小説「クレオパトラの夢」のあらすじを結末まで含めて紹介します。長文の受け止め方も書いていますのでどうぞ。

本作は、驚異的な記憶力を持つウイルスハンター、神原恵弥を主人公とするシリーズの第二弾です。舞台は日本の北国、北海道の架空都市H市。恵弥がこの地を訪れた目的は二つあります。一つは、不倫関係にある双子の妹・和見を東京へ連れ戻すこと。もう一つは、彼の専門分野に関わる謎、「クレオパトラ」を追うことです。

物語は、恵弥がH市に到着するところから始まります。妹との再会、不倫相手の突然の死、そして「クレオパトラ」という謎めいた言葉。恵弥は妹の代わりに葬儀に参列し、関係者から情報を集め始めます。やがて、妹の失踪、協力者との出会い、そして危険な存在の影がちらつき始め、事態は複雑な様相を呈していきます。

この記事では、物語の始まりから結末までの流れを追いながら、その核心部分に迫ります。さらに、私がこの作品を読んで感じたこと、考えたことを詳しくお伝えします。読み応えのあるミステリーであり、登場人物たちの人間ドラマとしても深く考えさせられる作品ですので、ぜひ最後までお付き合いください。

小説「クレオパトラの夢」のあらすじ

神原恵弥は、世界を股にかける製薬会社の研究員であり、その卓越した能力から「ウイルスハンター」とも呼ばれています。彼が日本の北国、H市へ降り立ったのは、双子の妹・和見を説得し、東京へ連れ帰るためでした。和見は婚約者を捨て、妻子ある大学助教授・若槻慧と不倫関係を続け、彼を追ってこの街で暮らしていたのです。

久しぶりに再会した妹から恵弥が頼まれたのは、ある人物の告別式への代理参列でした。その人物とは、和見の不倫相手である若槻慧。彼は数日前に事故死したというのです。不倫相手という立場上、和見は葬儀に出られません。恵弥は弔問客を装い、慧に関する情報を集めます。慧が妻と別居し、札幌で一人暮らしをしていたこと、自宅で転倒死したこと、そして「クレオパトラ」という謎の研究に没頭していたことを知ります。

恵弥は和見のマンションに一泊した後、彼女と共に慧が札幌郊外に借りていた一軒家に忍び込みます。そこから慧愛用の湯飲みと、彼が書き込みをしたH市の地図を持ち出しました。しかし翌朝、和見は置き手紙と鍵を残して姿を消してしまいます。恵弥は残された地図に記された三つの×印の場所、すなわち古い個人医院、製氷業発祥の地であるG稜郭、そして慧の妻・慶子の実家である辰川畜産院を巡ることにします。

調査の足としてレンタカーを手配してくれたのは、慧の葬儀で出会った多田直樹でした。恵弥は、これら三つの場所がすべて「天然痘」に関係していることに気づきます。慧は「クレオパトラ」というコードネームで、天然痘ワクチンの開発を秘密裏に進めていたのではないか、という仮説が浮かび上がります。ドライブの後、恵弥は多田から、彼が慶子の従兄弟であり、妻と死別しているという身の上話を聞きます。

翌日、恵弥は札幌に住む慧の妻、慶子を訪ねます。慶子の口から語られたのは衝撃的な事実でした。慧は無精子症であり、夫婦の息子は慶子が別の男性との間にもうけた子供であること。慧が離婚しなかったのは慶子の実家の財産が目当てであり、和見との関係も愛情ではなく、弁護士としての能力を利用するためだったこと。慶子は「クレオパトラ」についても、慧の夢物語だと一蹴します。失意のままH市の和見のマンションに戻った恵弥を待っていたのは、侵入者の襲撃でした。護身術を心得ていた恵弥は難なく取り押さえますが、彼らは防衛庁の人間で、この部屋にある「何か」を探していたことが判明します。

再び札幌へ向かった恵弥は、駅のテレビで和見のマンションが全焼したというニュースを目にします。呆然とする恵弥の前に現れたのは、無事だった和見でした。彼女は危険を感じ、慧の家に隠れていたのです。そして、ついに「クレオパトラ」の正体が明かされます。それはワクチンではなく、生物兵器としての天然痘ウイルスそのものでした。胃がんで余命宣告を受けていた慧は、最後の研究成果を和見に託し、冷凍庫に保管させていましたが、それは火事によってすべて灰燼に帰したのです。事件解決後、H市郊外のケーブルカーで恵弥、和見、慶子、多田は顔を合わせます。親密な様子の慶子と多田を見て、恵弥は慶子の息子の本当の父親が多田であることに気づきます。夜行列車で東京へ帰る双子を、慶子と多田が見送るのでした。

