小説『平凡』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。角田光代さんの描く世界は、いつも私たちの心の柔らかい部分にそっと触れてくるような、そんな感覚がありますよね。特にこの『平凡』という作品集は、タイトル通り、どこにでもありそうな日常、けれどその中に潜む人生の岐路や、選ばなかった道への思いが、深く、そして静かに描かれています。
収録されている六つの物語は、それぞれ異なる主人公たちの視点から語られます。彼ら彼女らは、特別なヒーローやヒロインではありません。離婚を切り出された夫、かつての友人の成功を遠くから見つめる主婦、逃げ出した猫を探す女性。どこにでもいるような、私たちと同じように迷い、悩み、そして時折、過去の選択に心を揺らす人々です。
この記事では、まず各短編の物語の筋を、結末にも触れながらお伝えします。もし物語の結末をまだ知りたくないという方は、ご注意くださいね。そしてその後、各物語を読んで私が感じたこと、考えたことを、ネタバレを気にせずにたっぷりと語っていきたいと思います。日常の中に隠された切なさや愛おしさ、そして「もしも」という、誰もが一度は考えるであろう問いについて、一緒に深く潜っていけたら嬉しいです。
角田光代さんのファンの方はもちろん、人生の選択について考えたことがある方、日々の暮らしの中でふと立ち止まってしまう瞬間がある方にとって、この『平凡』という作品、そしてこの記事が、何か心に響くものとなれば幸いです。それでは、一緒に『平凡』の世界を旅してみましょう。
小説「平凡」のあらすじ
角田光代さんの短編集『平凡』は、人生のふとした瞬間に立ち止まり、「もしもあの時、違う選択をしていたら」と考えずにはいられない人々の姿を描いた六つの物語で構成されています。それぞれの物語は独立していますが、通底するのは「選ばなかった人生」への複雑な思いと、それでも続いていく「今」という現実です。
最初の物語「もうひとつ」では、夫婦旅行に、それぞれの不倫相手を連れてきてしまった二組のカップルが描かれます。主人公の二三子は、友人こずえとその不倫相手の「もしも」の結婚式ごっこに付き合わされる中で、自分たちの人生には「もうひとつ」の選択肢など存在しない、ただ「今」があるだけだと静かに悟ります。しかし、その割り切りとは裏腹に、旅は気まずく、波乱含みで終わります。
続く「月が笑う」では、妻から突然離婚を切り出された夫、泰春が主人公です。混乱する彼の心に、幼い頃に経験した事故の記憶が蘇ります。自分に痛い思いをさせた相手を「許す」か「許さない」か。その問いは、妻の裏切り(浮気と妊娠)と向き合い、彼女を許すかどうかという現在の苦悩へと繋がっていきます。最終的に彼は、誰かを許さないことの重さから解放されるために、「許す」という選択肢に心を傾けます。
「こともなし」は、日々の幸せを演出するかのようにブログを更新し続ける主婦、聡子の物語です。彼女は、かつて深く愛した男性・旭への当てつけのように、現在の満たされた(ように見える)生活を発信しています。しかし、親友との会話や出来事を通して、そのキラキラしたブログが、実は選ばなかった過去の自分自身に向けて「今の自分が一番幸せだ」と証明するためのものだったと気づきます。
「いつかの一歩」では、かつて結婚を考えながらも別れてしまった元恋人・みのりが営む居酒屋を訪れる男性、徹平が描かれます。離婚を経験した彼は、「もしみのりと結婚していたら」という後悔に苛まれています。みのりとの再会は、過去の選択が現在の自分たちを形作っていることを改めて感じさせ、二人の関係が再び動き出す可能性を匂わせながら終わります。
表題作でもある「平凡」は、地元で平凡な主婦として暮らす紀美子と、料理研究家として成功し、華やかな世界で生きるかつての親友・春花との再会を描きます。高校時代、同じ男性を好きになった二人。春花は、紀美子の「平凡」な暮らしぶりを確認しに来たのではないか、そして自分の選ばなかった人生をどこかで見下しているのではないか、という疑念が紀美子の心をよぎります。しかし春花は、「腐るほどの平凡」を不幸だと考えていたけれど、そうではなかったと語り、去っていきます。
最後の「どこかべつのところで」は、逃げた飼い猫を探す庭子と、彼女に寄り添う不思議な女性・依田愛の物語です。依田愛は、過去に自分の不注意が息子の死に繋がったかもしれないという、決して消えることのない「もしも」を抱えています。彼女は、「おにぎりを作らなかったもう一人の自分」が、別の人生を生きていると語ります。取り返しのつかない後悔を抱えた時、人は「もしも」の世界に救いを求めるのかもしれない、そんな重く、切ない余韻を残します。
小説「平凡」の長文感想(ネタバレあり)
