小説「三鬼 三島屋変調百物語四之続」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
宮部みゆきさんが紡ぎ出す「三島屋変調百物語」シリーズは、江戸の袋物屋・三島屋の「黒白の間」で語られる、人々が胸の内に秘めた不思議な話、恐ろしい話、悲しい話を聞き手が聞き置くという連作です。聞き手であるおちかが、さまざまな語り手の告白に耳を傾ける中で、少しずつ成長していく姿も描かれています。
本作「三鬼 三島屋変調百物語四之続」は、シリーズの第四作にあたり、前作までと同様、訪れる語り手たちが背負った業や秘密が、怪異譚として語られていきます。「迷いの旅籠」「食客ひだる神」「三鬼」「おくらさま」という四つの物語が収録されており、それぞれが独立した怪談でありながら、人の心の闇や弱さ、そして時折見せる強さといった普遍的なテーマを扱っています。
この記事では、「三鬼 三島屋変調百物語四之続」の各話の物語の筋立てを、結末に触れつつ詳しくお伝えします。さらに、それぞれの物語から感じ取ったこと、考えさせられたことを、物語の核心に触れながら、じっくりと書き記していきたいと思います。三島屋の重厚な世界の深淵に、一緒に分け入ってみませんか。
小説「三鬼 三島屋変調百物語四之続」のあらすじ
「三鬼 三島屋変調百物語四之続」は、江戸は神田にある袋物屋、三島屋で行われている「変わり百物語」を舞台にした物語です。当主の姪であるおちかが聞き手となり、「黒白の間」と呼ばれる部屋で、訪れる人々の不可思議な体験談に耳を傾けます。語られた話は他言無用、「語り捨て聞き捨て」が唯一の決まりごとです。
第一話「迷いの旅籠」では、十三歳の少女おつぎが、故郷の村で行われる「行灯祭り」にまつわる出来事を語ります。村に逗留していた絵師が、亡くした妻子に会いたい一心で祭りのしきたりを破り、空き家を使って亡者を呼び出してしまいます。現れたのは生前の姿をした妻子でしたが、それは生者ではなく、悲劇的な結末を迎えます。おつぎは、この出来事を通して命の尊さと、死者への執着が生む悲しみを知るのでした。
第二話「食客ひだる神」の語り手は、仕出し弁当屋「だるま屋」の亭主、房五郎です。彼は、故郷への帰り道で「ひだる神」を拾ってしまいます。食いしん坊のひだる神は、だるま屋に商売繁盛をもたらしますが、次第に太りすぎて家に影響が出始めます。夏場に休業すると、ひだる神はひもじさからすねてしまいます。房五郎夫婦は、ひだる神との奇妙な同居生活に情が移りながらも、その存在に悩まされることになるのです。
第三話「三鬼」と第四話「おくらさま」は、より深く重いテーマを扱います。元山陰小藩の江戸家老・村井清左衛門は、かつて山奉行として赴任した貧しい村に現れる「鬼」の秘密を語ります。その正体は、藩の黙認のもと行われる「間引き」であり、村の理不尽と悲しみが凝り固まった存在でした。老婆のお梅は、実家の香具屋「美仙屋」に代々伝わる守り神「おくらさま」と、一族に降りかかった不幸を語ります。おくらさまは家を守る一方で、娘を次の「おくらさま」として要求するのでした。これらの語りを通して、おちかは人の心の深淵に触れ、聞き手としての覚悟を新たにしていくのです。
小説「三鬼 三島屋変調百物語四之続」の長文感想(ネタバレあり)
「三鬼 三島屋変調百物語四之続」を読み終えて、まず心に深く刻まれたのは、やはり「語る」という行為そのものの重みと、それを「聞く」ことの意味でした。シリーズを通して流れるテーマですが、本作では特に、語られる内容の深刻さ、そして語り終えた後の彼らの選択が、胸に迫るものがありました。
