小説『罪人の選択』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

貴志祐介先生が2年半の沈黙を破って世に送り出した短編集『罪人の選択』は、表題作である『罪人の選択』が特に異彩を放っています。先生自身が「ここまで強いテンションを維持した作品は、書いたことがありません」と語るほど、読者の心を鷲掴みにする極限のミステリーとして位置づけられているのです。収録されている他の三編「夜の記憶」「呪文」「赤い雨」がSF色の強い作品であるのに対し、この表題作だけはSFではないミステリーとして、人間心理の深淵に切り込む密室劇の魅力が際立っています。

この作品は、読者に絶えず「自分ならどちらを選ぶだろうか?」という問いを投げかけ、思考の迷宮へと引き込みます。このような読者参加型の要素は、物語の緊張感を一層高めるだけでなく、単なる物語の消費に留まらない、能動的な読書体験を提供してくれるでしょう。作品全体を通して「人間の愚かさ」という主要なテーマが深く掘り下げられており、それが絶望的な状況下でどのように顕現するかが描かれています。これは、貴志祐介作品全体に共通する人間性への鋭い洞察を示すものです。

特に『罪人の選択』では、「本当の罪人は間違った選択をするもの」という、人間の本質に迫る命題が提示されます。この命題は、物語の根底に流れる運命論的な視点と、罪がもたらす不可避な結果を示唆しています。物語は、単なる謎解きに留まらず、「因果応報」という古くからの教訓を、現代的な心理戦と巧妙なトリックによってスリリングな形で問い直しているのです。

小説『罪人の選択』のあらすじ

物語は、終戦の翌年である1946年8月21日の日本を舞台に幕を開けます。場所は薄暗い防空壕の奥深く。そこで磯部武雄は、復員兵である佐久間茂によって命の危機に瀕していました。この極限状況の背景には、佐久間が戦争に行っている間に、磯部が佐久間の妻と不貞の関係を持ったという、許されざる「罪」が存在するのです。

佐久間は戦地で「戦死した」と伝えられていたため、磯部には「戦死したという連絡があった後なので仕方ない面がある」という言い訳も成立しうる状況でしたが、生きて帰還した佐久間の怒りは収まらず、復讐の念に燃えていました。佐久間は磯部に猟銃を突きつけ、生きるか死ぬかの究極の選択を迫ります。これは、単なる物理的な暴力だけでなく、精神的な圧迫を加えることで、磯部の判断力を奪う意図があることを示唆しているようにも思えました。

磯部の前に置かれたのは、一升瓶に入った「どぶろく(焼酎)」と、もう一つは「缶詰」の二つです。佐久間は、どちらか一方に致死量の猛毒が入っており、ほんの一口でも命がないだろうと告げます。さらに、途中で吐き出せば即座に射殺されるという、逃げ場のない過酷な条件が課せられました。この缶詰が具体的に「フグの缶詰」であることが示唆されており、これが後の物語の核心となるトリックの重要な伏線となります。

磯部には、どちらが毒入りでないかを選ぶための「わずかなヒント」が与えられます。このヒントの性質は、読者にも推理を促す要素となるでしょう。しかし、このヒントは「罪人」である磯部を救済するものではなく、むしろ彼を誤った選択へと導く心理的な罠として機能するのです。磯部が物語の中で「罪人」として明確に位置づけられていることは、彼の姦通という行為が、この状況の直接的な原因であるという事実に基づいています。

作品のテーマとして「本当の罪人は間違った選択をするもの」という、ある種の運命論的な命題が提示されていることは、罪人の内面的な状態が、その後の行動や結果に決定的な影響を与えることを示唆します。磯部には「ヒント」が与えられたにもかかわらず、彼は最終的に毒入りの方を選び、死亡するという結末を迎えます。もしヒントが純粋に論理的なものであれば、罪人であるかどうかにかかわらず、正しい選択肢にたどり着けるはずです。