角田光代さんの『平凡』、読み終えてまず感じたのは、胸の奥がぎゅっとなるような切なさと、同時に、自分の足元にある日常がなんだかとても愛おしく思えるような、不思議な温かさでした。六つの短編、それぞれが違う角度から「人生の選択」と「選ばなかった道」、そして「平凡であること」を問いかけてきて、読みながら何度も自分の人生を振り返ってしまいましたね。ここからは、各短編について、物語の結末にも触れながら、私が感じたことを率直にお話ししていきたいと思います。
まず「もうひとつ」。これは正直、読んでいて少しイライラしてしまった部分もありました。主人公の二三子自身は、「もうひとつの人生なんてない」と、ある種達観した視点を持っているのに、友人こずえとその不倫相手の身勝手さに振り回される展開は、読んでいてストレスを感じました。特にこずえの、現実から目をそらし、「もしも」の世界に浸ろうとする姿は、痛々しくもあり、少し滑稽にさえ見えてしまいます。二三子が最後に「私たちにあるのは、今、とそれ以外、だけだ」と断じる場面は、この短編集全体のテーマを最初に提示するようで、非常に印象的でした。でも、分かっていても、人は「もしも」を考えてしまう生き物なんですよね。だからこそ、この後の物語が続くのでしょう。二三子の冷静さが、逆にこずえの「もし」への執着を際立たせているように感じました。
次に「月が笑う」。これは夫・泰春の視点で描かれる物語ですが、妻の冬美から離婚を切り出され、しかもその理由が別の男性との間の妊娠というのは、かなり衝撃的です。泰春が幼少期の事故の記憶と重ね合わせながら「許す」ということについて葛藤する姿は、とても考えさせられました。参考にした感想ブログにもありましたが、「許す」という行為は、相手のためだけでなく、自分自身を重荷から解放するためでもある、という視点はなるほどと思いました。ただ、個人的には、泰春のように冷静に「許し」について考えられるだろうか、と考えてしまいます。もっと感情的になってしまうのではないかと。それでも、物語の最後で彼が「許す」方向へ心を定めるのは、前に進むための一つの決断なのでしょう。読み手としても、重いテーマながら、かすかな救いを感じました。
そして「こともなし」。これは私にとって、非常に共感度の高い物語でした。主人公の聡子が、キラキラした日常をブログで発信する姿。一見、幸せそうで何の問題もなさそうに見えるけれど、その裏には元彼への複雑な感情や、現在の生活への小さな不満が見え隠れします。親友の「ブログってさ、そいつらに読ませたくて書いてるわけだ?」という鋭い指摘には、ドキッとさせられました。でも、聡子が最終的に気づく、「選ばなかった私自身」に向けて書いていた、という結論には、深く頷いてしまいました。私たちは、過去の自分、違う選択をしたかもしれない自分に対して、「今の私はこれで幸せなんだ」と証明したいのかもしれません。見栄や自己満足と言ってしまえばそれまでですが、そうやって自分を肯定しないと、前に進めない時もある。聡子の姿は、SNS時代の私たちの心理を巧みに映し出しているように感じました。
「いつかの一歩」は、過去の恋愛を引きずる男性・徹平の物語。年上の元恋人・みのりとの再会を通して、「もし結婚していたら」という後悔と向き合います。みのりが語る「ひとつなければ、次の一つもなくて、そうしたら、またぜんぜんべつのところにいってるんだなあーって、しみじみ思うのよね」という言葉は、選択の連鎖が人生を作るという、当たり前だけれど忘れがちな真実を思い出させてくれます。徹平と別れたからこそ、みのりは料理の腕を磨き、店を開くという今の人生を歩んでいる。徹平にとっては後悔でも、みのりにとっては今の自分に繋がる必要なステップだったのかもしれません。最後、二人の関係が再び始まることを予感させる終わり方は、少し甘いようにも感じましたが、人生にはこういう再出発もあるのかもしれない、と思わせてくれました。
表題作の「平凡」。これは、読んでいて少し心がざわつくような感覚がありました。成功した友人・春花と再会した主婦・紀美子。春花の言葉の端々から、「平凡な暮らし」を見下されているような、あるいは自分の不幸を期待されているような、そんな疑念が拭えません。春花が最後に「腐るくらいの平凡が不幸って、なんとなく思ってたけど、それも違ったね」と語る場面は、本心なのか、それとも紀美子への牽制なのか、少し解釈が分かれるところかもしれません。参考ブログでは、春花の言葉を「呪い」ではなく「願い」に近いのでは、と考察していましたが、私は少し違う印象を受けました。春花は、自分が手に入れられなかった「平凡な家庭」を持つ紀美子に対して、複雑な感情を抱えている。そして、その「平凡」が必ずしも幸福ではないことを確認しに来た、あるいはそうであってほしいと願っていた部分もあるのではないかと感じました。人の心の奥底にある、嫉妬や優越感といった感情が生々しく描かれていて、少し怖さも感じました。