「人は語りたがる。己の話を。」冒頭のこの言葉は、シリーズの根幹を成す真理ですね。なぜ人は語りたがるのか。それは、自分の中に溜め込んだ思いや経験を、誰かに受け止めてほしいという切実な願いがあるからでしょう。嬉しい話ばかりではありません。むしろ、誰にも言えないような秘密、罪悪感、悲しみ、怒り、そういった負の感情を吐き出す場として、三島屋の「黒白の間」は機能しています。「聞いて聞き捨て、語って語り捨て」というルールは、語り手が安心して心の奥底をさらけ出すための、いわば安全装置なのでしょう。語ることで、人は自分の経験を客観視し、整理し、そして少しずつ癒されていくのかもしれません。それは、現代のカウンセリングや自助グループにも通じる、人間の心の働きなのだと感じます。
第一話「迷いの旅籠」
この話は、死者への断ち切れない想いと、それが引き起こす悲劇を描いています。おつぎが語る「行灯祭り」は、一見すると幻想的で美しい村の風習ですが、その裏には死者の世界との危うい境界線が存在します。絵師の石杖は、才能ある人物でありながら、妻子を亡くした深い悲しみに囚われ、その境界を越えてしまいます。彼が空き家を巨大な行灯に見立て、亡き妻子を呼び出す場面は、執念の恐ろしさを感じさせます。
しかし、現れたのは生前の姿をした「亡者」であり、生者ではありません。石杖がどんなに願っても、失われた命は戻らない。この厳然たる事実が、物語の核心にあります。余野村の村長の言葉、「おまえばかりが辛いわけじゃねえ。どんだけ辛くたって、命がある者は生きていかなきゃな。命があるってことは、天からのお恵みなんだから」という言葉は、非常に重く、そして真実を突いています。石杖が本当に救いたかったのは、亡くなった妻子ではなく、悲しみから抜け出せない自分自身の魂だったのかもしれません。彼は、生きていくことの辛さから逃れたかったのではないでしょうか。
死者を呼び寄せたい、もう一度会いたいという願いは、古今東西、多くの物語で描かれてきました。それは、遺された者の自然な感情でしょう。しかし、この物語は、その願いが行き過ぎた時、生者にも死者にも悲劇をもたらすことを教えてくれます。宮部さんの筆は、怪異の恐ろしさだけでなく、そこに至る人間の心の機微を丁寧に描き出していて、読後、深い余韻が残りました。じわりと始まり、中盤で不穏な空気が漂い、終盤で一気に畳みかける構成も見事です。
第二話「食客ひだる神」
この話は、前作『あんじゅう 三島屋変調百物語事続』に登場した「くろすけ」を思い出させるような、少し毛色の違う、どこか愛嬌のある怪異譚でしたね。仕出し弁当屋の亭主・房五郎が語る「ひだる神」との奇妙な共同生活は、読んでいて微笑ましくなる場面も多かったです。
「ひだる神」は、いわゆる「憑き物」の一種なのでしょうが、悪意があるわけではなく、ただただ食いしん坊。その食欲が、だるま屋に思わぬ商売繁盛をもたらします。しかし、良いことばかりではありません。ひだる神が際限なく食べ続け、ぷくぷくと太っていくにつれて、その重みで家がきしみ、歪んでいく。この描写は、小さな幸福が、いつしか手に余る重荷になっていくことのメタファーのようにも読めます。
房五郎と女房のお辰は、ひだる神の存在に困惑しつつも、次第に情が移っていきます。夏場に休業してひだる神がひもじがり、すねてしまう様子などは、まるで子供をあやすようです。この、人ならざるものとの間に生まれる不思議な絆が、この物語の魅力でしょう。しかし、永遠には続きません。房五郎が父の弔いで里帰りした際、ひだる神は元の切通しで姿を消します。あっけない別れですが、それが自然の摂理なのかもしれません。