小説「クレオパトラの夢」の長文感想(ネタバレあり)

恩田陸さんの「クレオパトラの夢」を読み終えて、まず心に残ったのは、その独特な雰囲気と巧みな物語構成でした。神原恵弥という特異なキャラクターを中心に、北国の閉鎖的な空気感の中で展開されるミステリーは、読者をぐいぐいと引き込みます。前作「MAZE」とはまた異なる舞台設定ながら、恵弥の魅力は健在、いえ、むしろ深みを増しているように感じました。

本作の舞台は北海道のH市。海外を飛び回る恵弥が日本国内、それも地方都市に降り立つという設定がまず興味深いです。彼がH市を訪れた表向きの理由は、不倫に走る双子の妹・和見の連れ戻し。しかし、その裏にはウイルスハンターとしての彼の嗅覚が捉えた「クレオパトラ」という謎の存在がありました。この二つの目的が絡み合いながら、物語は複雑な様相を帯びていきます。

物語の核心となる「クレオパトラ」。当初、登場人物たちの多くは、これを天然痘のワクチンではないかと推測します。歴史的に人類を苦しめてきた天然痘、そのワクチンがH市で秘密裏に開発されていたのではないか、と。読者もまた、その可能性を信じながら物語を追うことになります。恵弥が慧の残した地図の×印をたどり、天然痘に関連する施設に行き着く場面などは、その推測を補強するように描かれています。

しかし、恩田陸さんの作品の巧みさは、まさにこの点にあります。一度「これだ」と思わせたところで、さらりとそれを裏切ってくる。前作「MAZE」でも同様の手法に感嘆しましたが、本作でも見事にその術中にはまってしまいました。「クレオパトラ」の正体はワクチンではなく、より危険な、生物兵器としての天然痘ウイルスそのものだったのです。このどんでん返しは、物語の緊張感を一気に高めると同時に、若槻慧という人物の底知れない野心と狂気を浮き彫りにします。

このミスリードがなぜ効果的なのか。それは、複数の登場人物の視点や思惑が交錯し、情報が断片的に提示されるからではないでしょうか。恵弥の調査、和見の行動、多田の接近、慶子の告白、そして防衛庁の介入。それぞれの立場から見える「クレオパトラ」像は異なり、読者は恵弥と共にその断片を繋ぎ合わせようと試みます。しかし、全体像が見えかけたと思った瞬間、全く異なる真実が姿を現す。この構成力には、ただただ唸らされるばかりです。

そして、やはり神原恵弥というキャラクターの存在感は圧倒的です。超一流のエリート研究者でありながら、ごく自然に女言葉を話す。このギャップが、彼の魅力を際立たせています。それは決して奇をてらった設定ではなく、女姉妹の中で育ったという背景に裏打ちされた、彼の個性として描かれています。普段は冷静沈着で、時に冷徹ささえ感じさせる恵弥が、妹の和見に対して見せる複雑な感情や、ふとした瞬間にのぞかせる人間味。その多面性が、彼を単なる「有能な探偵役」以上の、血の通った人物として描き出しています。

対照的に、男言葉を使う双子の妹・和見もまた、印象的なキャラクターです。恵弥とは鏡合わせのような存在でありながら、彼女自身の意志と行動力を持っています。若槻慧への盲目的な愛情と、その裏切りを知った後の絶望、そして最終的に「クレオパトラ」を葬り去る決断。彼女の心の揺れ動きも、物語の重要な推進力となっています。恵弥と和見、この双子の関係性そのものが、本作の隠れたテーマの一つと言えるかもしれません。見た目や話し方といった表層的な性差を超えた、魂の結びつきのようなものを感じさせます。

物語の舞台であるH市の描写も、作品の雰囲気を高める上で欠かせない要素です。雪に閉ざされた北国の地方都市という設定が、どこか閉塞的でミステリアスな空気感を醸し出しています。古い医院、稜郭、牧場といった場所が、天然痘という過去の疫病の記憶と結びつき、現代の陰謀へと繋がっていく。この土地の歴史や風土が、物語に深みを与えているように感じました。寂寥感漂う風景描写の中に、人間の業や秘密が潜んでいるような、独特の肌触りがあります。

