れている町長を発見した老夫婦の物語「正月の決意」。当初は事件かと思われたものの、その真相は呆れるほど人間臭いものでした。また、「十年目のバレンタインデー」では、売れっ子小説家のもとに届いた元恋人からの誘いが、過去の罪を暴く罠であったことが明らかになります。甘い再会の予感は、苦い結末へと転じていくのです。
あるいは、娘の結婚を前に、亡き妻と姑の関係に思いを馳せる父親の心情を描いた「今夜は一人で雛祭り」。そこには、父親が知らなかった妻のささやかな抵抗と喜びがありました。近未来を舞台にした「レンタルベビー」では、子育ての疑似体験を通して、現代人が抱える孤独や、テクノロジーと人間の関係性が浮かび上がってきます。エリーが最後に下す決断は、読者に静かな問いを投げかけるでしょう。
このように、「素敵な日本人」に収められた各編は、ミステリー、人情噺、SF的な要素など、多彩な味わいを持っています。登場人物たちの行動や選択が、予期せぬ結末へと繋がっていく様は、まさに東野圭吾氏ならではの技巧と言えるかもしれません。彼らが織りなす物語は、時に滑稽で、時に切なく、そして時に恐ろしく、読者の心を様々な形で揺さぶることでしょう。
小説「素敵な日本人」の長文見解(核心部分に触れます)
さて、ここからは小説「素敵な日本人」に収録された九つの物語について、核心に触れながら、私なりの見解を述べさせていただきましょう。少々、斜に構えた視点になるかもしれませんが、ご容赦いただきたい。
「正月の決意」
初詣の朝、下着姿で倒れていた町長。何とも滑稽な幕開けであります。記憶喪失を装う町長、やる気のない警察、そして俗物的な動機で争う町の有力者たち。実に人間らしい、と言えば聞こえは良いですが、要は浅はかで、どうしようもなく矮小な者たちの姿がそこにはあります。前島夫妻が経営難から自殺を決意していたという背景が、この喜劇に皮肉な深みを与えていますね。彼らは、自分たちよりも愚かで、それでいてふてぶてしく生きる人間たちの姿を目の当たりにし、「こんな連中が生きているのに、我々が死ぬのは馬鹿らしい」と自殺を思いとどまる。絶望の淵からの生還のきっかけが、実にくだらない騒動だったという結末。これは果たして希望なのでしょうか、それとも更なる諦観なのでしょうか。まあ、どちらにせよ、生きる理由なんて、案外そんなものなのかもしれません。陳腐な動機が、時に人生を繋ぎ止める。笑うしかない状況です。
「十年目のバレンタインデー」
売れっ子作家・峰岸と、元恋人・知理子の十年ぶりの再会。甘美な響きとは裏腹に、待っていたのは過去の罪の清算でした。親友の才能を盗み、その命まで奪った峰岸。彼の成功は、すべて他人の犠牲の上に成り立っていたわけです。刑事となった知理子が周到に仕掛けた罠にかかり、有頂天から一気に奈落の底へ突き落とされる様は、確かに一種の爽快感を伴います。悪事は露見するものだ、という教訓めいたものを感じる向きもあるでしょう。しかし、考えてみれば、知理子の執念もまた、尋常ではありません。十年もの間、復讐の機会を窺っていたのですから。正義の仮面の下に隠された個人的な情念。峰岸の卑劣さと、知理子の執念深さ。どちらも人間の業の深さを感じさせます。結局のところ、誰もが自分の物語を生きているに過ぎない、ということでしょう。
「今夜は一人で雛祭り」
娘・真穂の結婚を前に、亡き妻・加奈子の苦労に思いを馳せる父・三郎。厳格な姑との同居生活を、彼は「耐え忍ぶ日々」だったと思い込んでいました。しかし、娘から明かされる真実は、彼の感傷的な想像を覆します。加奈子は、姑との関係性の中に、ささやかな楽しみや、自分なりの抵抗を見出していたのです。雛飾りに込められた、姑への意趣返しとも取れる仕掛け。それを知った三郎は、娘もきっとうまくやっていけるだろうと安堵する。これは、美談なのでしょうか? 私は少々疑問を感じます。妻の本当の姿を理解していなかった夫。そして、その「ささやかな抵抗」が、果たして本当に彼女の幸福だったのか。もしかしたら、それは諦めの中から生まれた、小さな自己満足に過ぎなかったのかもしれない。名家への嫁入りを心配する父の気持ちも、結局は自身の経験に基づいた勝手な投影に過ぎなかったわけです。人間は、見たいようにしか他者を見ない、という好例かもしれません。
