小説「複合汚染」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
有吉佐和子さんが1975年に発表された「複合汚染」は、高度経済成長期の日本が抱えていた環境問題に鋭く切り込んだ、まさに時代への警鐘とも言える作品です。この作品が世に出た当時、日本は経済的な繁栄を謳歌する一方で、その陰で深刻な環境破壊が静かに、しかし確実に進行していました。本書は、そうした「見えない汚染」の実態を、驚くほど詳細な取材に基づき、私たち読者の目の前に突きつけました。
有吉さんは、単なる伝聞や資料の羅列にとどまらず、自らが全国各地を訪ね歩き、汚染の現場で働く人々や、それに苦しむ当事者の生の声に耳を傾けました。その徹底したジャーナリスティックな姿勢と、作家ならではの鋭い感性が融合し、本書は単なる環境報告書を超えた、強烈なメッセージを持つ文学作品として結実したのです。
当時、多くの日本人が「便利さ」や「豊かさ」の追求に夢中になるあまり、その代償として何を失っているのかに気づいていませんでした。しかし「複合汚染」は、私たちの食卓、私たちが暮らす水や空気の中に、知らぬ間に忍び寄る化学物質の脅威を白日の下に晒しました。その影響は、私たち自身の健康だけでなく、次の世代、さらにその先の未来にまで及ぶ可能性を示唆し、社会全体に大きな衝撃を与えました。
この作品が投げかけた問いは、発表から半世紀近くが経過した現代においても、決して色褪せることはありません。むしろ、地球規模で環境問題が深刻化する今だからこそ、「複合汚染」が持つ普遍的な価値が改めて問い直されているように感じます。本作を通して、私たちは過去の過ちから学び、未来のために何をすべきかを深く考えるきっかけを得られるでしょう。
「複合汚染」のあらすじ
この作品は、高度経済成長期の日本社会が抱えていた深刻な環境汚染問題を、多角的な視点から浮き彫りにしていきます。有吉佐和子さんは、当時すでに顕在化しつつあった公害の数々、例えば工業廃液による河川の汚濁、合成洗剤の普及による水質悪化、そして農薬や化学肥料の過剰使用が引き起こす土壌汚染といった問題に、真正面から向き合いました。
著者は、これらの汚染が単一の原因で起こっているのではなく、複数の化学物質が複雑に絡み合い、相互に作用し合うことで、より深刻かつ予測不能な影響をもたらす「複合汚染」という概念を提示します。具体的には、米の害虫駆除に使われたBHC殺虫剤や、マラリア蚊駆除にも使われたDDTといった農薬が、どのように日本の土壌や人体に異常なほど蓄積されていったのか、その実態が克明に描かれます。
また、稲のイモチ病対策として広く使われた有機水銀が、農家の健康を蝕み、日本人の毛髪に異常な水銀含有量をもたらした衝撃的な事実も明らかにされます。さらに、消費者が求める「見栄えの良い」農産物を作るために、農薬やワックス漬けになった食品の実態や、農家自身が自家消費用には農薬を使わないという矛盾した現実なども示され、当時の社会が抱える問題の根深さが浮き彫りになります。
本書では、大気汚染を引き起こす光化学スモッグや自動車の排気ガス、そして十分に安全性が確認されないまま認可されてきた食品添加物の問題にも言及し、これらの汚染が私たちの日常生活に深く入り込んでいることを訴えかけます。著者は、科学的なデータだけでなく、汚染に苦しむ人々の証言や、生産現場の声、さらには日本の農業の歴史的背景にまで踏み込み、多角的に問題を掘り下げていきます。そして、これらの問題が、私たちの健康だけでなく、自然や生態系、ひいては次の世代の生存そのものをも脅かすものであると警鐘を鳴らしています。
「複合汚染」の長文感想(ネタバレあり)
「複合汚染」を読み終えて、まず胸に迫るのは、有吉佐和子さんの並々ならぬ取材力と、それを支える揺るぎない問題意識でした。当時、これほどまでに環境問題の深部に迫り、多角的な視点からその実態を暴き出した作品は他に類を見なかったのではないでしょうか。本書は、単なる公害ルポに終わらず、科学、経済、文化、そして人間の倫理にまで踏み込んだ、まさに「警鐘としての文学」というにふさわしい、重厚な読み応えがありました。