この矛盾は、ヒントの性質が、罪人の心理状態や認識を逆手に取ったものであることを強く示唆します。例えば、罪人は復讐者の言葉を額面通りに受け取らず、裏があると考えたり、自己の罪悪感からくる焦りや恐怖によって、冷静な判断ができない状態に陥る可能性があります。このように、磯部が与えられた「ヒント」は、彼自身の「罪」によって曇らされた判断力、あるいは復讐者の意図を深読みしすぎる心理が仇となり、結果的に「間違った選択」をせざるを得ない状況を作り出していると言えるでしょう。ヒントは救済の機会ではなく、むしろ罪を確定させ、その報いを受けさせるための巧妙な仕掛けとして機能するのです。

小説『罪人の選択』の長文感想(ネタバレあり)

『罪人の選択』は、貴志祐介先生の作品の中でも特に異彩を放つ一編と言えるでしょう。まず、その導入からして読者を突き放すような、それでいて引き込んでやまない引力があります。1946年の終戦直後という時代設定が、物語に陰鬱で切迫した空気を与え、人間の心の奥底に潜む闇を一層際立たせています。防空壕という閉鎖空間、そして復讐に燃える佐久間茂と、妻を寝取った磯部武雄というシンプルな対立構造。この極限状況が、読者に「自分ならどうする?」という問いを否応なく突きつけ、ページを捲る手を止めさせません。

最初の選択、磯部武雄が「どぶろく」か「缶詰」かを選ぶ場面。貴志先生の筆致は、磯部の焦燥、恐怖、そして僅かな希望といった内面を克明に描き出します。与えられた「わずかなヒント」が、彼にとって救いとなるはずが、皮肉にも彼を破滅へと導く罠となる。ここが既に素晴らしい。罪人の心理が、いかに客観的な事実を歪め、誤った判断へと導くかを、見事に提示しています。彼の選択が「毒入り」であったことは、単なる悲劇で終わらず、「本当の罪人は間違った選択をするもの」という、本作の根底にあるテーマを強烈に印象付けます。読者はここで既に、単なるミステリーの謎解きを超えた、人間の業のようなものを感じずにはいられないでしょう。

そして、物語は18年後、1964年の東京オリンピックが開催される年に、同じ防空壕へと舞台を移します。この時間経過の残酷さがまた、物語に深みを与えています。過去の罪が忘れ去られることなく、新たな形で、しかし同じ「選択」の構図で顕現する。この繰り返しが、単なる偶然ではなく、ある種の宿命的なものとして描かれているのが、貴志先生の真骨頂だと感じました。

新たな「罪人」である黒田と、復讐者である満子。黒田の「罪」もまた、他者を深く傷つけるものであり、磯部の罪と同様に「因果応報」のテーマに繋がります。満子が佐久間の友人の娘、あるいは裏切られた女性の姉であるという示唆が、単なる模倣犯ではない、復讐の連鎖が世代を超えて引き継がれているという、ぞっとするような因縁を強調します。そして、黒田に与えられた「大きなアドバンテージ」である磯部武雄の白骨化した死体。この具体的な証拠が、読者の推理欲を掻き立てます。「これなら黒田は助かるはずだ!」と誰もが思うはずです。

しかし、その期待は鮮やかに裏切られます。黒田もまた、磯部と同じく「毒入り」の方を選んでしまい、死亡する。この結末は、読者に大きな衝撃と疑問を投げかけます。白骨死体が示す「毒」の正体を知りながら、なぜ彼は同じ過ちを繰り返したのか?ここにこそ、貴志祐介先生が仕掛けた最大のトリックが隠されています。