「君の瞳に乾杯」
合コンで出会った魅力的な女性・モモカ。アニメ好きという共通点で意気投合し、デートを重ねる内村。しかし、彼女が決して見せようとしない素顔。カラーコンタクトを外した瞬間、彼女が指名手配犯・山川美紀であることが判明する。内村の正体は、指名手配犯の顔を記憶して見つけ出す「見当たり捜査」の刑事だったのです。ロマンスは一転、逮捕劇へ。何とも皮肉な展開です。刑事としての職務を全うした内村ですが、その胸には苦い失恋の味が残ったことでしょう。モモカ(美紀)にしても、束の間の安らぎは、刑事の視線によって打ち砕かれた。設定の妙は認めますが、いささか出来すぎている感も否めません。偶然の出会いが、必然の逮捕へと繋がる。運命の悪戯、とでも言うのでしょうか。あるいは、どんなに着飾っても、本性は隠しきれないという、冷徹な現実の表れなのかもしれません。
「レンタルベビー」
近未来、子育て疑似体験のためのレンタルベビーと、理想のフィアンセをレンタルするエリー。最初は戸惑いながらも、次第に赤ちゃんロボットに愛情を抱くようになる。しかし、衝撃の事実が明かされます。フィアンセのアキラもレンタルであり、そしてエリー自身は60歳だったのです。これは、現代社会が抱える問題――晩婚化、少子化、孤独、そしてテクノロジーへの依存――に対する、鋭い風刺と捉えることができます。凍結卵子や人工子宮といった技術が普及した未来。しかし、それは本当に人間を幸福にするのでしょうか? 60歳にして、なお「母親になる可能性」を捨てきれないエリーの姿は、痛々しくもあります。レンタルという虚構の中でしか得られない安らぎ。果たして、それは本物の「愛」と言えるのか。人間関係すら商品として消費される未来。考えさせられる、というよりも、少し寒々しい気持ちにさせられる物語です。
「壊れた時計」
闇の仕事を引き受けた男。忍び込んだ先で家主を殺害してしまい、その際に壊れた腕時計が気にかかる。アリバイ工作のつもりか、あるいは単なる気まぐれか、男は時計を修理して死体の腕に戻すという、余計な一手間を加えてしまいます。しかし、皮肉なことに、その時計は元々壊れていたものだった。修理された時計は、かえって警察の疑念を招き、男の逮捕に繋がるのです。「余計なことはするな」というミステリーの鉄則を、犯人自らが破ってしまうという展開。古典的ではありますが、人間の心理を巧みに突いています。完璧な計画など存在しない。むしろ、完璧を期そうとするあまりの行動が、墓穴を掘る。この男の行動は、愚かしくもありますが、どこか人間的な弱さの表れとも言えるかもしれません。僅かな不安が、破滅的な結果を招く。人生とは、えてしてそういうものなのでしょう。
「サファイアの奇跡」
青い毛を持つ伝説の猫サファイアと、トリマーになった未玖の再会。幼い頃、未玖が可愛がっていた野良猫イナリは、事故死したと思われていました。しかし、実はイナリの脳は、瀕死だったサファイアに移植されていたのです。誰にも懐かなかったサファイアが、未玖にだけ心を開いた理由がここにありました。そして、未玖は偶然にも、サファイア(の脳を持つイナリ)と雑種の猫を交配させ、青い毛の子猫を誕生させることに成功する。これは、奇跡なのでしょうか? 脳移植というSF的な設定は興味深いですが、物語の結末は、いささか都合が良すぎるように感じられます。死んだはずの愛猫との再会、そして富をもたらす奇跡の子猫の誕生。未玖の「お金持ちになりたい」という願いが、あまりにも安直に叶えられてしまう。感動的な物語として読むこともできますが、私には、どこか作り物めいた甘さを感じてしまいます。科学技術と人間の情愛が交差する物語ですが、その着地点は、少々安易なファンタジーに過ぎないのではないでしょうか。
「クリスマスミステリ」
