小説「私たちが好きだったこと」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。宮本輝さんの作品の中でも、特に心に残る物語の一つだと感じています。読んだ後、ふとした瞬間に登場人物たちのことを思い出してしまうような、そんな魅力があります。
物語は、主人公である「私」北尾与志が、過去のある二年間の共同生活を回想するところから始まります。雨の音を聞くと決まって思い出すというその日々は、輝かしくも、どこか切ない雰囲気をまとっています。この回想形式が、物語全体に独特のノスタルジーを与えているのですね。
ひょんなことから始まった、男女四人の奇妙な共同生活。最初はただの偶然の成り行きでしたが、次第に彼らの間には友情や愛情が芽生え、互いを支え合うようになります。しかし、関係が深まるほどに、それぞれの過去や性格の違い、そして避けられない現実が顔をのぞかせます。
この記事では、そんな「私たちが好きだったこと」の物語の筋道を追いながら、登場人物たちの心の動きや関係性の変化、そして物語が私たちに投げかけるものについて、ネタバレを含みつつ深く掘り下げていきます。読み終えた後に、もう一度あの二年間の日々に思いを馳せたくなるような、そんな時間をご一緒できれば幸いです。
小説「私たちが好きだったこと」のあらすじ
物語の語り手は、照明器具メーカーに勤める31歳の北尾与志、通称「私」です。1980年の春、彼は軽い気持ちで応募した公団住宅の抽選に、驚くべき高倍率を突破して当選します。しかし、入居には同居人が必要だと知り、友人で昆虫写真家の佐竹専一、通称「ロバ」に相談を持ちかけます。
ロバの機転で一時的に母親の住民票を移し、無事に入居を果たした与志。引っ越しを終えた矢先、ロバから共同生活の提案を受けます。事務所が近いロバにとっても、将来独立を考えている与志にとっても、家賃を折半できるのは魅力的な話でした。こうして、男二人の共同生活がスタートします。
ある夜、気分が高揚した二人は六本木のバーへ繰り出し、そこで荻野曜子と柴田愛子という二人の女性と出会います。意気投合し、酔った勢いで与志は彼女たちを新居に招待しますが、その後の記憶は曖昧でした。ところが数日後、二人の女性が荷物と共にトラックで現れ、「一緒に暮らすって宣誓式までしたじゃない」と言い出すのです。
宣誓式の件は曜子の冗談でしたが、実は二人が住んでいたマンションで火事があり、行く当てがない状況でした。荷物を預かる約束はしていたようで、与志は「いっそのこと、本当に一緒に暮らしてみないか」と提案。こうして、美容師の曜子とセメント会社勤務の愛子、共に27歳の二人が加わり、男女四人の奇妙な共同生活が幕を開けます。
この共同生活が単なる同居に終わらなかったのは、愛子が抱える不安神経症がきっかけでした。特に地下鉄が苦手な彼女を、与志とロバが送り迎えするようになり、自然と四人の距離は縮まっていきます。やがて、与志は愛子と、ロバは曜子と、それぞれ恋愛関係へと発展していくのでした。
彼らは皆、困っている人を放っておけない「お人好し」でした。ロバの知り合いの少年少女たちを助けたり、曜子が過去に作った借金を皆で補填したり。そして、愛子の知性を活かし、医学部への進学を応援するため、「ミネルバの会」という名の共同貯金口座を作り、全員で彼女の受験をサポートし始めるのです。しかし、それぞれの関係が深まるにつれて、過去の影や将来への不安が、穏やかな日々に波紋を広げていくことになります。
小説「私たちが好きだったこと」の長文感想(ネタバレあり)
読み終えてしばらく経っても、ふとした瞬間にあの公団住宅の部屋の空気や、四人の会話が蘇ってくるような、そんな余韻の深い物語でしたね。「私たちが好きだったこと」は、過ぎ去った時間への愛惜と、人生のほろ苦さを感じさせる、忘れがたい一作です。物語が主人公「私」の回想から始まる時点で、既にこの共同生活が過去のものであることが示唆されており、読み進めるほどに切なさが増していきます。
この物語の核となるのは、北尾与志(私)、佐竹専一(ロバ)、荻野曜子、柴田愛子の四人による、あまりにも偶然に始まった共同生活です。与志とロバは友人同士、曜子と愛子も友人同士ですが、男性陣と女性陣の間には何の接点もありませんでした。バーでの出会い、酔った勢いの約束(あるいは曜子の冗談)、そして火事というアクシデントが重なり、まるで運命に導かれるように、四人は同じ屋根の下で暮らし始めます。この始まりの不安定さ、計画性のなさが、かえって彼らの関係性を特別なものにしていく土壌となったのかもしれません。
