小説「夜果つるところ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。恩田陸さんの作品の中でも、特に『鈍色幻視行』と深く関わるこの物語は、多くの読者を惹きつけてやみません。

『鈍色幻視行』に登場する、実写化すると関係者が死ぬと噂される幻の小説、それが飯合梓(はんごう あずさ)作とされる『夜果つるところ』です。『鈍色幻視行』を先に読んだ方なら、この小説の存在自体が気になって仕方なかったのではないでしょうか。架空の作家が遺した、呪われた一冊という設定だけで、読む前から期待が高まりますよね。

ただ、『鈍色幻視行』の中では、『夜果つるところ』の大まかな筋書きや結末について、かなりの部分が明かされています。それを知ってしまうと、改めて読む意味はあるのだろうか、と感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際にページをめくり始めると、その独特の世界観と物語の力に引き込まれ、結果的に『鈍色幻視行』をもう一度読み返したくなる、そんな不思議な魅力を持った作品なのです。

この記事では、そんな『夜果つるところ』の物語の筋道と、結末に触れる部分も含めた詳しい内容、そして私が感じたことをたっぷりと記していきます。まだ読んでいない方、そして『鈍色幻視行』との繋がりをもっと深く知りたい方にも、楽しんでいただけると嬉しいです。

小説「夜果つるところ」のあらすじ

物語の舞台は昭和初期、山奥にひっそりと建つ遊郭「墜月荘(ついげつそう)」。主人公である「ビイ」は、ここで三人の母親と共に暮らしています。しかし、ビイは奇妙なことに館の中に閉じ込められ、決して外に出てはいけない、それどころか”お客さん”にすら姿を見られてはならないと厳しく言いつけられています。そのため、ビイは物心ついてから一度も館の外の世界を知らず、学校にも通ったことがありません。

ビイの産みの母とされる和江(かずえ)は、心を病んでおり、いつも空っぽの鳥かごをぼんやりと眺めては、突然奇妙な声を発するという不安定な状態です。ビイにとって、館の中で心を通わせられる唯一の存在が、育ての母である莢子(さやこ)です。莢子はビイに読み書きや様々な知識を教え、母親代わりとなってきました。そしてもう一人、名義上の母とされる文子(ふみこ)がいますが、彼女はいつも帳場に座っているだけで、ビイとの間にはほとんど交流がなく、まるで他人のような存在です。

そんな閉ざされた日々の中で、ビイには誰にも言えない秘密がありました。それは、夜になるとこっそり自分の部屋を抜け出し、館の一室で繰り広げられる男たちの宴会や密談を盗み見ることでした。着流し姿の作家・笹野(ささの)、上品な背広を着た子爵、そしていかめしい軍服をまとった久我原(くがはら)といった、陸軍関係者と思われる男たち。彼らの会話は、どこか不穏な空気を漂わせています。

ある時からビイは、彼らの宴の様子を盗み見ているうちに、奇妙なことに気がつきます。男たちの背後に、自分にしか見えない何者かの姿が現れることがあるのです。どうやらビイには、普通の人にはない特別な力、霊的なものを見る力があるようでした。彼らに憑りついている霊魂のようなものが見えているのかもしれません。

絵を描くことが得意だったビイは、自分が見たその不思議な光景をスケッチブックに描き留めるようになります。それはビイにとって、閉ざされた世界でのささやかな記録であり、秘密の楽しみでもありました。しかし、この行為が、後に墜月荘全体を巻き込む、予想もしない恐ろしい出来事へと繋がっていくことになるのです。

物語は、ビイの純粋な視点を通して、墜月荘という閉鎖空間でうごめく大人たちの欲望や企み、そして時代の不穏な空気を映し出していきます。やがて、ビイ自身の出生の秘密や、男たちが計画していた「革命」という名の恐ろしい企てが明らかになり、物語は衝撃的な結末へと突き進んでいきます。二・二六事件を思わせるクーデターの勃発、そして墜月荘を飲み込む炎…。ビイが見てきた世界は、文字通り「夜が果てる」ように終わりを迎えるのです。

小説「夜果つるところ」の長文感想(ネタバレあり)

まず、『鈍色幻視行』を読み終えたときの、あの言いようのない興奮と期待感を思い出します。作中で重要な鍵を握る「呪われた小説」、『夜果つるところ』。それがまさか、本当に一冊の本として出版されるなんて。恩田陸さん、やってくれたな、と。実際に書店でこの本を手にした時、そしてあのリバーシブルカバーを見た時の感動は忘れられません。表は「恩田陸」、裏は「飯合梓」。まるで本当に、幻の作家・飯合梓の本を手に入れたかのような感覚。この仕掛けだけで、もう物語の世界に引き込まれてしまいました。