看板俳優・黒須による、邪魔になった脚本家・弥生への殺害計画。クリスマスという聖なる夜に企てられた毒殺。しかし、弥生は死ななかった。彼女が持っていたのは毒ではなく、強力な睡眠薬だったのです。弥生は黒須の殺意を試すために、あえて罠を仕掛けていた。そして、黒須の裏切りを確信した弥生は、最終的に彼の犯行に見せかけて自ら命を絶つ。巧妙な復讐劇です。登場人物の名前(黒須=クロス、樅木=モミノキなど)にクリスマスに因んだ遊びが見られるのも、東野氏らしいところでしょう。殺意と裏切り、そして計算された復讐。人間の愛憎劇が生々しく描かれています。弥生の最後の行動は、黒須への最大の復讐であると同時に、自らのプライドを守るための選択だったのかもしれません。しかし、その結末は、誰にとっても救いのない、苦いものでしかありません。まるで出来の悪いメロドラマのようにも見えますが、人間の感情のもつれとは、時にこれほどまでに陰湿で、救いようのないものなのかもしれません。
「水晶の数珠」
ハリウッドでの成功を夢見る直樹と、勘当した父。末期癌の父の最後の誕生日に帰国を決意するも、父からの心無い電話で反発し、再び渡米。オーディションに落ち、夢を諦めかけた頃に父の訃報が届きます。父が遺した水晶の数珠には、過去の一日に一度だけ戻れるという秘密の力が。そして、父はその力を、直樹のために使っていたことが判明します。父の誕生日翌日、新幹線は止まっており、もし直樹が帰国していたらオーディションは受けられなかった。父は未来を知り、あえて直樹を突き放すことで、息子の夢を後押ししたのです。父の不器用な愛情を知った直樹は、再び夢に向かう決意をする。実に感動的な話、なのでしょう。しかし、タイムスリップという超常的な力で、親子の和解と息子の再起を描くというのは、いささか反則技のようにも感じます。ご都合主義と言ってしまえばそれまでですが、父の行動原理も、直樹の心情変化も、この「奇跡」によってすべてが説明されてしまう。現実の葛藤や困難が、魔法の力でいとも簡単に解決される様は、感動よりもむしろ白々しさを感じさせます。父の愛は本物だったのかもしれませんが、その描き方には、もう少し工夫があっても良かったのではないでしょうか。
以上、九つの物語を見てきましたが、どの作品も東野圭吾氏らしい語り口で、読者を引き込む力を持っています。人間の持つ多面性――優しさ、醜さ、賢さ、愚かさ――が、様々な角度から描き出されていました。しかし、時にその結末は安易に感じられたり、登場人物の行動原理に疑問符が付いたりすることも事実です。それでも、日常の風景の中に潜む非日常、ささやかな出来事が人生を大きく変える瞬間を切り取ってみせる手腕は、やはり見事と言うべきでしょう。この短編集は、我々自身の日常や、心の内に潜むかもしれない僅かな歪みを、改めて見つめ直すきっかけを与えてくれるのかもしれません。
まとめ
東野圭吾氏の短編集「素敵な日本人」。九つの物語は、それぞれ異なる趣向で、読者を飽きさせません。日常に潜むミステリー、人間の心理の綾、そして時折見せるSF的なスパイス。それらが巧みにブレンドされ、一編一編が独立した読み応えを提供してくれます。
登場人物たちは、決して特別な人間ではありません。どこかにいそうな、あるいは自分自身の中にも存在するかもしれない、弱さや狡さ、そして僅かな希望を抱えた人々です。彼らが織りなす物語は、時に滑稽で、時に切なく、そして時に背筋を冷たくさせます。特に、予期せぬ結末や、核心を突くような人間描写は、東野作品ならではの魅力と言えるでしょう。
この短編集を通して見えてくるのは、完璧な人間など存在しないという、ある種の諦念にも似た真実かもしれません。誰もが矛盾を抱え、過ちを犯し、それでも生きていく。そんな人間の姿を、クールな視線で、しかしどこか温かみも感じさせる筆致で描いています。まあ、深読みしすぎかもしれませんが。ともあれ、手軽に読めて、それでいて心に何かを残す。そんな一冊をお探しなら、手に取ってみる価値はあるかもしれません。