小説「フォスフォレッスセンス」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治という作家が生み出した、どこか不思議で、そして切ない響きを持つこの作品。一度聞いたら忘れられないような、少し舌を噛みそうなタイトルですよね。「フォスフォレッスセンス」とは一体何を指すのか、物語の中でどのように関わってくるのでしょうか。
この物語は、夢と現実、二つの世界を生きる男の心情を深く描いています。夢の中でしか会えない「妻」との逢瀬、そこで流す涙のほうが現実の涙よりも真実味を帯びているという感覚。なんとも太宰治らしい、繊細で複雑な感情が渦巻いています。一部では「戦後太宰の最高傑作」とも評されるこの短編について、その物語の筋を追いながら、私なりに感じたことを詳しくお話ししていきたいと思います。
物語の結末にも触れながら、その内容を詳しく見ていきますので、「まだ結末は知りたくない」という方はご注意くださいね。しかし、この物語の持つ独特の雰囲気や、主人公の心の揺らぎ、そして太宰治が投げかける「生きること」への問いかけは、結末を知った上で読むことで、さらに深く味わえるかもしれません。
この記事では、「フォスフォレッスセンス」の物語の核心に触れつつ、その世界観や登場人物の心理、そして作品全体から受けた印象を、私自身の言葉で綴っていきます。この少し変わったタイトルの物語が、あなたの心にどんな光を灯すのか、一緒に探っていけたら嬉しいです。
小説「フォスフォレッスセンス」のあらすじ
物語は、ある母と娘の他愛ない会話の考察から始まります。「まあ、綺麗きれい。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」と夢見るようなことを言う母と、「あら、お母さん、それは夢よ。」と現実的に返す娘。主人公である「私」は、この会話を聞いて、どちらが夢想家でどちらが現実家なのか、その境界が曖昧に感じられると語り始めます。
「私」は、人間は目覚めている現実の世界だけでなく、眠っている間の夢の世界でもう一つの人生を生きている、という考えを持っています。夢の中で成長し、老いていく。つまり、この世の現実とは別の、もう一つの現実が存在するのだと。「私」には、この世のどこにもいないはずの「妻」が、夢の中に確かに存在し、言葉も肉体も持って生きているのです。
「私」は、その夢の中の妻との逢瀬を重ねています。夢の中で流す涙は、現実世界で流す涙よりもずっと切実で、本当の涙のように感じられる。「私」にとって、夢の世界は現実から逃避する場所であると同時に、もう一つの真実の世界なのです。この感覚は、フロイトの言うような「夢は現実の反映」という考え方とは異なり、夢と現実は連続しつつも、それぞれが独立した本質を持つという、「私」独自の捉え方に基づいています。
そんなある日、夢の中に一羽の奇妙な鳥が現れます。蝙蝠に似ていて、片方の翼が3メートルもあるその鳥は、カラスのような声で「私」に語りかけます。「ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。」と。この鳥の言葉は、「私」にとって一つの転機となります。
鳥の言葉を受け、「私」は夢の世界だけに重きを置くのではなく、現実の世界と夢の世界、その両方に生きることを受け入れ始めるようになります。それは前向きな変化というよりは、どこか諦めに似た感情のようにも見えます。現実のやるせなさ、夢の中の愛しさ、その両方を抱えて生きていくしかない、という覚悟のようなものでしょうか。
物語の終わり、「私」は夢の中の妻に「別れる、と言って。」と頼みます。妻が「別れて、また逢うの?」と問うと、「私」は「あの世で。」と答えます。そして場面は変わり、「私」は現実世界で関係を持っているであろう「あのひと」(おそらくモデルは山崎富栄とされる女性)の家を訪ねます。そこで女中から、家の主人が南方で行方不明になっているという話を聞くところで、物語は幕を閉じます。夢と現実、生と死が交錯する余韻を残して。
小説「フォスフォレッスセンス」の長文感想(ネタバレあり)
