小説「盗難」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。江戸川乱歩の短編の中でも、少し変わった読後感を残すこの作品、皆さんはどう読まれますか?事件の真相がはっきりと示されない、いわゆるリドル・ストーリーと呼ばれる形式をとっており、読者に解釈の余地が大きく残されているのが特徴です。

物語は、ある宗教団体の支教会で働く「私」の視点で語られます。ある日、教会に集まった寄付金を狙うという、大胆不敵な犯行予告が届きます。予告通り現れたのは警官を装った泥棒。まんまと寄付金を奪われてしまいますが、話はそれだけでは終わりません。後日、意外な形で事件の「真相」らしきものが語られ、さらにその「真相」さえも覆される可能性が示唆されるのです。

この記事では、まず「盗難」の物語の流れを、結末の核心部分にも触れながら詳しくお話しします。どのような事件が起こり、どのような結末を迎えるのか、未読の方にも分かりやすいように記述しました。もちろん、結末を知りたくない方はご注意くださいね。

そして後半では、この「盗難」という作品について、私なりの深い読み解きと考察を、ネタバレを気にせず存分に語っていきたいと思います。なぜ犯人はあのような行動をとったのか? 主任の本当の狙いは何だったのか? そして、最後に残された謎は何を意味するのか? 一緒に考えていきましょう。

小説「盗難」のあらすじ

物語の語り手である「私」は、とある新興宗教団体の支教会で、住み込みの雑用係として五年ほど働いていました。そこの主任はなかなかのやり手で、信者を集め、寄付金を集める才覚に長けており、教会はそれなりに裕福な様子でした。ある時、説教所を建て増すことになり、主任はわずか十日ほどで五千円もの大金を集めます。当時の五千円といえば、大変な金額です。

そんな折、主任宛てに奇妙な手紙が届きます。『今夜十二時、貴殿が集めた寄付金を頂戴しに参上する』という、泥棒からの犯行予告状でした。主任は「ただの悪戯だろう」と笑って取り合いませんでしたが、「私」は心配でなりません。なんとか主任を説得し、警察へ届け出ることにしました。

警察署へ向かう道すがら、「私」は偶然、数日前に戸籍調べに来たという顔見知りの「巡査」に出会います。事情を説明すると、その巡査は「そんな間抜けな泥棒がいるものか」と笑いながらも、念のため今夜、教会を見回りに来てくれると約束してくれました。これで一安心、と「私」は胸をなでおろします。

その夜、予告通り十二時を過ぎても泥棒は現れません。応接間で、私、主任、そして昼間の巡査の三人で見張っていましたが、不審な物音一つしません。しびれを切らした巡査が「念のため、金庫の中を確認してはどうか」と提案します。「私」が金庫を開け、分厚い札束を取り出して見せると、その瞬間、巡査の態度が豹変します。

巡査は片手にピストルを構え、「動くな」と脅すと、札束をひったくり部屋の外へ飛び出しました。あっけにとられる私と主任。しかし、襖の隙間からはピストルの銃口が覗いており、迂闊に動けません。しばらくして、主任の奥さんが恐る恐る襖を開けると、なんとピストルは鴨居の釘から紐で吊るされていたのです。まんまと一杯食わされたのでした。

慌てて偽警官を追う私と主任。町を駆け抜けていると、今度は本物の巡査(夜間の巡回中)に出くわしました。事情を話すと、その巡査は「それは偽物の警官に違いない。すぐに捕まるだろうから安心しろ」と力強く言ってくれました。しかし、その後、主任が何度警察に問い合わせても、犯人が捕まることはありませんでした。事件は迷宮入りかと思われました。

小説「盗難」の長文感想(ネタバレあり)

さて、ここからは小説「盗難」について、結末のネタバレも気にせずに、じっくりと感想と考察を述べていきたいと思います。この作品、読めば読むほど、いろいろな解釈が浮かんできて、実に味わい深いものがありますね。

