青塚氏の話小説「青塚氏の話」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

谷崎潤一郎の作品群の中でも、ひときわ異様な光を放つ本作。その光は、人を惹きつけると同時に、心の奥底をざわつかせるような、どこか落ち着かない種類のものです。物語は、亡き夫の遺書から始まります。その一通の手紙が、穏やかだったはずの日常を、底知れぬ恐怖の淵へと引きずり込んでいくのです。

この記事では、まず物語の骨子を追い、その後、私がこの作品から何を感じ、何を考えさせられたのかを、物語の核心に触れながら詳しく語っていきたいと思います。人の心が作り出すおぞましさと、芸術という名の狂気が交錯する世界。その深淵を、一緒に覗き込んでみませんか。

読み進めるうちに、あなたもきっと、現実と虚構の境界線が揺らぐような、不思議な感覚に囚われることになるでしょう。谷崎文学が仕掛けた、精緻で美しい罠に、心ゆくまで浸っていただければ幸いです。

小説「青塚氏の話」のあらすじ

若くして名を馳せた映画女優の由良子。彼女は、映画監督であった夫・中田を亡くし、静かな日々を送っていました。夫の死因は肺病とされていましたが、由良子の心には、どこか釈然としない思いが澱のように溜まっていたのです。そんなある日、彼女は夫が生前に遺した一通の封書を見つけ出します。それは、彼の死の真相を告白する、恐るべき手紙でした。

手紙は、中田の死が単なる病によるものではないことを冒頭から示唆します。彼を死に至らしめたのは、病そのものではなく、生きる気力の一切を奪い去った「ある出来事」だったのです。その告白は、これから語られるであろう物語が、尋常ならざる恐怖に満ちていることを予感させました。

中田の遺書が語り始めたのは、彼の運命を根底から覆した、一人の名も知らぬ「男」との出会いでした。その男は、中田の妻である由良子のことを、異常なまでに詳しく知っていたのです。それも、中田が監督としてフィルムに焼き付けた彼女の姿を通して。男は、由良子の身体の微細な特徴を、まるで外科医のように精緻に語り始めます。

その執拗な語りは、やがて常軌を逸した領域へと踏み込んでいきます。男は、自らが抱く歪んだ理想と、その理想を形にした「あるもの」の存在を中田に告げるのです。その告白を聞いた中田の精神は、少しずつ、しかし確実に蝕まれていくのでした。

小説「青塚氏の話」の長文感想(ネタバレあり)

この物語を読み終えたとき、私はしばらくの間、本を閉じることができませんでした。背筋を這い上がるような冷たい感覚と、美しささえ感じさせる倒錯的な世界観が、私の内で渦を巻いていたからです。これは単なる怪談ではありません。人間の執着心と芸術が、最もおぞましい形で結実した物語だと感じます。

物語は、亡き夫・中田の遺書という形で、恐怖の核心へと読者を導いていきます。この構成が非常に巧みです。私たちは、未亡人である由良子と同じ視点で、夫が体験した戦慄の出来事を追体験することになります。死者からの手紙という、古典的でありながらも強力な装置が、物語に抜き差しならない緊張感を与えているのです。

中田が出会う「男」。彼の第一印象は、熱狂的なファン、あるいはストーカーといったところでしょうか。しかし、彼の口から語られる言葉は、そうした凡庸な表現では到底追いつかないほどの異様さを帯びています。彼は、映画のスクリーンに映る由良子の姿を、文字通り「解剖」しているのです。

彼が語るのは、由良子の体の動きによって皮膚に刻まれる皺の形、足の指の重なり方、体を捻った時に現れる肋骨の湾曲、着物の隙間から垣間見えた肌の様子。それは愛情や賛美からくる観察ではなく、対象を完全に部品として捉え、データとして蓄積するような、無機質で執拗な視線です。この段階で、読者はこの男が常人でないことをはっきりと悟ります。

さらに男は、自身の行為を正当化するために、奇妙な哲学を語り始めます。彼は、現実の由良子、つまり中田の妻である由良子は仮の姿に過ぎず、その奥には「或る永久な一人の女性」という、理想化された本質が存在すると言うのです。そして、自分こそがその「より真実の」姿を追求しているのだ、と。

この歪んだイデア論には、正直なところ眩暈がしました。芸術家が理想の美を追い求める、という行為そのものを、極限まで煮詰めて腐らせたような思想です。彼は、生身の由良子を所有する中田を蔑み、自分はフィルムを通して彼女の本質を所有していると主張します。現実の人間よりも、自分が頭の中で作り上げたイメージの方が尊いのだという、独善的で危険な考え方です。

そして、物語は戦慄の頂点を迎えます。男は、その理想の女性を、概念としてだけでなく、物理的な「モノ」として創造したと告白するのです。それが、由良子と寸分違わぬ姿形をした、等身大の人形でした。この人形の描写が、本作の恐怖の核心を成しています。

その人形は、単に似ているというだけではありません。人間と同じ体温と体臭を持ち、皮膚からはべたつく脂が滲み、唇からはよだれを垂らし、汗まで流すというのです。生命のない物体が、生命の持つ生々しさや、ある種の汚濁までを完璧に模倣している。このグロテスクな忠実さに、私は強烈な嫌悪感を覚えました。これは「不気味の谷」現象を、遥かに超えた領域です。

