小説「逝年」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
この物語は、鮮烈なデビューを描いた『娼年』の直接的な続編にあたります。前作で性の世界に目覚め、多くの女性の心と体を解放してきた主人公・森中領(リョウ)が、次なるステージへと歩みを進める物語です。しかし、その道筋は決して平坦なものではありません。
『娼年』が「生」や「誕生」の物語であったとするならば、この『逝年』は、その題名が示す通り「死」と「喪失」を真正面から見つめる物語といえるでしょう。「逝きゆく年」と記されたこのタイトルは、リョウをこの世界へと導いた絶対的な存在、御堂静香の運命を暗示しています。彼女の存在なくして、この物語は語れません。
物語の中心に横たわるのは、愛する人の死にどう向き合うか、という普遍的でありながら、あまりにも重い問いです。リョウと彼を取り巻く人々は、静香の残り少ない時間の中で、何を思い、何を選択するのでしょうか。それは、単なる悲しいお話にとどまらない、人間の尊厳と愛の形を深く問い直す、あまりにも濃密な時間の記録なのです。
この記事では、そんな『逝年』の世界を、あらすじから始まり、核心に迫るネタバレを含む長文の感想まで、余すところなくお伝えしていきたいと思います。この物語が持つ、痛みと、そしてその先にある温かな光を、少しでも感じ取っていただければ幸いです。
「逝年」のあらすじ
前作『娼年』の衝撃的な結末から一年。オーナーであった御堂静香が逮捕され、会員制ボーイズクラブ「ル・クラブ・パッション」は壊滅しました。しかし、静香の薫陶を受けた主人公の森中領(リョウ)は、その灯火を消してはいませんでした。彼はクラブの仲間であったアズマ、そして静香の娘である咲良とともに、水面下でクラブの活動を再開。静香の帰りを待ちながら、その信念を守り続けていたのです。
そんな彼らの前に、かつてクラブを警察に密告した張本人である白崎恵(メグミ)が姿を現します。自らの行いを深く悔いた彼女は、贖罪のためにクラブを手伝いたいと申し出るのです。リョウたちは驚きながらも彼女を受け入れ、新生クラブは新たな局面を迎えます。さらにリョウは、性同一性障害に悩む青年・アユムをスカウトし、クラブは多様な個性を持つ共同体として再生していきます。
やがて、メンバーたちが待ちわびた静香が出所の日を迎えます。しかし、再会の喜びも束の間、彼らは残酷な事実を告げられます。静香は服役中にエイズを発症しており、治療法もなく、残された時間はわずか数ヶ月しかないというのです。絶対的な師であり、母であり、そして愛する人でもあった静香の「死」が、すぐそこまで迫っていました。
リョウとクラブのメンバーたちは、静香の最期の日々を、穏やかで満たされたものにするために全力を尽くすことを決意します。それは、彼女が教えてくれた「生きる」ことの意味を、今度は自分たちが彼女に返すための、哀しくも美しい闘いの始まりでした。リョウは、静香の「最期の人」になることを心に誓うのでした。
「逝年」の長文感想(ネタバレあり)
『娼年』が「生」の祝祭であったなら、この『逝年』は、静かに、しかし抗いがたい力で迫りくる「死」と向き合う鎮魂歌のような物語です。単なる続編という言葉では片付けられない、テーマの劇的な深化がここにはあります。「青年」の同音異いき゛語て゛ありながら、「逝きゆく年」という文字を冠したこのタイトルこそ、物語のすべてを象徴しているように感じます。
物語は、前作の事件から一年後、静寂の中から始まります。オーナーの御堂静香を失い、表向きは解体された「ル・クラブ・パッション」。しかし、その魂はリョウの中で生き続けていました。師の帰りを待ちながら、ひっそりと地下で活動を続ける彼の姿は、もはや教えを請うだけの少年ではありません。静香が創造した「聖域」を守り、その意志を継ぐ者としての自覚に満ちた、静かなリーダーの顔つきをしています。