私が特に印象深く感じたのは、著者が「複合汚染」という、当時の常識を打ち破る概念を提示した点です。個々の汚染物質の毒性だけでなく、複数の物質が互いに影響し合うことで、より複雑で予測不能な脅威を生み出すという指摘は、今でこそ「カクテル効果」などと呼ばれて研究されていますが、1970年代にこれを看破していた有吉さんの洞察力には脱帽するしかありません。彼女は、個々の問題が単発的に存在するのではなく、社会全体の構造、私たちの生活様式、そして無意識の選択の積み重ねが生み出した「複合的な結果」であると訴えかけています。
詳細なネタバレになりますが、本書で具体的に描かれる農薬の問題は、本当に衝撃的でした。日本の耕作地1ヘクタールあたりの農薬使用量が、西欧や米国と比べて異常に高かったというデータには目を疑いました。特にBHC殺虫剤の例は象徴的です。殺虫効果のある成分がわずか14%に過ぎないにもかかわらず、残りの無効な成分を含んだ混合物が大量に散布されていたという事実。そしてそれが、米作地帯の住民に深刻な健康被害をもたらしていたという現実は、当時の日本の農業が、いかに効率性と目先の利益を優先し、安全性や長期的な影響を軽視していたかを雄弁に物語っています。
DDTや有機水銀の記述も同様に、読者に強い衝撃を与えます。第二次世界大戦後、マラリア蚊やノミの駆除に用いられたDDTが、その強い毒性にもかかわらず、日本に大量に投入されていたという経緯。そして、稲のイモチ病対策に使われた有機水銀が、農家の肝臓障害を引き起こし、東京オリンピック時の毛髪検査で日本人の水銀含有量が異常な高値を示したというくだりは、人間の生命がいかに軽んじられていたかを感じさせ、暗澹たる気持ちになります。農薬が、本来守るべきはずの農産物と、それを消費する人間、さらには生態系全体に、取り返しのつかないダメージを与えていたという現実は、目を背けたくなるほど痛ましいものでした。
著者が指摘する消費者の嗜好の変化も、考えさせられる点が多くありました。泥がついた野菜が鮮度の証であるにもかかわらず、消費者が虫食いのない「完璧な」外見を求めるあまり、不自然なほどに農薬が使われたり、ワックスがかけられたりする現状。堆肥で育った野菜と化学肥料で育った野菜の味の比較は、私たちがいかに「見た目」や「便利さ」に囚われ、本来の「味」や「安全性」を見失っていたかを示唆しています。さらに、農家が自家用野菜には農薬を使わないという、生産現場の二重基準が明らかにされた時には、正直、大きなショックを受けました。「虫食いの野菜、曲がったキュウリを同じ値段で買ってくれれば無農薬野菜はいくらでも作る」という農家の切実な声は、市場原理と安全性の間で板挟みになる生産者の苦悩を如実に表しており、読者として深く考えさせられました。
合成洗剤と工業廃液による水質汚染の問題も、現代に生きる私たちにとって、決して他人事ではありません。界面活性剤の毒性や、それが人体や生態系に与える悪影響は、当時から懸念されていたにもかかわらず、その使用が広まっていった経緯は、経済優先の社会がもたらす歪みを象徴しています。著者が、当時のCAだった知人が環境のために身体も髪も石鹸で洗っていたというエピソードや、合成洗剤の汚れ落ちに関する大学での化学的証明の言及など、当時の一般市民や専門家の間での認識のズレや議論を垣間見せることで、問題の複雑さを巧みに示しています。
「見えない汚染」の可視化という点で、有吉さんの筆致は特筆すべきものがあります。工場からの煙突がもくもくと煙を上げる「見える公害」だけでなく、私たちの食卓に並ぶ食品や、毎日使う日用品に潜む化学物質による「見えない汚染」の脅威を、具体的なデータ、歴史的経緯、そして何よりも当事者の生々しい証言を通じて明らかにしたのです。これにより、読者は自身の日常生活がいかに汚染と密接に関わっているかを痛感させられ、その警鐘は深く心に響きます。特に、農家自身がその危険性を認識しながらも、市場の要求や効率性のために大量生産のシステムに組み込まれていたという事実は、当時の社会構造の矛盾を象徴しており、胸が締め付けられる思いでした。