ひだる神がいなくなった寂しさから、房五郎夫婦は江戸の店をたたみ、里へ帰る決意をします。ひだる神との出会いが、彼らの人生の転機となったわけです。この結末は、どこか日本昔話のような温かさと、少しの切なさを感じさせます。他の話のような深刻さはありませんが、人と怪異との関わり方を、日常的な視点から描いた佳編だと思いました。
第三話「三鬼」
本作の表題作であり、最も重く、考えさせられる物語でした。元江戸家老・村井清左衛門が語る、山陰の小藩、栗山藩の洞ヶ森村に伝わる「鬼」の話。この「鬼」の正体が、あまりにも痛ましい。
洞ヶ森村は極度の貧困にあえいでおり、病を得た者や老人を養っていく余裕がありません。そこで行われていたのが、「鬼」による「間引き」です。つまり、村人が村人を殺めるという、藩も黙認せざるを得なかった悲しい習わし。その実行役を「鬼」と呼び、村の罪悪感や理不尽さを象徴させていたのです。
「鬼」の姿は、黒い籠を深々と被り、長い蓑を纏い、夏でも雪靴を履いている。しかし、その中身は「無」である、と村井は語ります。これは非常に象徴的です。「鬼」は特定の個人ではなく、村全体の、あるいは藩全体の貧困、過酷な運命、そしてそこから生まれた悲しみや業そのものが形を成したものなのでしょう。村井の「あれは、栗山藩にあった全ての理不尽、全ての業、全ての悲しみが凝ったものでござった」という言葉には、筆舌に尽くしがたい重みがあります。
彼は山奉行として、この「鬼」の存在を知り、苦悩します。そして、自身もまた、その業を背負うことになります。物語の終盤、村井はひとりの老人を「鬼」として葬ることを黙認してしまいます。その罪の意識が、彼を生涯苛み続けたのでしょう。
語り終えた後、村井は三島屋で自ら腹を召します。義弟の須加利三郎が介錯を務めるという、壮絶な最期。彼の亡骸を清めようとしたとき、縁先に転がり出てきた黒い籠。これは、村井自身が、あの洞ヶ森村の「鬼」と同化したことを示唆しているのではないでしょうか。「私とおまえは、同胞だ」という、聞こえるはずのない声が、読者の耳にも響くようです。彼は、藩の家老という立場でありながら、最も虐げられた村人たちの悲しみと業を、一身に引き受けようとしたのかもしれません。
この物語は、貧困が生み出す悲劇、集団心理の恐ろしさ、そして個人の良心の呵責を、強烈に描き出しています。読むのが辛くなるほどの重いテーマですが、目を背けてはならない人間の暗部を見せつけられた気がします。おちかにとっても、この話を聞いた経験は、非常に大きなものだったはずです。
第四話「おくらさま」
「三鬼」とはまた違った方向性の、女性の情念や家の因習にまつわる、これもまた深い悲しみをたたえた物語でした。語り手は、老婆のお梅。彼女は自らを「女浦島太郎」と称し、心は十四歳のままだと言います。その言葉通り、彼女の語りはどこか少女のような純粋さと、同時に深い諦観を漂わせています。
お梅の実家は、かつて芝神明町にあった香具屋「美仙屋」。美人三姉妹で評判でしたが、ある出来事をきっかけに不幸に見舞われます。美仙屋には「おくらさま」と呼ばれる家の守り神がいました。華やかな着物をまとい、甘い香りを漂わせる若い娘の姿をした神様。家の繁栄を守ってくれる代わりに、その家の娘ひとりを次の「おくらさま」として差し出さねばならない、という恐ろしい約束がありました。
お梅は、美仙屋が火事で焼失した際、たまたま外に出されていて助かった唯一の生き残りです。しかし、家族も家も失い、心だけが過去に取り残されてしまった。死期を悟ったお梅は、遠縁の家で、最後まで大切にしていた振袖を衣桁にかけてもらい、その振袖に宿った魂(?)が三島屋にやってきて、おちかに美仙屋の秘密を語るのです。この設定自体が、非常に幻想的で物悲しいですね。