太宰治の『フォスフォレッスセンス』という作品について、私が感じたこと、考えたことを、少し長くなりますがお話しさせてください。この作品、まずタイトルからして非常に印象的ですよね。「フォスフォレッスセンス」。声に出して読んでみると、なんだか不思議な響きがあります。作中では、綺麗な花を見た編集者に名前を問われた「私」が「Phosphorescence」と答える場面があり、てっきり花の名前なのかと思いきや、どうやらそういう名前の花は実在しないようなのです。太宰治の想像の中にだけ咲く花、ということなのでしょうか。
「Phosphorescence」という英単語自体は存在していて、「燐光(りんこう)」、つまり物質が光を吸収した後に自ら発する、淡い光のことを指します。夜光塗料の光などがこれにあたりますね。暗闇でぼんやりと光る、あの感じです。作中には具体的な花の描写はありませんから、読んだ人それぞれが自分だけの「フォスフォレッスセンス」の花を心の中に思い描くことができる。例えば、私は暗闇の中で淡く光る鈴蘭のような花を想像してみました。皆さんはどんな花を思い浮かべますか?この、読者の想像力に委ねられている部分が、この作品の魅力の一つだと感じます。
ちなみに、このタイトルと同じ名前のブックカフェが、太宰治が晩年を過ごした東京の三鷹市にあるそうです。太宰ファンの方が経営されているお店だとか。いつか訪れてみたい場所の一つです。こういう、作品世界と現実とが繋がるようなエピソードを知ると、なんだか嬉しくなりますね。
さて、この『フォスフォレッスセンス』ですが、一部では「戦後太宰の最高傑作」という声もあると聞きます。太宰作品を全て読んだわけではない私には、その評価が妥当かどうかを判断することはまだできませんが、非常に興味深い作品であることは間違いありません。特に、物語の導入部分、母と娘の会話から始まる考察は、荘子の「胡蝶の夢」を思い起こさせます。夢の中で蝶になった自分と、現実の自分。どちらが本当の姿なのか?『フォスフォレッスセンス』の「私」もまた、夢と現実の境界線上で揺れ動いています。
「私」は、夢の中にもう一つの現実があり、そこには「妻」がいると語ります。この「夢の中の妻」というのは、現実世界では結ばれることのない、おそらくは愛人の女性なのでしょう。うまくいかない現実から目を背けるように、「私」は夢の世界を肯定し、そこに真実を見出そうとします。夢の中で流す涙の方が、現実の涙よりもずっと本当の涙のように感じられる、という描写には、胸を打たれました。理屈ではなく、感覚として訴えかけてくるものがあります。それは、「私」がいかに現実の世界で満たされず、苦しんでいるかの裏返しでもあるのでしょう。
この「夢の世界への傾倒」は、現代的な視点から見ると、少し違った意味合いも帯びてくるように感じます。例えば、インターネット上の仮想空間や、オンラインゲームの世界に没入する人々。「私のリアルはそっちじゃない」という感覚。あるいは、好きなキャラクターを「俺の嫁」と呼ぶような文化。これらは、「私」が夢の世界に見た「もう一つの現実」と、どこか通じるものがあるのではないでしょうか。VR技術がさらに進化すれば、肉体は眠ったまま、意識だけがリアルな夢の世界で活動する、なんて未来も来るかもしれません。それは、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』のようなSFの世界ですが、あながち絵空事とも言い切れない気がします。
しかし、「私」の夢理論は、単なる現実逃避とは少し違うようにも思えます。フロイトの夢解釈(夢は抑圧された願望の表れなど)を批判しつつ、「私」は夢と現実には連続性がありながらも、それぞれが別の本質を持つと主張します。正直なところ、この理論は私には少し難解で、完全には理解できていないかもしれません。ただ、「夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜しくて泣いている」という部分を読むと、夢と現実が完全に切り離されているわけではない、という感覚は伝わってきます。
物語の中で重要な役割を果たすのが、夢の中に現れる奇妙な鳥です。蝙蝠のようで、片翼が3メートルもあるという異様な姿。その鳥が「私」に「ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。」と告げます。この言葉は、夢の世界に沈潜していた「私」を、ある意味で現実へと引き戻すきっかけになったのかもしれません。あるいは、夢の世界の慰めと、現実世界の厳しさ、その両方を受け入れなさい、というメッセージだったのでしょうか。