まず、この物語の最大の魅力は、やはりその「解決されなさ」にあるのではないでしょうか。最後まで読んでも、結局真相は何だったのか、明確には示されません。語り手の「私」自身が混乱し、「いったい何が本当だったのだろう?」と自問自答する形で終わります。これが、いわゆるリドル・ストーリーというやつですね。江戸川乱歩は、こうした読者の想像力に委ねる結末を好んで用いたと言われています。

確かに、すっきりしない、もやもやした気持ちが残るかもしれません。特に、明確な答えが示されるミステリーに慣れていると、少し物足りなさを感じる方もいるでしょう。乱歩自身も、この作品を「息休めに属する拙作」と述べているくらいですから、彼自身も最高傑作とは考えていなかったのかもしれません。

しかし、この「もやもや感」こそが、「盗難」の面白さの核心だと私は思うのです。提示された断片的な情報をつなぎ合わせ、自分なりに真相を推理していく。その過程が実に楽しい。「私」が最後に言うように、「その他にも、まだ色々の考え方がありますよ」という言葉が、読者をさらなる思考の迷宮へと誘います。

では、どのような解釈が可能でしょうか? まず考えられるのは、二ヶ月後に「私」が出会った泥棒(偽警官)の言葉通り、主任が寄付金を偽札とすり替えて着服し、泥棒はまんまと偽札を掴まされた、という筋書きです。泥棒が「私」に渡した百円札も、実は本物だったが、追っ手をまくために「偽札だ」と嘘をついた、という可能性です。これは、物語の表面的な流れとしては最も自然に見えます。

しかし、本当にそうでしょうか? いくつか疑問点が残ります。まず、泥棒が「私」に渡した札が本物だったとして、なぜ彼はそんなリスクを冒したのか? 捕まるかもしれない相手に、わざわざ証拠となりうる本物の紙幣を渡すでしょうか。しかも三枚も。これは、彼が「私」を完全に油断させるための、計算された嘘だったとも考えられます。つまり、彼が盗んだのはやはり偽札で、「私」に渡したのも偽札だった、と。ただ、「私」の妻が使えたのは、たまたま運が良かっただけ、あるいは別の理由があったのかもしれません。

いや、待ってください。そもそも主任が寄付金を偽札にすり替えていた、という前提自体が疑わしいかもしれません。参考にした感想ブログの一つにもありましたが、もし偽札だと発覚した場合、主任の立場は非常に危うくなります。泥棒が捕まれば、偽札の存在が明るみに出て、主任の着服がバレてしまうリスクがあります。用意周到な主任が、そんな危険な橋を渡るでしょうか? 犯行予告があった当日に、都合よく大量の偽札を用意できたのか、という疑問も残ります。

となると、盗まれたのはやはり本物の五千円だった、と考える方が自然かもしれません。では、なぜ泥棒は二ヶ月後に「私」に対して「偽札だった」と嘘をついたのでしょうか? それはやはり、追跡を逃れるため、そして「私」を混乱させるためだったのでしょう。「主任に一杯食わされた」と思い込ませれば、「私」はそれ以上泥棒を追及しようとは思わないかもしれません。

さらに謎を深めるのが、事件後に現れた「本物の巡査」の存在です。彼は本当にただの巡回中の警官だったのでしょうか? それとも、偽警官(泥棒)の仲間だったのでしょうか? 偽警官が逃走した後、追ってきた「私」と主任を足止めするために配置されていた、という可能性も考えられます。そうだとすれば、非常に計画的な犯行だったことになります。

参考にした感想ブログの中には、「主任と泥棒と本物の巡査、三人がグルだったのではないか」という大胆な推理もありました。これは非常に面白い視点です。主任が自ら泥棒と結託し、寄付金を山分けする計画だったとしたら? しかし、これもまた疑問が残ります。抜け目のない主任が、わざわざリスクの高い共犯者を作るでしょうか? 彼なら、もっと安全に、合法的に信者からお金を集めることもできたはずです。

このように、「盗難」は様々な解釈の扉を開いてくれます。どの説を取っても、完全には納得できない部分が残り、また別の可能性が頭をもたげてくる。このループこそが、リドル・ストーリーの醍醐味と言えるでしょう。読者は探偵のように、限られた手がかりから真相を構築しようと試みますが、決定的な証拠は見つからないのです。