有吉さんの取材の深掘りは、単なる事実の羅列に終わりません。彼女は「地べた」からの声、つまり実際に汚染の影響を受けている人々の声に耳を傾けることを重視しました。大学の専門家だけでなく、地場の労働者、農家、さらには屠畜場まで、社会のあらゆる階層の人々の証言を集めることで、問題が特定の分野に限定されない、社会全体に及ぶ広がりを持つことを示しています。防腐剤も人工調味料も着色料も一切使わずに本物のしば漬けを作り続ける京都の漬物屋のような、公害社会に抵抗し、地道に本物の営みを続ける人々の姿を描くことで、希望の光も示しているのが印象的でした。
一方で、農薬の使用について有吉氏とは異なる見解を持つ見里朝正氏の意見、「農業そのものが自然生態系の破壊の上にしか成立し得ない宿命をもっている。水田をつくり、稲を植えたら、稲の病害虫が大発生するのである。水田をつくったことが人為的である以上、そのために発生した病害虫は、人為的に除かざるを得ない。そこに農薬の必然性がある」という紹介は、問題の複雑さと、単純な善悪二元論では語れない現実を提示し、著者の公平な視点を感じさせました。
著者が強調する「肌感覚」の重要性も、この作品の大きな柱です。科学技術が必ずしも物事の全体を説明し、全ての問題を解決に導くとは限らない。だからこそ、日々の生活の中で「何かおかしい」と感じ取る「肌感覚」こそが、自分が大切に思うものを守るために人間に備わった重要な能力であるという結論は、現代においても非常に示唆に富んでいます。そして、「化学などの学者は短視眼的な問題のとらえ方が多くデータが無いと終わてしまうところがある。生物学者は捉え方が大きくその背景まで突っ込むので環境問題の解決には有効である」という有吉さんのコメントは、彼女が個別の化学物質の毒性だけでなく、生態系全体や生命の営みという広範な視点から環境問題にアプローチしようとした、その思想的背景を明確に示しており、深く共感するものでした。
日本の農業慣行に関する歴史的考察も、非常に興味深いものでした。「いつから日本人は田畑に生える草を一本残らず抜かなければ気が済まなくなったのか」という問いかけは、ハッとさせられるものでした。海外の有機農業の畑が草だらけであることに驚きを示し、自然農法においては草は味方であり、科学的にも草と土壌の関係性が理解されてきた現代において、草を全て抜く行為は合理的でないと考察する有吉さんの視点は、環境問題が単なる技術的な問題ではなく、歴史的・文化的な価値観の変化に根ざしているという深い理解を示しています。元禄時代からの草抜き慣行の歴史を紐解き、農作業を知らない「お上」が口出しするようになってから、百姓が骨身で知っていた草の役割が軽視されるようになったのではないかという推測は、非常に説得力がありました。
そして、「複合汚染」が社会に与えた影響の大きさは計り知れません。この作品が当時のベストセラーとなり、「複合汚染」という言葉が社会に広く浸透したことは、当時の日本人が抱えていた環境問題への潜在的な不安や関心を顕在化させ、多くの人々に問題意識を共有させることに成功した証です。この言葉が単なる学術用語に留まらず、一般社会の共通認識として定着し、環境問題への関心を喚起する力を持ったことは、有吉さんの警鐘がいかに社会に深く響いたかを示しています。
具体的な社会運動への影響も非常に大きかったと知って、改めて本書の価値を再認識しました。現在の「オイシックス・ラ・大地」の前身である「大地を守る会」の設立の出発点となったという事実は、有吉さんの警鐘が単なる文学的表現に終わらず、具体的な市民の行動や、持続可能な食と農業を追求する社会運動へと繋がった、極めて大きな社会的影響力を持っていたことを示しています。文学作品が、社会変革の具体的な行動を促す原動力となり得る稀有な事例として、その意義は大きいと感じました。