ページを開くと、そこには昭和初期の、どこか退廃的で、それでいて妖しい美しさを湛えた空気が流れていました。山奥の遊郭「墜月荘」という舞台設定からして、もう魅力的です。閉鎖された空間、三人の母親に育てられる謎めいた子供ビイ。そのビイの視点を通して語られる物語は、独特の浮遊感と、常に何かが起こりそうな不穏さを孕んでいます。文章も、現代の小説とは少し違う、どこか古風で格調高い響きを持っていて、それがまた、飯合梓という架空の作家が書いたという設定にリアリティを与えているように感じました。

この小説は、単なる物語としてだけでなく、『鈍色幻視行』という親作品があってこその、メタフィクションとしての面白さが際立っています。『鈍色幻視行』では、『夜果つるところ』の内容や結末が断片的に語られていました。だから、読み進めながら「ああ、これはあの場面か」「この人物が、あの事件に関わるのか」と、パズルのピースをはめていくような感覚がありました。特に、ビイの性別や出生の秘密、そして墜月荘が革命を企てる男たちの隠れ家でもあったことなどは、『鈍色幻視行』を読んでいれば最初から分かっている情報です。

では、『鈍色幻視行』を先に読むべきか、それとも『夜果つるところ』から読むべきか。これは本当に悩ましい問題ですね。私自身は『鈍色幻視行』から読みましたが、先に結末を知っている状態でも、『夜果つるところ』の世界観や描写の美しさに十分に浸ることができましたし、むしろ答え合わせをするような楽しみがありました。逆に、『夜果つるところ』から入った方は、純粋に物語の謎や展開を楽しめる反面、飯合梓とは誰なのか、この物語が『鈍色幻視行』という別の大きな物語の一部であるという背景を知らずに読むことになります。それはそれで少しもったいない気もします。

理想を言えば、二冊がセットであることを知った上で、『夜果つるところ』から読み、間を置かずに『鈍色幻視行』を読む、というのが一番深く楽しめるのかもしれません。でも、どちらから読んだとしても、最終的には両方読むことで、一つの大きな、そして非常に凝った読書体験が完成するのだと思います。恩田さんの仕掛けた、この二重構造の物語世界には、ただただ感嘆するばかりです。読んでいる「私」自身も、いつの間にかこの物語の一部になっているような、不思議な感覚に包まれます。

物語の中心にいるビイ。彼の存在は、この物語の持つ幻想的な雰囲気を象徴しているようです。遊郭という特殊な環境で、外の世界を知らずに育ち、三人のいびつな「母」を持つ。特に産みの母・和江の狂気は読んでいて息苦しくなるほどです。自分を「悪魔」と呼び、時には危害を加えようとする母親。そんな中でも、育ての母・莢子の存在がビイにとっての救いであり、外界と繋がる窓口でした。ビイが持つ霊的な力や、見たものを絵に描き留める才能も、彼の特異性を際立たせています。

そして、墜月荘に出入りする男たち。作家の笹野、子爵、軍服の久我原。彼らは皆、それぞれの時代の闇や個人の業(ごう)を背負っているように見えます。彼らが夜な夜な交わす密談は、やがて来る「革命」という名の破壊へと繋がっていきます。ビイが彼らに奇妙な近しさを感じ、また彼らの背後に「何か」を見るという描写は、ビイが彼らの抱える罪や運命を無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない、と思わせます。

『鈍色幻視行』で語られていたように、この『夜果つるところ』に惹かれる人々は、登場人物たちの犯した罪のどれかに、自分自身の姿を重ねてしまうのかもしれません。だからこそ、「呪われた小説」と呼ばれるのかもしれない、と。私自身は、彼らと同じような経験がないため、直接的な罪への共感というよりは、むしろ別の部分に心を揺さぶられました。

それは、一つの時代が終わり、すべてが失われていくことへの、どうしようもない寂しさ、虚しさです。昭和初期という、激動の時代。軍靴の音が響き、きな臭い空気が漂う中、墜月荘という閉鎖された楽園(あるいは地獄)にも、その変化の波は容赦なく押し寄せます。男たちが企てた「革命」は、結局のところ、多くの血を流す惨劇でしかありませんでした。莢子がビイに言う「男のひとは、人殺しのことをそりゃあ手を替え品を替えいろんな言葉に言い換えるものよ―それが今回はたまたま革命って言葉だったってことね」という台詞には、本当にぞくりとさせられました。