このトリックは、「毒」という言葉の多義性を巧みに利用したものです。読者は通常、「毒」と聞けば、青酸カリのような即効性の化学的な猛毒を想像し、どちらか一方にそれが混入されていると考えるのが一般的です。これは作者が意図的に仕掛ける最初の誤誘導と言えるでしょう。しかし、『罪人の選択』では、磯部の選択肢の一つである缶詰が「フグの缶詰」であったという情報が、この読者の一般的な前提を覆します。フグ毒(テトロドトキシン)は強力な神経毒であり、適切に処理されていないフグは死に至る毒物です。この事実は、「毒」が必ずしも外部から混入された化学物質であるとは限らないことを示唆します。

「毒って言っても、色々あるよね」という作中での示唆は、この多義性を明確に読者に提示し、読者の固定観念を打ち破ります。最初の罪人である磯部の白骨死体が、2番目の罪人である黒田に「ヒント」として提示されるにもかかわらず、黒田もまた死に至るという結末は、死体が示す「毒」の正体が、黒田の知識や解釈によって誤読されたことを意味するのです。

例えば、磯部がフグ缶を選んで死んだ場合、黒田は「フグ缶が毒だった」と認識しますが、その「毒」がフグ毒であること、そしてその毒性が時間経過で変化したり、あるいは黒田の時代のフグ缶が別の意味で毒性を持つ可能性を考慮しなかったのかもしれません。最も巧妙なのは、フグ毒は熱に強いが、缶詰の製造過程や保存状態によって毒性が変化する可能性、あるいはもう一方の「どぶろく(焼酎)」が自家製であり、不適切な発酵によってメチルアルコールなどの有害物質を含んでいた、というような、読者の常識や科学的知識を逆手に取る仕掛けです。

貴志祐介先生は、「毒」という言葉の定義を拡張することで、読者の先入観を巧みに利用しました。単なる化学毒と生物毒の区別だけでなく、知識の有無、情報解釈の歪み、そして時間経過による毒性の変化など、複数の要素を絡ませることで、トリックに多層的な深みを与えています。これにより、読者は「毒」の真の正体と、それがもたらす心理的な影響について深く考察せざるを得なくなり、物語の心理的リアリティが増していると感じました。

このトリックは、単なる論理パズルに留まらず、「因果応報」という作品の中心的テーマを強固に補強しています。罪を犯した者が、その罪ゆえに正しい判断ができず、自ら破滅の道を選ぶという、運命的な結末を描いているのです。

磯部と黒田はそれぞれ異なる「罪」(姦通と裏切り)を犯していますが、どちらも物語中で「罪人」と称され、同様の究極の選択を迫られます。これは、彼らの個々の罪が、より普遍的な「罪」の概念へと昇華されていることを示唆しています。両者ともに「選択」の機会を与えられ、特に黒田には明確な「ヒント」や「アドバンテージ」があるにも関わらず、最終的に死に至るという共通の結末を迎えることは、単なる偶然では説明できません。

このトリックは「ヒトは宿命を変えることは出来ない、という『神』の存在の暗示につながっている」と明言されているように、個人の行動を超えた、ある種の普遍的な法則や、運命的な力が働いていることを示唆しています。したがって、トリック自体が、この「神の暗示」や「因果応報」の法則を具現化する手段となっているのです。罪人がいかに知恵を絞ろうとも、彼らの内面的な「罪」が、与えられた情報を歪め、結果的に彼らを破滅へと導く選択をさせる、という構造が綿密に描かれています。

このように、「毒」のトリックは、単なる知的な仕掛けではなく、作品の中心的テーマである「因果応報」と「宿命」を具現化する装置なのです。罪人がいかに知恵を絞ろうとも、自らの罪の性質や、それに起因する心理的偏向によって、常に破滅的な選択へと導かれる。これは、人間の自由意志の限界と、罪がもたらす不可避な結果を、あたかも「神」の視点から描いているかのようであり、読者に深い倫理的問いを投げかけています。

「罪人ってのは、魔に魅入られたように間違った方を選んじまうらしい」という作中引用は、この心理を端的に表しています。これは、罪を犯した人間の内面に生じる歪みが、その後の判断に決定的な影響を与えることを示唆します。罪の意識、復讐者への極度の猜疑心、あるいは自己保身の欲求が、客観的な情報を歪めて解釈させ、冷静かつ論理的な思考を妨げるのです。彼らは、最も安全な道ではなく、最も「罪人らしい」道を選んでしまう。

