小説「竹青」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治の作品の中でも、少し変わった、それでいて深く考えさせられる物語です。読んだ後、きっとあなたの心にも何かが残るはずです。
この物語の主人公、魚容(ぎょよう)は、才能はあるのに全く運に恵まれない青年です。彼の人生は苦難の連続で、読んでいるこちらも胸が痛くなるほど。そんな彼が、ある出来事をきっかけに不思議な体験をすることになります。それはまるで、現代でいう異世界転生のような…。
しかし、ただのファンタジーではありません。そこには太宰治らしい、人間の本質や幸福についての鋭い問いかけが隠されています。現実から逃れたいと願う心、それでも向き合わなければならない現実。魚容の体験を通して、私たちは自分自身の生き方について考えさせられることになるでしょう。
この記事では、そんな「竹青」の物語の核心に触れながら、そのあらすじを追い、感じたことをたっぷりと語っていきたいと思います。少し長いお話になりますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
小説「竹青」のあらすじ
昔の中国に、魚容という名の貧しい書生がいました。彼は容姿も良く、学問にも励み、決して悪い人間ではありませんでしたが、とにかく運に見放されていました。若くして両親を亡くし、財産もなく、親戚からは厄介者扱いされる始末。ついには、大酒飲みの伯父の命令で、評判の悪い醜い下女と結婚させられてしまいます。
この妻というのがまた酷い女性で、魚容の学問を全く理解せず、彼をぞんざいに扱います。自分の汚れ物を夫に投げつけ洗濯を命じるなど、その仕打ちはあまりにも惨いものでした。こんな生活に耐えきれなくなった魚容は、三十歳になったある年、家を飛び出して官吏登用試験である郷試に挑みますが、結果は無念の落第でした。
故郷へ帰る道すがら、空腹と絶望で動けなくなった魚容は、洞庭湖のほとりにある呉王廟の廊下に倒れ込みます。己の不運を嘆き、空を見上げると、カラスの大群が舞っていました。この地ではカラスは呉王の使いとして敬われており、舟に乗る人々が餌を投げ与えるのを見て、魚容はカラスを羨ましく思うのでした。「いっそ、カラスになりたい」と。
うつらうつらと微睡む魚容の前に、黒い衣の男が現れます。「呉王様がお呼びだ。黒衣隊に欠員が出たので、お前を雇ってやろう」。そう告げられ、気がつくと魚容はカラスの姿になっていました。カラスとしての生活は、人間の時の苦労が嘘のように自由で気ままなものでした。そんなある日、美しい声に誘われて見ると、同じ枝に一羽の雌のカラスが。
竹青と名乗るそのカラスは、呉王の命で魚容の世話をしに来たと言います。二羽はすぐに打ち解け、共に食事をし、散歩を楽しみ、夜は羽を寄せ合って眠りました。魚容は生まれて初めてと言ってもいいほどの幸福を感じていました。しかし翌日、飛ぶ喜びに夢中になった魚容は、仲間の忠告を無視して兵士の舟に近づきすぎ、弓で射られてしまいます。――はっと気がつくと、魚容は呉王廟の廊下で倒れている人間の姿に戻っていました。
あれは夢だったのか…? 深く落胆しながら故郷に戻った魚容を待っていたのは、やはり以前と変わらない貧しく辛い生活でした。三年後、再び郷試に挑戦するも、またも落第。絶望し、呉王廟で人生を儚んでいると、ふとカラスの群れの中にあの竹青の姿を探している自分に気づきます。その時、二十歳ほどの美しい女性に声をかけられました。彼女こそ、あの竹青だったのです。
小説「竹青」の長文感想(ネタバレあり)
太宰治の「竹青」を読み終えて、なんとも言えない不思議な余韻と、ずしりとした問いかけが心に残りました。これは単なる昔語りではなく、現代に生きる私たちの心にも深く響く、普遍的なテーマを扱った物語だと感じます。
まず、主人公である魚容の境遇に、心を寄せずにはいられませんでした。才能があり、真面目に生きているにも関わらず、全く報われない。親戚からは疎まれ、意に染まぬ結婚を強いられ、妻からは虐げられる。こんな理不尽な目に遭い続ければ、誰だって世の中を呪いたくなるでしょうし、「こんな現実から逃げ出したい」と願うのは、ごく自然な気持ちだと思います。
特に、彼が郷試に落第し、打ちひしがれて呉王廟で空を見上げる場面。カラスが自由に空を舞い、人々から敬われている様子を見て、「いっそカラスになりたい」と願う気持ちは、痛いほど伝わってきます。現代社会においても、理不尽な労働環境や人間関係、経済的な困窮など、様々な理由で「ここではないどこかへ行きたい」「いっそ人間ではない何かに…」と感じてしまう瞬間は、誰にでもあるのではないでしょうか。
そうした意味で、魚容がカラスになる展開は、現代でいう「異世界転生」の物語と重なる部分があるように感じました。辛い現実から解放され、全く別の存在として、自由で気ままな生活を送る。これは、多くの人が心のどこかで抱いている願望なのかもしれません。太宰治がこの作品を発表したのは昭和20年ですが、現代の流行を先取りしているかのようで、少し驚きました。
カラスになった魚容が、雌のカラスである竹青と出会い、短いながらも幸福な時間を過ごす場面は、物語の中で一息つける、心温まる描写です。「その半生の不幸をここでいっぺんに吹き飛ばしたような思いであった」という魚容の気持ちは、読んでいるこちらも嬉しくなります。しかし、その幸福は長くは続きません。調子に乗ってしまった魚容は弓で射られ、人間の姿に戻ってしまいます。
ここで一度、現実へと引き戻されるわけですが、この「夢だったのか?」という展開は、単なる夢オチとは違う深みを持っているように思います。一度幸福を知ってしまったからこそ、元の辛い現実に戻る絶望感はより一層深くなります。そして、三年後の再度の落第。もはや、魚容の心は完全に折れてしまってもおかしくありません。
