小説「駈込み訴え」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
太宰治という作家をご存知でしょうか。『人間失格』や『走れメロス』など、数々の有名な作品を残した昭和の文豪です。彼の作品は、人間の心の奥深くにある弱さや醜さ、そして、ほんの少しの希望や美しさを描き出し、多くの読者の心を掴んできました。
今回取り上げる「駈込み訴え」は、新約聖書に登場するイエス・キリストを裏切った弟子、イスカリオテのユダの独白という形式をとった短編小説です。なぜユダは、敬愛していたはずの師を裏切ったのか。その心の内に渦巻く、愛と憎しみの激しい葛藤が、読む者の胸に迫ります。
この記事では、「駈込み訴え」の物語の結末に触れながら、その詳しい内容をお伝えします。さらに、私なりの深い読み解きや、作品から受けた印象などを、たっぷりと語っていきたいと思います。この記事を読めば、「駈込み訴え」という作品の持つ独特な魅力や、太宰治という作家の凄みを、より深く感じていただけることでしょう。
小説「駈込み訴え」のあらすじ
物語は、イスカリオテのユダが役人と思われる「旦那さま」に対して、堰を切ったように訴えかける場面から始まります。「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。」ユダの口から語られるのは、師であるイエス・キリストへの激しい憎悪の言葉です。傲慢で、自分勝手で、弟子たちの苦労も知らない。ユダは、自分がどれだけイエスに尽くしてきたか、そして、その仕打ちがいかに酷いかをまくし立てます。
しかし、その憎しみの言葉の裏には、イエスへの強烈な、ほとんど信仰に近いような愛が隠されています。ユダはイエスの「美しさ」を誰よりも理解し、その姿を見ているだけで幸福を感じていました。見返りを求めず、ただひたすらにイエスに仕えることだけを望んでいたのです。他の弟子たちがイエスの奇跡や天国の話に熱狂する中、ユダだけはイエスの人間的な美しさに心を奪われていた、と語ります。
そんなユダの純粋な愛は、ある出来事をきっかけに揺らぎ始めます。村の娘マリヤが、高価な香油をイエスの足に注ぎ、自らの髪で拭う場面を目撃したユダは、激しい嫉妬に駆られます。イエスが自分ではなく、マリヤのような女に特別な感情を抱いているのではないか。自分だけが捧げてきた無償の愛が踏みにじられたように感じたユダの心に、憎しみの感情が芽生え始めます。
ユダの心は、愛と憎しみの間で激しく揺れ動きます。「あの人を一ばん愛しているのは私だ」「あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる」という独占欲と、「裏切り者」としての汚名を着てでも、イエスを自分の手で葬りたいという歪んだ願望が膨らんでいきます。祭司長たちがイエスを捕らえるために銀貨三十枚の懸賞金をかけたことを知ったユダは、自分がイエスを売ることを決意します。
有名な「最後の晩餐」の場面。イエスは弟子たちの足を洗い始めます。ユダの番になり、イエスが自分の足を丁寧に洗ってくれるその瞬間、ユダは後悔の念に駆られ、涙します。しかし、その直後、イエスは「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と告げ、パンをちぎってユダの口に押し当てます。弟子たちの前で裏切り者として指名されたユダは、深い屈辱と憎しみを覚え、決意を固めます。
訴えの最後、ユダは役人から差し出された銀貨三十枚を一度は拒否します。金のために裏切ったのではない、と。しかし、すぐに考え直し、「そうだ、私は商人だったのだ」「金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ」と、嘲るように銀貨を受け取ります。そして、「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」と名乗り、物語は幕を閉じます。愛が憎しみに変わり、自らを欺きながら破滅へと突き進むユダの悲痛な叫びが響き渡るような結末です。
小説「駈込み訴え」の長文感想(ネタバレあり)
この「駈込み訴え」という作品を読むたびに、私はいつも、息苦しいほどの衝撃を受けます。それは、イスカリオテのユダという一人の人間の、あまりにも生々しく、複雑に絡み合った感情の渦に、否応なく引きずり込まれてしまうからなのです。物語の冒頭、「申し上げます。申し上げます。」という切羽詰まった呼びかけから始まり、最後まで途切れることのない独白。読点はあっても改行はほとんどなく、まるでユダが目の前で、息もつかずに捲し立てているかのような臨場感があります。この息詰まるような構成自体が、ユダの追い詰められた心理状態を見事に表現しているように感じます。