男は、このおぞましい人形と倒錯的な交わりを持つ様子を、中田に見せつけます。それは、男の執着が完全に現実から乖離し、彼自身の作り上げた妄想の世界で完結してしまったことを示す、決定的な場面です。彼は生身の由良子を必要とせず、自身の支配下に置ける完璧な複製があればそれでよかったのです。

この人形は、客体化の究極の形と言えるでしょう。一人の女性を徹底的に断片化し、分析し、自分の都合の良いパーツだけを組み合わせて作り上げた、欲望の結晶。そこに人格や魂が入り込む余地は一切ありません。男にとって、この人形こそが「本物」であり、現実の由良子は、その影、あるいは材料でしかなかったのです。

この恐るべき創造物を目の当たりにした中田の精神が、崩壊していくのは当然のことでした。彼は、映画監督として、妻であり女優である由良子の美しさをフィルムに定着させてきた芸術家です。しかし、男の行いは、その中田の芸術行為を模倣し、グロテスクに歪めた、いわば「悪夢の鏡像」でした。

男は中田にこう言っているのと同じです。「お前が撮った映画は、所詮、影に過ぎない。俺が作ったこの人形こそが、真の由良子なのだ」と。これは、芸術家として、そして夫としての中田の存在意義そのものを根底から覆す宣告です。彼の生涯をかけた仕事と愛情が、目の前で無価値なものだと断じられたのです。

彼の死因が、肺病などではなく、この精神的な衝撃による生きる意志の完全な喪失であったという告白には、深い説得力があります。彼は物理的に殺されたのではなく、その魂を、アイデンティティを、男によって破壊されたのです。自身の芸術的衝動が、怪物的で倒錯した形で具現化したものを見せつけられた絶望。それが彼を死へと追いやったのでした。

さて、物語の最後は、このおぞましい遺書を読み終えた妻、由良子の視点に戻ります。彼女の反応は、非常に複雑で、一筋縄ではいきません。もちろん夫の体験した恐怖に戦慄は覚えるのですが、それと同時に、どこか冷徹なまでの現実主義が顔を覗かせるのです。

彼女は、自分自身を彫刻の材料である「印材」に、そして夫の中田や、これから現れるであろう他の監督たちを「彫り手」に例えます。この言葉には、女優という職業人としてのしたたかさや、ある種の諦観のようなものが感じられます。悲劇のヒロインに成りきるのではなく、自分の未来を冷静に見据えているかのようです。

この由良子の態度は、彼女が冷酷な人間だということでは、おそらくないのでしょう。夫の死が、ある意味で彼らの関係を「都合が良く」終わらせたと感じる部分と、それでもなお「まだ消えやらぬ愛着」が共存している。この矛盾こそが、人間の心の複雑さをリアルに描いていると感じます。

あまりにもおぞましい現実を前にした時、人は感情に蓋をし、物事を合理的に解釈しようとすることで、精神の均衡を保とうとするのかもしれません。由良子の冷静さは、彼女なりの防衛機制だったのではないでしょうか。悲しみに暮れるだけでは、この先を生きてはいけない。女優として、一人の女性として。

この物語は、当時台頭してきた「映画」という新しいメディアが、いかに人間の欲望を刺激し、現実との関係を危うくさせるか、という問いを投げかけているように思えます。映画は、人間の姿をかつてないほど詳細に捉え、切り取り、繰り返し再生することを可能にしました。男の異常な執着は、まさにこの映画的視線によって育まれたものです。

彼は、現実の由良子と触れ合うことなく、スクリーンの中の「イメージ」だけを貪り、自らの妄想を際限なく膨らませていきました。そしてついには、イメージが現実を凌駕し、破壊するに至る。これは、現代に生きる私たちにとっても、決して他人事ではない恐怖です。SNSや様々なデジタル技術によって、イメージが現実以上の力を持つ場面を、私たちは幾度となく目撃しているのですから。

まとめ

谷崎潤一郎の「青塚氏の話」は、一人の男の常軌を逸した執着が、いかにして人の精神を破壊し、ついには死に至らしめるかを描いた、戦慄すべき物語でした。亡き夫の遺書を通して明かされる真実は、読者の心に重くのしかかります。

物語の中心にあるのは、現実の女性を凌駕するほど精巧に作られた「人形」の存在です。それは、芸術の名の下に行われた、最もグロテスクな創造物であり、歪んだ欲望の究極的な結晶でした。この人形の存在が、芸術と狂気、現実と虚構の境界線を曖昧にしていきます。

また、夫の死の真相を知った妻・由良子の複雑な心理描写も、本作の大きな魅力です。恐怖や悲しみだけでなく、どこか現実的な打算や安堵さえ感じさせる彼女の姿は、人間の心の多面性を見事に描き出しています。

この作品は、単なる怪奇譚としてではなく、メディアと人間の関係や、人の心の深淵に潜む闇を鋭くえぐり出した、文学的な深みを持つ一作です。読後、しばらくはその世界観から抜け出せなくなるような、強烈な印象を残す物語だと言えるでしょう。