この鳥の言葉の後、「私」は二つの世界に生きることを受け入れるようになりますが、それは決して前向きな変化だけではないように私には感じられました。むしろ、ある種の「諦観」に近いのではないでしょうか。現実の苦しみから完全に逃れることはできない、夢の中の幸福もまた永遠ではない。その両方を抱えて生きていくしかないのだ、という諦め。だからこそ、「私」は夢の中の妻に「別れる、と言って。」と願うのかもしれません。
そして、その別れの言葉に対する妻の問い、「別れて、また逢うの?」に対する「私」の答えは、「あの世で。」です。この言葉は、非常に重く響きます。特に、この作品が書かれた翌年に太宰治自身が自ら命を絶ったという事実を知っていると、どうしても深読みしてしまいます。これは単なる物語のセリフではなく、太宰自身の死生観や、あるいは死への願望のようなものが込められているのではないか、と考えてしまうのです。もちろん、これは私の勝手な解釈に過ぎませんが、そう感じずにはいられません。
この作品が、太宰治の口述筆記によって書かれたという事実にも驚かされます。あれほど繊細で、複雑な心理描写や、独特の世界観を持つ物語を、語りだけで紡ぎ出すことができた。その才能には、ただただ感嘆するばかりです。言葉を選び、文章を練り上げるのとはまた違う、湧き出るような創造力があったのでしょうね。
太宰治の娘である作家・津島佑子さんも、夢を題材にした作品を書かれています。父である太宰治の記憶がほとんどないという彼女。ある方が感想で書かれていたように、「せめて、夢の中だけででも(父と娘が)会っていて欲しい」と願わずにはいられない、という気持ちも、なんだかわかる気がします。夢と現実、生と死、愛と別れ。そういった普遍的なテーマが、この『フォスフォレッスセンス』という短い物語の中には、凝縮されているように思うのです。
結局のところ、『フォスフォレッスセンス』は、うまくいかない現実から夢の世界へと救いを求めた男の、しかしその夢からもやがて離れ、「あの世」での再会を願うに至るまでの、痛切な心の軌跡を描いた物語だと私は捉えています。燐光のように、暗闇の中で淡く、しかし確かに存在する希望や愛、そしてそれらと隣り合わせにある絶望や諦念。それらが複雑に絡み合い、読む者の心に深い余韻を残します。
「戦後太宰の最高傑作」かどうかは別として、この作品が太宰治の文学の中でも特異な光を放っていることは確かでしょう。夢という、誰もが経験する身近な現象を入り口にしながら、人間の心の深淵、生と死の問題にまで切り込んでいく。その筆致(あるいは語り口)は、読む者を捉えて離しません。
もし、あなたがまだこの『フォスフォレッスセンス』を読んだことがないのであれば、ぜひ一度手に取ってみることをお勧めします。きっと、あなたの心の中にも、暗闇で淡く光る、あなただけの「フォスフォレッスセンス」の花が咲くかもしれません。そして、夢と現実について、少し考えてみるきっかけになるのではないでしょうか。
まとめ
太宰治の『フォスフォレッスセンス』という作品について、その物語の筋を追いながら、私なりに感じたことをお話しさせていただきました。夢と現実という二つの世界を生きる「私」の姿を通して、人間の心の複雑さや、愛と喪失、生と死といったテーマが深く描かれている作品でしたね。
特に印象的だったのは、やはりタイトルにもなっている「フォスフォレッスセンス(燐光)」という言葉の持つイメージです。暗闇の中で淡く光る存在、それは夢の中の「妻」であり、はかない希望のようでもあり、読者一人ひとりの心に委ねられた想像の産物でもあります。この曖昧さが、作品に奥行きを与えているように感じます。
夢の中で流す涙のほうが真実味があるという感覚や、奇妙な鳥の言葉、そして「あの世で」という結末の言葉には、太宰治自身の内面や死生観が色濃く反映されているようにも思えました。口述筆記で書かれたという事実も、この作品の持つ独特の雰囲気を醸し出す一因かもしれません。
この物語は、単なる現実逃避の話ではなく、夢と現実の両方を受け入れざるを得ない人間のやるせなさや諦観をも描き出しています。「戦後太宰の最高傑作」という評価もあるこの作品、ぜひ実際に読んでみて、あなた自身の心でその光を感じ取ってみてはいかがでしょうか。きっと、忘れられない読書体験になると思います。