また、この作品のもう一つの興味深い点は、当時の新興宗教団体に対する社会の視線が垣間見えるところです。「私」が働く支教会は、詳細こそ描かれませんが、どこか胡散臭い雰囲気を漂わせています。主任は宗教家というよりは商売人のように描かれ、信者から巧みに寄付金を集め、贅沢な暮らしをしている様子がうかがえます。これは、大正末期から昭和初期にかけて、新興宗教が勃興し、時に社会問題化していた世相を反映しているのかもしれません。

閉鎖的な宗教団体という舞台設定も、物語に独特の陰影を与えています。内部で何が起きていても、外部からは窺い知れない。主任が本当に寄付金を着服していたとしても、あるいはもっと別の不正が行われていたとしても、不思議ではないような空気があります。このような「閉鎖社会」は、ミステリーやサスペンスの舞台として非常に魅力的であり、乱歩もその効果を熟知していたのでしょう。

語り手である「私」の人物像も、考察のしがいがあります。彼は五年も教会に勤めながら、どこか部外者のような醒めた視線を持っています。主任のやり方に疑問を感じつつも、強く反発するわけでもなく、流されるように日々を過ごしている。そして、事件に巻き込まれ、真相を知ろうとしますが、結局は翻弄され、最後は諦めたように教会を去っていきます。彼の語る内容は、どこまで信頼できるのでしょうか? 彼の思い込みや誤解が、事件の真相をさらに複雑に見せている可能性はないでしょうか?

江戸川乱歩の作品群の中で、「盗難」は確かに「派手さ」には欠けるかもしれません。名探偵が登場するわけでも、猟奇的な事件が起こるわけでもありません。しかし、人間の心理の曖昧さ、真実の見えにくさ、そして社会の暗部を巧みに描き出した、非常に考えさせられる作品だと思います。「息休め」どころか、読者の思考を大いに刺激する、優れた短編と言えるのではないでしょうか。

結局のところ、真相は闇の中です。泥棒が盗んだのは本物のお金だったのか、偽札だったのか。主任は善人だったのか、悪人だったのか。後から現れた巡査は何者だったのか。読者は自分なりの答えを見つけるしかありません。そして、その答えに完全な自信を持てないまま、物語の世界を後にするのです。この宙吊りのような感覚、不安定な足場こそが、「盗難」を読む体験の核心なのかもしれません。何度読んでも、新しい発見や疑問が生まれてくる、そんな奥深さを秘めた一作だと、私は感じています。

まとめ

さて、江戸川乱歩の短編小説「盗難」について、あらすじからネタバレを含む感想・考察まで、詳しく見てきましたがいかがでしたでしょうか。この物語は、単なる盗難事件を描いているだけでなく、人間の心理や社会の側面、そして「真実とは何か」という問いを投げかけてくる、非常に興味深い作品です。

明確な結末が示されないリドル・ストーリーという形式は、読む人によっては消化不良に感じるかもしれません。しかし、その曖昧さこそが、読者に自由な解釈と推理を楽しむ余地を与えてくれます。主任、偽警官、本物の巡査、そして語り手の「私」。それぞれの思惑や嘘が絡み合い、真相は迷宮の奥深くに隠されたままです。

また、新興宗教団体という閉鎖的な舞台設定が、物語に独特の不穏な空気をもたらしています。当時の社会背景も感じさせ、単なるミステリーとしてだけでなく、人間ドラマとしても読み応えがあります。江戸川乱歩の多彩な作風の一端に触れることができる一作とも言えるでしょう。

もしあなたが、単純な勧善懲悪ではない、少し考えさせられるような物語を求めているなら、「盗難」はきっと知的な刺激を与えてくれるはずです。読後に残る「もやもや」も含めて、ぜひこの不思議な物語の世界を味わってみてください。青空文庫などで気軽に読むことができますので、未読の方はこの機会に手に取ってみてはいかがでしょうか。