ユダの言葉は、矛盾に満ちています。師であるイエスを「酷い」「厭な奴」「悪い人」と罵りながらも、「私はあの人を愛している」「あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ」と告白します。この、愛と憎しみが奇妙に同居する感情は、読んでいて非常に混乱させられますが、同時に、人間の心の真実の一端を突いているようにも思えるのです。誰かを強く愛するがゆえに、その相手を激しく憎んでしまう。そんな経験は、形は違えど、誰にでもあるのではないでしょうか。ユダの訴えは、極端な形ではありますが、私たち自身の心の奥底に潜むかもしれない、アンビバレントな感情を映し出しているのかもしれません。
特に印象的なのは、ユダがイエスの「美しさ」を語る場面です。「けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。」他の弟子たちがイエスの言葉や教え、奇跡に惹かれるのとは対照的に、ユダはイエスの存在そのもの、その人間的な輝きに強く惹かれています。そこには、見返りを求めない、ひたすらな献身の思いが見て取れます。この純粋な愛があったからこそ、後の裏切りがより一層、悲劇的な響きを帯びてくるのです。
しかし、その純粋な愛は、脆くもありました。マリヤがイエスに香油を塗る場面。ユダは「失礼なことをするな!」とマリヤを怒鳴りますが、イエスはユダを睨みつけ、「この女を叱ってはいけない」とマリヤを庇います。この瞬間、ユダの中で何かが崩れ落ちます。「あの人は、貧しい百姓女に恋、では無いが、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?」という疑念。そして、「そんなら私だって同じ年だ。それでも私は堪えて、あの人ひとりに心を捧げ、どんな女にも心を動かしたことは無いのだ」という、報われぬ愛への不満と嫉妬。この嫉妬こそが、ユダの愛を憎しみへと変質させる決定的な引き金となったように思われます。
ユダの心理描写の巧みさには、本当に舌を巻きます。彼は自分の行動を必死に正当化しようとします。「あの人は、どうせ死ぬのだ。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。」まるで、自分が悲劇の主人公であるかのように語り、裏切りすらも「純粋の愛の行為」なのだと主張します。しかし、その言葉とは裏腹に、彼の心は混乱しきっています。「ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。」「だまされた。あの人は、嘘つきだ。」「私の言うことは、みんな出鱈目だ。」この混乱と自己欺瞞こそが、ユダという人間の、そして、もしかしたら人間という存在そのものの、痛々しいほどのリアルさを描き出しているのではないでしょうか。
「最後の晩餐」の場面は、この物語のクライマックスと言えるでしょう。イエスが弟子たちの足を洗い、ユダの足も洗う。その時のユダの感動と後悔。「熱いお詫びの涙が頬を伝って流れ、やがてあの人は私の足をも静かに、ていねいに洗って下され、ああ、そのときの感触は。私はあのとき、天国を見たのかも知れない。」この瞬間、ユダは確かに救済の可能性を感じていたはずです。しかし、その直後のイエスの言葉、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」そして、パンをユダの口に押し当てる行為。これは、ユダにとって決定的な屈辱であり、もはや後戻りできない地点へと彼を突き落とします。優しさと残酷さ。イエスのこの行為にもまた、単純ではない、複雑な感情が込められているように感じられます。
そして、物語の終盤。役人から銀貨三十枚を差し出されたユダは、一瞬、それを拒みます。金のために裏切ったのではない、という最後の矜持でしょうか。しかし、彼はすぐに態度を変え、「いや、お断り申しましょう。」と言った舌の根も乾かぬうちに「いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。」と受け取ります。そして、「そうだ、私は商人だったのだ」「銀三十で、あいつは売られる。ざまあみろ!」と自嘲的に叫びます。これは、もはや純粋な愛でも憎しみでもなく、完全に壊れてしまった人間の、空虚な叫びのように聞こえます。最後まで自分自身を欺き続けなければ、立っていられない。そんなユダの痛ましさが、胸に突き刺さります。