語られる「おくらさま」の正体は、かつて美仙屋に引き取られた器量のよくない養女でした。彼女は家のために尽くしながらも、満たされない想いを抱え、若くして亡くなります。美仙屋への恩義を感じつつも、積もり積もった憤りや悲しみが、人ならざる「おくらさま」という存在になったのです。家を守る力を持つ一方で、美しい娘たちを犠牲にして自らの存在を維持しようとする。そこには、満たされなかった者の歪んだ願望が見え隠れします。
お梅は、自身が「おくらさま」に選ばれなかった(あるいは選ばれる前に家が滅びた)ことへの安堵と、家族を失ったことへの深い悲しみ、そして美仙屋という家に縛られ続けた人生への「くやしい!」という叫びを残して消えていきます。 お梅の魂は、長年閉じ込められていた鳥籠から、最後の瞬間に解き放たれたかのようでした。 しかし、その解放があまりにも切ない。
この物語は、家の因習や女性たちの抑圧された感情が、怪異という形で現れる様を描いています。「おくらさま」も美仙屋の娘たちも、そしてお梅も、ある意味では家の犠牲者と言えるのかもしれません。華やかな美仙屋の裏に隠された、暗く湿った情念の世界。これもまた、宮部作品ならではの深みを感じさせる物語でした。
「三鬼 三島屋変調百物語四之続」は、四つの物語を通して、人間の心の持つ様々な側面――弱さ、醜さ、悲しみ、そして時折見せるささやかな優しさや強さ――を浮き彫りにしていきます。特に「三鬼」と「おくらさま」は、個人ではどうにもならない社会構造や因習の中で翻弄される人々の姿を描き、強い印象を残しました。
そして、聞き手であるおちかの存在が、回を重ねるごとに重要性を増しているのを感じます。彼女はただ話を聞くだけでなく、語り手の魂に寄り添い、その重みを受け止めようとしています。特に「三鬼」のような過酷な話を聞いた後、彼女がどのようにそれを受け止め、自身の糧としていくのか。彼女自身の物語もまた、静かに動き出している予感がします。
宮部みゆきさんの筆致は、江戸の町の空気感や人々の暮らしを細やかに描き出し、読者をその世界へと引き込みます。怪異を描きながらも、その根底にあるのは常に人間そのものへの深い洞察です。読み終えた後、物語の登場人物たちの運命に思いを馳せ、しばし呆然としてしまうような、そんな力を持つ一冊でした。
まとめ
宮部みゆきさんの「三鬼 三島屋変調百物語四之続」は、三島屋の「黒白の間」を訪れる人々の、心に秘めた怪異譚を通して、人間の業や悲しみ、そして生きることの複雑さを深く描き出した作品でした。語られる物語はどれも、読者の心に静かに、しかし確かな爪痕を残します。
「迷いの旅籠」では死者への執着が生む悲劇、「食客ひだる神」では人ならざるものとの奇妙な共生と別れが描かれました。そして圧巻だったのは「三鬼」と「おくらさま」です。「三鬼」では、貧困が生んだ「間引き」という名の悲劇と、それを背負い続けた男の覚悟が胸に迫り、「おくらさま」では、家の因習と女性たちの抑圧された情念が、物悲しい怪異として語られました。これらの物語は、単なる怪談ではなく、人間の心の深淵を覗き込むような、重厚な人間ドラマでした。
聞き手であるおちかが、これらの重い物語を受け止め、静かに成長していく姿も印象的です。彼女は語り手たちの魂に寄り添い、「聞き捨て」のルールの中で、その記憶を大切に積み重ねていきます。この「三鬼 三島屋変調百物語四之続」は、シリーズの中でも特に、語られることのない声、闇に葬られがちな人々の物語に光を当てた、読み応えのある一冊だと言えるでしょう。