最後に「どこかべつのところで」。これは、六編の中で最も重く、切ない物語でした。逃げた猫を探す庭子が出会う依田愛。彼女が語る、自分のせいで息子が死んだかもしれないという「もしも」。これは、他の物語で描かれるような恋愛やキャリアの選択とは次元の違う、取り返しのつかない後悔です。依田愛が「おにぎりを作らなかったもう一人の自分」が別の人生を生きている、と語る場面は、あまりにも悲痛で、胸が締め付けられました。人は、耐え難い現実を前にした時、「もしも」の世界に別の自分を生きさせることでしか、心を保てないのかもしれません。猫が見つからないまま終わる結末も、人生のやるせなさや、ままならなさを象徴しているようで、深い余韻を残しました。「平凡」というタイトルとは裏腹に、人生の過酷な側面を突きつけられたような気がします。
この『平凡』という作品集を通して感じたのは、私たちは皆、大なり小なり「選ばなかった道」を心の中に抱えて生きているのだということです。そして、その「もしも」をどう捉え、どう向き合っていくかが、今の自分を形作っていく。ある人は「もうひとつ」の人生などないと割り切り、ある人は「選ばなかった自分」に向けて今の幸せを叫び、またある人は「もしも」の世界に別の自分を生きさせる。どれが正解というわけではなく、それがそれぞれの生き方なのでしょう。
角田光代さんは、決して声高に何かを主張するわけではありません。ただ、ごく普通の、私たちの隣にいそうな人々の日常を、その心の機微を丁寧にすくい取り、静かに描き出します。だからこそ、読者は登場人物たちの誰かに自分を重ね合わせ、彼らの葛藤や痛みを自分のことのように感じてしまうのかもしれません。
特に印象に残ったのは、「こともなし」で聡子が気づく、「だって幸せじゃなきゃ困るじゃない」「私がよ」という言葉。これは、多くの人が心のどこかで感じている本音ではないでしょうか。選ばなかった道の方が良かったかもしれない、なんて考えたくない。だから、今の自分を肯定するために、私たちは時に必死になる。それは、見栄っ張りかもしれないし、自己欺瞞かもしれないけれど、生きていくための、ある種の強さなのかもしれません。
また、「平凡」という言葉の意味についても深く考えさせられました。私たちはつい、「平凡」を退屈でつまらないもの、あるいは見下すべきもののように捉えがちです。でも、この物語に出てくる人々のように、失ってみて初めてその価値に気づいたり、あるいは「平凡」であること自体が、誰かにとっての嫉妬の対象になったりもする。そして、依田愛が抱えるような壮絶な過去に比べれば、日々の小さな悩みや不満は、ある意味で「平凡」で「幸せ」なことなのかもしれない、とも思いました。
物語全体を覆うのは、どこか物悲しい、切ない空気感です。でも、それは絶望的な暗さではありません。人生のままならなさや、選択の後悔を受け入れながらも、それでも人々は日々を生きていく。その姿に、静かな力強さを感じます。「もしも」を考えたとしても、結局私たちが生きられるのは「今、ここ」しかない。その現実を、角田さんは厳しくも温かい眼差しで見つめているように思えました。
この『平凡』は、派手な出来事が起こるわけではありません。けれど、読めば読むほど、じわじわと心に染み込んでくるような、深い味わいのある作品集だと感じます。読み終えた後、自分の日常が少し違って見えるような、そんな不思議な感覚に包まれました。何気ない毎日の中にこそ、人生の複雑さや、愛おしさが詰まっているのかもしれませんね。
まとめ
角田光代さんの短編集『平凡』は、私たちの日常に潜む「もしも」という普遍的な問いに光を当てた、深く心に響く作品でした。六つの物語を通して描かれるのは、特別な誰かではなく、私たちと同じように迷い、後悔し、それでも日々を生きる人々の姿です。それぞれの主人公が抱える「選ばなかった道」への思いは、読者自身の経験と重なり、共感を呼びます。
物語の中では、「もしも」との向き合い方が様々に描かれています。「もうひとつ」の人生などないと割り切る強さ、「選ばなかった自分」に向けて現在の幸せを確認しようとする切実さ、そして、取り返しのつかない後悔を抱え、「もしも」の世界に救いを求める悲痛さ。これらの姿を通して、人生の選択がもたらす複雑な感情と、それでも続いていく現実の重みを感じさせられました。
この作品は、「平凡」であることの意味も問いかけます。退屈さの象徴とされがちな「平凡」ですが、それは時に失われて初めて気づく価値を持ち、また、誰かにとっては切望するものであり、嫉妬の対象にさえなり得るのです。何気ない日常の中にこそ、人生の深淵や、かけがえのない瞬間が隠されているのかもしれない、そう思わせてくれます。
読後、自分の人生や日常が少し違った色合いで見えてくるような、そんな余韻が残りました。人生の岐路に立った経験のある方、過去の選択に思いを馳せることがある方、そして、日々の暮らしの中に埋もれがちな大切なものを見つめ直したいと感じている方に、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。角田光代さんの静かで確かな筆致が、きっとあなたの心にも深く染み入ることでしょう。