この地下での再生という設定が、まず素晴らしいと感じました。それは単なる事業の再開ではなく、信仰にも似た行為です。静香という存在が、リョウたちにとってどれほど絶対的なものであったか。彼女が築き上げた、社会の規範からこぼれ落ちた欲望を優しく受け入れる場所が、いかにかけがえのないものであったかを雄弁に物語っています。リョウの受動的な立場からの変化は、彼の精神的な成熟を示す第一歩なのです。
そして、この再建されたクラブに、最も衝撃的な人物が帰ってきます。前作でクラブを密告し、崩壊させた張本人、メグミです。彼女は自らの正義感がもたらした結果を深く悔い、リョウたちに許しを請い、仲間にしてほしいと願います。普通に考えれば、ありえない展開でしょう。自分たちを破滅させた人間を、なぜ受け入れることができるのか。
しかし、リョウたちは彼女を受け入れるのです。この「赦し」こそが、「ル・クラブ・パッション」という共同体の本質を、より鮮明に浮かび上がらせます。ここは、善悪の二元論で人を裁く場所ではない。過ちを犯した者でさえも、その痛みと後悔ごと包み込み、変容させる力を持つ、ラディカルなまでの共感の空間なのです。
メグミの動機もまた、複雑で人間的です。それは贖罪だけでなく、自分が恋い焦がれるリョウをあれほどまでに変えた世界の真実を、今度は内側から理解したいという切実な願いでもありました。断罪する側から、運営する側へ。外部の人間だった彼女が、クラブの内部へと深く関わっていくプロセスは、この物語のもう一つの重要な軸となっています。
さらに物語は、リョウがスカウトする新たな青年、アユムの登場によって、現代社会が抱えるより深いテーマへと切り込んでいきます。彼は、性同一性障害、いわゆるトランスジェンダー男性(FtM)であり、性別適合手術の費用を稼ぐために、この世界に足を踏み入れます。彼の存在は、クラブが受け入れる「多様性」の幅を、さらに押し広げることになります。
『娼年』が、主に他者の欲望を満たすための「身体」に焦点を当てていたとすれば、アユムの物語は、自己のアイデンティティを確立するための葛藤の場としての「身体」という、新たな視点を導入します。心と体が一致しない苦しみ。その願いを叶えるために、自らの体を使って仕事をするという選択のなかに、痛切なまでの切実さが宿っています。
クラブのメンバーたちが、アユムのジェンダー・アイデンティティをあまりにも自然に受け入れる場面も印象的です。彼らにとっては、人の欲望の形が千差万別であることなど、日々の仕事の中で知り尽くしているからです。アユムは、このクラブの「パッション(情熱)」が、単に肉体的なものだけでなく、自分らしくありたいというあらゆる形の「情熱」を肯定するものであることを、その存在をもって証明してくれました。
こうして、赦された裏切り者・メグミと、新たなアイデンティティを生きるアユムを加え、クラブが疑似家族のような共同体として再生していく過程が描かれた先に、物語の核心が、静かに、そして残酷に姿を現します。メンバーたちが待ちわびた、御堂静香の帰還です。しかし、その再会は、彼女が告げた「余命数ヶ月」という宣告によって、祝祭から一転、哀しみの序曲へと変わってしまうのです。
この瞬間、物語の推進力は完全にシフトします。「クラブをどう存続させるか」という問いは、「愛する人の限りある命と、どう向き合うか」という、より根源的で、個人的な問いへと変わります。かつて生命力と成熟した性の象徴であった静香の肉体が、病によって衰えていく。この現実が、登場人物たち、そして私たち読者に、生命の脆さ、そして喪失を前にした愛の意味を、容赦なく突きつけてくるのです。
しかし、静香はただ死を待つだけの弱い存在ではありません。彼女は、最期の瞬間まで「生きる」ことを諦めないのです。リョウの支えのもと、クラブが再び活気を取り戻している様子を見守り、旧友と最後の「デート」を楽しむ。彼女がリョウに語る人生や欲望についての言葉の数々は、彼女が遺す最後の、そして最も重要な教えとなります。
ここで本作が提示する死生観は、非常に力強いものです。一般的に、死にゆく者は俗世の欲望から解放され、清らかな精神世界へ向かう、というイメージがあるかもしれません。しかし静香は、そしてこの物語は、それを良しとしません。死を前にしてもなお、人と繋がりたい、美しさを感じたいという欲望は、人間が人間である限り失われない本質的なものであると断言するのです。