「相手が蛇に見えるのは自分の心の写し鏡、そう感じる自らこそ蛇なのだ」という言葉は、罪人の内面が、彼らの選択に決定的な影響を与えることを示唆しています。彼らは、自らの罪を投影し、復讐者の意図を過剰に深読みしたり、逆に軽視したりすることで、真の危険を見誤ります。

磯部と佐久間の因縁から、黒田と満子の因縁へと、復讐の構図が時代を超えて繰り返されます。これは、個々の罪が単発で終わらず、世代を超えて連鎖する「因果応報」の厳しさを描いています。この繰り返しの構造は、時間の経過が必ずしも過去の過ちを癒したり解決したりするわけではなく、むしろ罪の連鎖を固定し、宿命的なものとして強調する「時間の残酷さ」を描いているのです。

貴志祐介先生自身も「宇宙の中でも最強なのは時間」と語っており、時間の持つ非均一性や不連続性が人間の記憶と結びつき、過去の出来事が現在に影響を与え続けるという考えが背景にあるのかもしれません。白骨化した死体が18年後の事件現場に残されていることは、過去の罪と報いが現在にまで物理的に影響を及ぼし続ける、強力な証拠であり象徴です。これは、過去の亡霊が現在の選択を縛る、視覚的なメタファーとして機能していると言えるでしょう。

貴志祐介先生の作品は、読者に「自分ならどうするか?」と問いかけ、登場人物と同じように思考を巡らせることを促します。この問いかけは、物語への没入感を高めるだけでなく、読者自身の倫理観や判断力を試す役割を果たしてくれます。

物語の構造は、読者に「毒が入ってるのは、焼酎か缶詰めか?」という問いを投げかけ、登場人物と共に推理させることを意図しています。読者はヒントや黒田の「アドバンテージ」といった情報を与えられ、論理的に正解を導き出そうと試みます。しかし、両罪人とも最終的に死に至るという結末が明かされることは、読者が導き出した「正解」が、必ずしも物語の結末と一致しないことを意味します。この不一致は、読者に単に正解を探すだけでなく、「なぜ彼らは間違えたのか?」「自分なら本当に正しい選択ができるのか?」という、より深い倫理的・心理的な問いに直面させます。

読者は、自身の論理的思考の限界と、人間の心理的偏向(特に「罪」を背負った者の心理)が判断に与える影響について考察せざるを得なくなるでしょう。このように、『罪人の選択』は、読者を単なる傍観者ではなく、物語の共犯者、あるいは試される者として引き込みます。与えられた「ヒント」や「アドバンテージ」が機能しないことで、読者は自身の論理的思考だけでなく、人間の心理的偏向や「罪」の深淵にまで思考を及ぼすことを余儀なくされます。これは、作品が提示する倫理的ジレンマを、読者自身の内面で深化させる効果があり、読後も長く心に残る余韻を生み出しています。

まとめ

貴志祐介先生の『罪人の選択』は、緻密なプロットと巧みな心理描写、そして読者の常識を覆す「毒」のトリックによって、極限状況における人間の本質と「罪」の深さを鮮やかに描き出しています。

「因果応報」と「宿命」という普遍的なテーマが、二つの時代を跨ぐ復讐劇と巧妙な「毒」のトリックによって、スリリングかつ哲学的に提示されています。過去の罪が現在に影響を及ぼし、未来の選択を縛るという構造は、人間の自由意志の限界と、罪がもたらす不可避な結果を深く問いかけています。

読後には、単なるミステリーの解決を超えた、人間の愚かさ、選択の自由、そして運命の不可避性に対する深い問いが残り、読者の心に長く、そして重い余韻を残すでしょう。