若槻慧という人物の描き方も注目すべき点です。彼は物語の冒頭で既に故人となっていますが、関係者の証言や残された痕跡を通して、その複雑な人物像が徐々に明らかになっていきます。研究への異常な執念、妻子や愛人を利用する冷酷さ、そして自らの死期を悟った上での最後の計画。彼は紛れもなく悪役ですが、その行動の根底には、研究者としての歪んだ純粋さや、あるいは孤独があったのかもしれない、とも考えさせられます。彼が追い求めた「クレオパトラの夢」とは、一体何だったのでしょうか。

また、慧の妻・慶子と、その従兄弟である多田直樹の関係も見逃せません。当初は被害者や協力者として登場する彼らが、実は別の秘密を抱えていたことが終盤で明かされます。慶子の息子の本当の父親が多田であるという事実。そして、慧の死後、彼らが新たな関係を築こうとしていることを示唆するラストシーン。このもう一つの「不倫」関係が、物語にさらなる奥行きを与えています。恵弥と和見が見送られるプラットフォームの場面は、一つの事件の終わりと、新たな人生の始まりを象徴しているようで、印象的でした。

物語のクライマックス、和見のマンションが炎上する場面は、まさに圧巻でした。慧が遺した危険な研究成果、すなわち「クレオパトラ」である天然痘ウイルスが、炎と共に消滅する。それは、慧の野望の終焉であると同時に、和見にとっても過去との決別を意味したのかもしれません。すべてが燃え尽き、夢のように消えていく。この結末は、ある種の虚無感を伴いながらも、同時に解放感のようなものも感じさせました。破壊による浄化、とでも言うべきでしょうか。

本作を通して考えさせられたのは、科学技術の倫理の問題です。天然痘ワクチンという人類への貢献にもなり得た研究が、一歩間違えれば生物兵器という破滅的な結果を招く。若槻慧のように、純粋な探求心や功名心が、道を誤らせてしまう危険性。恵弥自身もまた、最先端の研究に携わる者として、その危うさを常に意識しているように見えます。彼の冷静な視線は、科学の進歩がもたらす光と影の両面を、私たちに突きつけているようです。

さらに、登場人物たちの「言葉遣い」も、本作の隠れたテーマとして機能しているように感じます。恵弥の女言葉、和見の男言葉。それは単なるキャラクター設定に留まらず、「男らしさ」「女らしさ」といった社会的な規範に対する、ささやかな問いかけのようにも思えます。言葉遣いと内面は必ずしも一致しない。人は見かけによらない。そうした当たり前のことを、恵弥と和見の存在が改めて示唆しているのではないでしょうか。

「クレオパトラの夢」は、練り上げられたプロットと魅力的なキャラクター、そして深いテーマ性を兼ね備えた、読み応えのあるミステリー作品でした。単なる謎解きに終わらず、人間の業や科学の倫理、家族の絆といった普遍的な問題を考えさせてくれます。恩田陸さんの描く世界の奥深さに、改めて魅了されました。前作「MAZE」を読んでいればより楽しめることは間違いありませんが、本作単体でも十分にその世界に浸ることができるでしょう。読後、しばらくの間、H市の雪景色と「クレオパトラ」の謎が頭から離れませんでした。

まとめ

恩田陸さんの小説「クレオパトラの夢」について、物語の結末に至るまでの流れと、個人的に深く感じ入った点をお伝えしてきました。この作品は、単なるミステリーの枠を超え、読む者に多くの問いを投げかけてくる力を持っています。

主人公・神原恵弥の個性的な魅力はもちろんのこと、双子の妹・和見との関係、謎の言葉「クレオパトラ」を巡るサスペンス、そして北国の舞台設定が織りなす独特の雰囲気が、読者を強く引きつけます。物語が進むにつれて明らかになる登場人物たちの秘密や、予想を裏切る展開には、最後まで目が離せませんでした。

特に、「クレオパトラ」の正体が明らかになる場面や、クライマックスの火事のシーンは、物語の核心に迫る重要な転換点であり、強い印象を残します。科学の倫理や人間の業、ジェンダーといったテーマも内包しており、読み終えた後も深く考えさせられる要素が散りばめられています。

まだ「クレオパトラの夢」を手に取ったことのない方には、ぜひお勧めしたい一冊です。ミステリーが好きならもちろん、骨太な人間ドラマや、独特の世界観を持つ物語に触れたい方にも、きっと満足していただけるはずです。恵弥と共に、H市の謎に満ちた事件を追体験してみてはいかがでしょうか。