そんな絶望の淵で、彼は再び竹青と出会います。今度は美しい人間の女性の姿で。そして、彼女から告げられる衝撃の事実。竹青は女神であり、魚容に起きた一連の出来事は、実は神による「試験」だったというのです。カラスになったことも、竹青との出会いも、すべては魚容の本質を見極めるための試練だった、と。
ここで明かされる神の意図、「獣になって幸福を感じる人間を、神は最も嫌う」という言葉は、この物語の核心をつく重要なメッセージです。つまり、現実から逃避し、安易な快楽や幸福(ここではカラスとしての自由な生活)に溺れることを、神は良しとしない、というわけです。これは、私たち自身の生き方にも鋭く問いかけてくる言葉ではないでしょうか。
興味深いのは、魚容が神の試験に「及第」した理由です。彼はカラスとしての幸福を確かに感じていましたが、決定的な瞬間、女神である竹青が素晴らしい景色を見せた時、彼は故郷に残してきた、あの醜く性格の悪い妻のことをふと思ってしまうのです。「故郷の女房にも見せてやりたい」と。あれほど憎んでいたはずの妻を、なぜ思い出したのか。これは解釈が分かれるところかもしれませんが、私は、魚容の中にまだ人間としての情愛や、現実との繋がりが残っていた証拠ではないかと感じました。完全に現実を捨てきってはいなかった、ということです。
竹青(女神)は魚容にこう諭します。「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければなりません。そこからは誰も逃れることはできないのです。ただ努力をするしかありません。現実から逃げるのは卑怯です。もっと現実を大切に、愛し、悲しんでみてください。神はそうした人間の姿を一番愛しているのです。」これは、厳しいけれど、真実を突いた言葉だと思います。私たちは、辛いことや苦しいことから目を背けたくなりますが、結局はこの現実世界で、人間関係の中で、喜びや悲しみを味わいながら生きていくしかないのだ、と。
そして物語は、さらに驚くべき展開を迎えます。故郷に帰った魚容が見たのは、美しく、そして心優しい女性に変貌した妻の姿でした。妻は、病に苦しむ中でこれまでの自分の行いを深く反省し、生まれ変わったのだと言います。これは、あまりにも都合の良い展開に見えるかもしれません。しかし、単なるご都合主義として片付けるのではなく、これもまた一つの象徴的な出来事として捉えることができるのではないでしょうか。
魚容自身が、神の試練を経て内面的に成長し、現実を受け入れる覚悟を決めたからこそ、彼の目に映る妻の姿も変わった、と解釈することもできるかもしれません。「人こそ人の鏡」という言葉があるように、自分の心の持ちようが変われば、相手や周りの世界も違って見える、ということなのかもしれません。あるいは、人が心から反省し、変わろうと努力すれば、実際に変化は起こり得るのだ、という希望のメッセージとも受け取れます。
物語の結末で、魚容は郷試に合格して役人になる道(=世間的な成功)を選ぶのではなく、平凡な農民として、生まれ変わった妻と、生まれた子供「漢産」と共に静かに暮らすことを選びます。かつては、自分を馬鹿にした人々を見返し、尊敬されることこそが最高の幸福だと考えていた彼が、最終的にたどり着いたのは、名誉や成功ではなく、日々のささやかな暮らしの中に喜びを見出す生き方でした。
これは、太宰治自身の人生観の変化とも重なる部分があるように感じます。若い頃の破滅的な生き方から、晩年は家庭を持ち、市井の作家として生きることを模索していた太宰。彼もまた、魚容のように、世間的な成功や名声とは違う形の幸福を求めていたのかもしれません。「竹青」には、そんな太宰自身の葛藤や、ある種の諦念、そしてそれでもなお現実を生きていこうとする静かな決意が投影されているように思えてなりません。
この「竹青」という物語は、私たちに多くのことを問いかけてきます。現実逃避したいという気持ちは、決して悪いものではないけれど、それに溺れてはいけない。苦しくても、辛くても、私たちはこの現実世界で、人間として生きていかなくてはならない。そして、その現実の中にこそ、見出すべき幸福があるのだ、と。成功や名声だけが幸福ではない。平凡な日常の中に、愛する人と共に生きる喜びの中に、確かな幸福はあるのかもしれない。そんなことを、魚容の数奇な運命を通して、改めて考えさせられました。
まとめ
太宰治の「竹青」は、運に見放された男・魚容が、カラスへの転身という不思議な体験を通して、人生や幸福の意味を見つめ直す物語です。辛い現実から逃れたいという普遍的な願望と、それでも現実と向き合わなければならないという厳しい真実が描かれています。
物語の中核にあるのは、女神・竹青によって明かされる「神の試練」です。現実逃避に溺れることなく、人間としての愛憎の中で苦しみ、努力することの大切さが説かれます。魚容が最終的に世間的な成功ではなく、平凡な農民としての生活に幸福を見出す結末は、私たちに幸福の多様な形を示唆してくれます。
この作品は、単なる異世界譚や教訓話ではありません。太宰治自身の人生観や葛藤が色濃く反映されており、読者は魚容の姿を通して、自分自身の生き方や幸福について深く考えさせられることでしょう。現実の厳しさと、それでもなお生きることの意味を問いかける、心に残る一作です。
もしあなたが、日々の生活に疲れを感じていたり、人生の意味について思い悩んでいたりするなら、ぜひ一度「竹青」を手に取ってみてください。きっと、魚容と竹青の物語が、あなたの心に新たな視点を与えてくれるはずです。