友人のヨーコの「悟ったりなんて、誰もしないの。みんなが傷つきながら、今を生きている」という台詞は、この物語の哲学を凝縮しています。充実した死とは、欲望から解放されることではない。むしろ、その欲望が最期まで尊重され、肯定されることの中にあるのだと。このラディカルで生命力に満ちた死生観こそ、『逝年』が持つ魂なのです。
そして物語は、息をのむようなクライマックスへと到達します。それは、死を目前にした静香と、リョウが交わす、最後の性行為です。これは決して単なる情事ではありません。エイズで死にゆく彼女との行為が持つリスクを承知の上で、リョウはそれを受け入れます。彼の目的は、もはや快楽ではなく、静香の存在そのものを、その衰えゆく身体ごと、全身全霊で肯定することでした。
この行為がさらに神聖なものとなるのは、静香の娘・咲良が、その様子を静かに見守っているからです。かつて娼夫の資質を見極める「試験官」であった彼女の沈黙の立ち会いは、この行為が汚らわしいものではなく、母への究極の愛の表現であることを承認する、荘厳な祝福のように感じられます。悲しみと恍惚が入り混じったこの場面は、性と生と死が分かちがたく結びついた、本作の頂点と言えるでしょう。
「生きているって、自分の身体をとおして誰かを感じて、なにかを分けあうってことだったんだね」。行為の後に静香が漏らすこの言葉は、三部作を通して描かれてきたテーマの、一つの答えです。性は、愛であり、生命の確認であり、魂の交流の媒体となりうる。リョウは、まさに静香の「最期の人になる」という役割を、最も完璧な形で果たしたのです。
この究極の結合の後、静香は穏やかに息を引き取ります。彼女の死の直後、リョウが抱いたのは、深い悲しみと同時に、「ホッとする気持ち」でした。これは決して彼女の死を喜んでいるのではありません。愛する人が日に日に衰弱していく姿を見続けるという、耐え難い苦痛からの解放。そして、彼女の記憶を、最も美しく、力強い姿のまま心に留めることができるという、心理的な安堵だったのです。
物語の終わりに、リョウたちは決断します。静香の後任は置かない。彼女は永遠に「ル・クラブ・パッション」のオーナーであり続ける、と。リョウは、物理的な不在を嘆くのではなく、「死んだけれど生きている御堂静香の思い出といつまでも暮らすこと」を選びます。死は、終わりではなく、変容なのです。静香の肉体は失われましたが、彼女の精神、教え、そして愛は、リョウの中に、そしてクラブそのものの中に、永遠に生き続ける。この希望に満ちた結末が、完結編である『爽年』へと、力強く物語を繋いでいくのでした。
まとめ
石田衣良さんの小説『逝年』は、単に『娼年』の続きというだけでは語り尽くせない、非常に深く、重いテーマを扱った傑作だと感じています。前作が「生」の輝きを描いたとするなら、本作は「死」という影を通して、逆説的に「生」の尊さ、そして愛の究極の形を私たちに見せてくれます。
物語の中心にいるのは、紛れもなく御堂静香です。彼女の死へのカウントダウンが、物語全体を静かな緊張感で包み込みます。しかし、それは決して絶望の物語ではありません。残された時間をどう生きるか、そして愛する人の死をどう受け止め、乗り越えていくか。リョウをはじめとする登場人物たちの姿を通して、その問いへの一つの美しい答えが示されます。
特にクライマックスの、リョウと静香が最期に交わる場面は、官能的でありながら、どこまでも神聖です。それは、人が人を愛し、肯定するという行為の、一つの極点ではないでしょうか。喪失の悲しみさえも、思い出という永遠の宝物に変えていく彼らの選択は、読後の心に温かく、そして力強い光を灯してくれます。
『逝年』は、私たちに「死」について考えさせると同時に、だからこそ「今、生きていること」の意味を強く問いかけてくる物語です。愛とは、継承とは何か。読み終えた後も、長く深い余韻に浸れる、そんな一冊でした。