この作品は、新約聖書におけるユダの裏切りの物語を下敷きにしていますが、太宰治は聖書の記述とは異なる、独自の解釈を加えています。聖書では、ユダの裏切りの動機は金銭欲や悪魔に唆されたためとされていますが、太宰はそれを、あまりにも人間的な「愛憎」の問題として描きました。この解釈は非常に大胆でありながら、説得力を持っています。絶対的な存在であるイエスを前にした時、一人の人間が抱くであろう、崇拝と嫉妬、献身と独占欲といった、相反する感情のリアルさが、ここにはあるからです。
参考にした記事の中に、「メンヘラは読むべき」という一節がありましたが、言い得て妙だと感じます。もちろん、ユダの行動を単純に「メンヘラ」という言葉で片付けてしまうのは乱暴かもしれませんが、彼の示す過剰なまでの愛情、見返りを求める心、報われないことへの激しい怒り、そして自己憐憫といった感情の起伏は、現代に生きる私たちの心の中にも、形を変えて存在しているのではないでしょうか。愛するがゆえに相手を束縛したくなったり、自分の思い通りにならないことに苛立ったり。そうした心の動きの究極的な形が、ユダの姿なのかもしれません。
太宰治自身、その生涯において、様々な「裏切り」や「罪悪感」に苛まれていたと言われています。左翼運動からの離脱、心中未遂事件、家族への偽り。そうした彼自身の経験や葛藤が、このユダという人物像に投影されているのではないか、と考える人もいます。真偽はともかく、この作品に描かれるユダの苦悩や混乱が、並々ならぬ切実さをもって読者に迫ってくるのは、作者自身の魂の叫びが、どこかに込められているからなのかもしれません。
また、この作品が口述筆記、つまり太宰が語った内容を妻の美知子夫人が書き留めるという方法で創られたというエピソードも興味深いです。だからこそ、あのよどみない、まるで本当にユダが語っているかのような、独特のリズムと勢いが生まれたのでしょう。文字で書かれたものでありながら、そこには「声」が聞こえてくるような感覚があります。演劇の台本としても使われることがあるというのも頷けます。参考記事で藤原竜也さんのイメージが挙げられていましたが、確かに、あの切迫した、感情を叩きつけるような独白は、力量のある役者が演じたら、さぞかし凄みのあるものになるだろうと想像します。
「駈込み訴え」は、単なる聖書の翻案小説という枠を超えて、人間の心の深淵を覗き込むような、強烈な力を持った作品です。愛とは何か、憎しみとは何か。信じるとはどういうことか。裏切りとは何か。読めば読むほど、様々な問いが頭の中を駆け巡ります。そして、その答えは簡単には見つかりません。ユダの混乱した魂は、そのまま私たち自身の心の複雑さを映し出す鏡のようでもあります。
読み終えた後には、ずしりとした重い感情が残ります。決して爽やかな読後感ではありません。しかし、人間の持つどうしようもない業のようなもの、愛と憎しみの不条理さ、そして、その中で必死にもがき苦しむ魂の姿に、強く心を揺さぶられます。ユダの最後の「へっへ。イスカリオテのユダ。」という自嘲的な名乗りが、いつまでも耳に残って離れません。それは、破滅へと向かう者の悲しい宣言であり、同時に、人間存在の哀しさそのものを象徴しているようにも思えるのです。
この作品は、太宰治の数ある名作の中でも、特に異彩を放つ一編だと思います。短いながらも、その密度と迫力は圧倒的です。もし、あなたが人間の心の複雑さや、愛憎の深淵に触れてみたいと思うなら、ぜひ一度、この「駈込み訴え」を手に取ってみることをお勧めします。きっと、忘れられない読書体験になるはずです。
まとめ
この記事では、太宰治の短編小説「駈込み訴え」について、物語の結末まで触れながら、その詳しい内容と、私なりの深い読み解きをお伝えしてきました。イスカリオテのユダの独白という形式で、師であるイエス・キリストへの愛と憎しみが激しく交錯する様を描いた、非常に衝撃的な作品です。
ユダが抱える、イエスへの純粋な愛と、それが裏切られたと感じた時の激しい嫉妬、そして憎悪へと転化していく心理描写は、読む者の心を強く揺さぶります。「最後の晩餐」での屈辱を経て、自らを欺きながら裏切りへと突き進むユダの姿は、痛々しくも、人間の持つ業の深さを感じさせます。
太宰治は、聖書に記されたユダの裏切りの動機を、金銭欲ではなく、より人間的な「愛憎」の問題として捉え直しました。この独自の解釈は、ユダという人物に複雑な奥行きを与え、読者に強い共感や反発、そして深い問いを投げかけます。口述筆記によって生まれたとされる、息もつかせぬような独白体の文章も、この作品の大きな魅力の一つです。
「駈込み訴え」は、決して明るい気持ちになる物語ではありません。しかし、人間の心の奥底に潜む、どうしようもない感情や矛盾、そしてその中で苦悩する魂の姿に触れることで、私たちは自分自身や、人間という存在について、改めて深く考えさせられるのではないでしょうか。太宰治文学の凄みを感じられる一作として、ぜひ多くの方に読んでいただきたい名編です。