しかし、この作品を読んだ今の私の感想として、公害問題の長期化と現代への警鐘の部分は、非常に厳しい現実を突きつけられました。本書が刊行された昭和50年(1975年)から半世紀近くが経過した現在でも、「腹黒い政治家は結局50年以上お金を集め続けているし、インフレとか、大気汚染とか、食品添加物とか、水質問題とか、農薬とか、殺虫剤とか、50年間以上調査中とか、検討中とか、人間の生命が守られないのは、変わってないんだな」という読者のコメントが紹介されていることには、胸が痛みました。これは、問題の根深さと、社会構造の変革の難しさを示唆しています。
さらに、本書が刊行された当時336種だった許可薬品が、令和4年(2022年)には831種に増加しているというデータは、一部の危険な薬品が禁止された一方で、新たな化学物質が次々と導入され、複合的なリスクが増大している可能性を示唆する、衝撃的な事実でした。水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、カネミ油症といった甚大な公害被害は現在では起こりにくくなっているとされるものの、それは汚染物質の処理技術が発達したためであり、今の安全が当たり前に保証されていると思い込み過ぎてはいけないという警告は、肝に銘じるべきだと感じました。
有吉さんは、「戦後、それ以前の仕組みを台無しにしてしまった」ことへの深い反省を促し、「無知も無関心も恐ろしいことだ」と、現代社会に生きる私たち一人ひとりの責任を訴えかけています。「わたしたちは本当にそれでいいのか?」という永遠の問いかけを社会に投げかけ、短期的な効果や自分たちの利益だけでなく、少し遠回りしてでも「まず安全を第一に考えるべき」という理想論を提示しています。「次の世代も健やかに生きられるような世界であり続けてほしい」という祈りにも似たメッセージは、本書が単なる告発に留まらず、未来への責任を強く訴えかける、普遍的な価値を持つ作品であることを示しています。
結局のところ、「複合汚染」が投げかけた問題の多くは、未解決のまま現代に引き継がれています。経済優先主義、政治の機能不全、科学技術の進歩とリスク管理の乖離、そして私たち市民の無関心。これらの構造的な問題は、50年経った今も変わらず、私たちに重くのしかかっています。有吉佐和子さんは、当時すでに、これらの問題の根深さを予見していたのかもしれません。だからこそ、この作品は、単なる一過性の社会現象や過去の公害記録に終わらず、時代を超えて普遍的な意味を持つ「永遠の問いかけ」として、今なお私たちに深く問いかけてくるのだと感じました。
まとめ
有吉佐和子さんの「複合汚染」は、高度経済成長期の日本が直面した、目に見えない複合的な汚染の脅威を、見事に小説という形式を通じて社会に突きつけた画期的な作品でした。彼女は、丹念な取材と鋭い洞察力によって、個々の汚染物質の危険性だけでなく、現代科学の限界、人間の「肌感覚」の重要性、そして日本の農業慣行や文化的な背景が環境問題に与える影響までを深く考察しています。
本書は、「おそるべき環境汚染を食い止めることは出来るのか?」という根源的な問いを投げかけ、公害が「生物の、人類の生存の問題と深く関わりあう」という、文明社会の存立に関わる警鐘を鳴らしています。そのメッセージは、無知や無関心がもたらす恐ろしさを訴え、短期的な利益追求ではなく、次の世代の健やかな生存のために「まず安全を第一に考えるべき」という、現代社会にも通じる普遍的な倫理的問いかけとなっています。
「複合汚染」は、単なる環境問題の報告書に留まらず、文学が社会に深く介入し、人々の意識を変革し、具体的な行動を促す力を持つことを示した、日本文学史における重要な金字塔として、その価値を今なお失っていません。むしろ、環境問題が地球規模で深刻化する現代において、その警鐘はより一層重みを増しているように感じられます。
私たち一人ひとりが、この作品が投げかける問いに真摯に向き合い、日々の選択や行動を見つめ直すことが、未来へと繋がる第一歩となるのではないでしょうか。「複合汚染」は、過去の記録であると同時に、私たち自身の未来に向けた、今なお語りかけ続ける大切なメッセージなのです。