そして、物語の終盤、二・二六事件と思われるクーデターが起こり、その混乱の中で墜月荘は炎に包まれます。ビイが知っていた世界、人々、場所、その全てが灰燼に帰してしまう。この結末は、『鈍色幻視行』で既に知ってはいましたが、実際にビイの視点を通して読むと、その喪失感はより一層強く胸に迫ります。燃え落ちていく館の描写は美しくも哀しく、何か大切なものが決定的に失われてしまったという感覚に打ちのめされます。時代が変わることへの感傷、と言えるかもしれません。

ネタバレになりますが、物語の終盤で明かされるビイの本当の性別と名前。「ひかる」という、男女どちらにも取れる名前。そして莢子がうっかり「坊ちゃん」と呼んでしまったことを誤魔化して「ビイちゃん」になったという経緯。これも『鈍色幻視行』で示唆されていましたが、改めて『夜果つるところ』の中で明かされると、ビイという存在の曖昧さ、危うさがより際立って感じられます。彼(彼女)の人生そのものが、時代の大きなうねりの中で翻弄される、一つの象徴だったのかもしれません。

作中では、暴力や死が非常にあっさりと、しかし印象的に描かれます。和江の死、墜月荘の様子を撮影していたカメラマンの無残な死、犬を庇ったりんの死。これらの出来事が、美しい描写の中に不意に差し込まれることで、物語の持つ不穏さや残酷さが一層引き立ちます。だからこそ、この物語が「呪いの小説」と呼ばれるのかもしれない、という説得力を感じます。美しいけれど、どこか触れてはいけないような、危うい魅力に満ちているのです。

読んでいると、どことなく三島由紀夫の作品世界を彷彿とさせる瞬間がありました。特に、滅びの美学や、時代の終わりに対する感覚、そして男たちの抱えるある種のナルシシズムのようなものに、通じるものを感じたのかもしれません。作家・笹野のキャラクターには、太宰治のような破滅的な雰囲気も感じられました。飯合梓という架空の作家は、そうした戦前の文学が持っていた独特の空気を纏っているように思えます。

『鈍色幻視行』の中で、『夜果つるところ』は実写化が難しい、と言われていた理由も、これを読むとよく分かります。ビイという、性別を超えたような、この世のものならぬ美しさと影を持つ少年(少女)を演じられる役者を見つけるのは至難の業でしょう。しかも、無名で、ジェンダーレスな雰囲気を持った子役…というのは、確かに無理難題に思えます。この物語の持つ、言葉でしか表現しきれないような幻想的な空気感を映像にするのは、非常に困難な挑戦になるだろうと感じました。

この『夜果つるところ』は、単体で読んでも、その美しくも恐ろしい世界観に引き込まれる魅力的な物語です。しかし、『鈍色幻視行』と合わせて読むことで、その奥行きは計り知れないほど深まります。二つの物語が互いを照らし合い、補完し合うことで、読者はより複雑で豊かな読書体験を得ることができるでしょう。どちらか片方だけ読むのは、本当にもったいない。ぜひ、二冊セットで、この壮大な物語の世界に迷い込んでみてほしいと思います。読み終えた後、きっとあなたも『鈍色幻視行』の登場人物たちのように、「船旅の一員」になったような感覚を味わえるはずです。

まとめ

恩田陸さんの『夜果つるところ』は、同作者の『鈍色幻視行』と対をなす、非常にユニークな作品でした。『鈍色幻視行』に登場する架空の小説が、実際に書籍化されるという試み自体が面白く、読者を物語の世界へ深く誘います。

昭和初期の遊郭「墜月荘」を舞台に、謎多き少年ビイの視点から描かれる物語は、美しくも退廃的で、どこか不穏な空気に満ちています。三人の母親、出入りする怪しげな男たち、そしてビイ自身の秘密。読み進めるうちに、その独特の世界観に引き込まれていくことでしょう。結末を知っていてもなお、その描写力と物語の力に圧倒されます。

『鈍色幻視行』を先に読んだか、それとも『夜果つるところ』から入ったかで、読後感は少し変わるかもしれませんが、最終的には両作品を読むことで、一つの完成された、奥行きの深い読書体験が得られます。メタフィクションとしての面白さ、時代の終わりを描く切なさ、そして「呪われた小説」と呼ばれるにふさわしい妖しい魅力。様々な要素が詰まった、忘れられない一冊となるはずです。

まだどちらか一方しか読んでいないという方は、ぜひもう片方の作品も手に取ってみてください。二つの物語が共鳴し合うことで見えてくる世界は、格別なものがあります。恩田陸さんの創り出した、この奇妙で美しい物語の迷宮を、存分に堪能していただきたいです。