主人公である「私」、北尾与志は、どこか内省的で、物事を深く考えるタイプです。照明デザイナーとして独立を夢見ながらも、現実の生活の中ではやや受け身な印象を受けます。愛子に惹かれながらも、将来について「もし」や「たら」で語ることを嫌い、はっきりとした約束を避ける態度は、彼の誠実さの裏返しであると同時に、変化を恐れる臆病さの表れとも言えるでしょう。彼の視点を通して語られるからこそ、この物語は感傷的な色合いを帯びるのかもしれません。
対照的に、友人のロバ(佐竹専一)は行動力があり、楽天的な性格に見えます。昆虫写真家としての情熱を持ち、ネパールまで幻の蝶を追い求めるようなロマンチストでもあります。彼の提案や行動が、しばしば停滞しがちな状況を動かすきっかけとなります。しかし、彼もまた、曜子との関係においては、どこか掴みきれない部分を抱えているように感じられます。彼の明るさの裏にも、人知れぬ葛藤があったのかもしれません。
柴田愛子は、聡明で勉強熱心な女性ですが、不安神経症という繊細で脆い一面を持っています。セメント会社の事務職という現状に満足せず、医学部を目指すという大きな夢を抱きます。彼女の存在は、他の三人に「支える」という共通の目的を与え、共同生活の結びつきを強くする要因となりました。しかし、その一方で、彼女の精神的な不安定さは、与志との関係にも微妙な影を落とします。彼女の純粋さと危うさが、物語に深みを与えていますね。
荻野曜子は、四人の中では最も現実的で、どこか達観したような雰囲気を持つ女性です。美容師として自立していますが、過去には妻子ある男性との不倫関係に深く傷ついた経験を持っています。その経験が、彼女の男性に対する見方や、ロバとの関係に複雑な影響を与えています。ロバをバンコクまで迎えに行く行動力を見せる一方で、元恋人の出現に心が揺れる様子は、彼女の強さと弱さの両面を感じさせます。
最初はぎこちなかった四人の関係は、日々の暮らしや、特に愛子の送り迎えなどを通して、徐々に変化していきます。互いの欠点や弱さを知り、それを補い合う中で、単なる同居人から、かけがえのない存在へと変わっていく過程が丁寧に描かれています。そこには、家族とも友人とも違う、この四人ならではの独特な絆が生まれていきました。それは、脆さを内包しながらも、温かく、心地よいものであったはずです。
そして、自然な流れの中で、与志と愛子、ロバと曜子という二組のカップルが誕生します。しかし、彼らの恋愛は、一般的な恋愛とは少し異なります。共同生活という基盤の上に成り立っているため、常に他の二人の存在を意識せざるを得ません。喜びも悩みも四人で共有するような関係性は、安心感をもたらす一方で、二人きりの関係を深める上での障壁にもなり得たのではないでしょうか。与志が旅行先で感じる「不安もないが、安心もない」という寂しさは、この特殊な関係性の本質を突いているように思います。
彼らの「お人好し」ぶりも、この物語の重要な要素です。ロバが連れてきた身寄りのない少年少女たちを自然に受け入れ、世話を焼いたり、曜子の借金を知った際には、誰からともなくお金を出し合って助けようとしたり。そして極めつけは、愛子の医学部受験を全力で応援する「ミネルバの会」の結成です。これらのエピソードは、彼らの優しさや純粋さを際立たせる一方で、どこか危うさも感じさせます。彼らは、他者のために自分たちを犠牲にすることを厭わない。それは美しいことですが、現実の厳しさの前では、時にその善意が裏目に出ることもあります。
愛子の医学部受験という目標は、四人の生活に新たな光をもたらしました。「ミネルバの梟は、時代の黄昏とともに飛び立つ」という言葉から名付けられた「ミネルバの会」は、彼らの希望の象徴となります。皆で一つの目標に向かって協力することは、共同生活をさらに意味のあるものにしました。しかし、それは同時に、終わりへのカウントダウンの始まりでもありました。愛子が合格すれば、この生活は変わらざるを得ない。そのことを、誰もが心のどこかで予感していたのではないでしょうか。
そんな中、曜子の過去が再び影を落とします。かつての不倫相手が離婚し、彼女に再び接近してくるのです。ロバへの気持ちと、断ち切れない過去の情との間で揺れ動く曜子。ロバもまた、その状況を静観するしかありません。この出来事は、彼らの関係がいかに脆い基盤の上に成り立っているかを浮き彫りにします。共同生活というシェルターの中で育まれた愛情も、外部からの強い力によって容易に揺らいでしまうのです。
一方、与志もまた、愛子との将来に対して決断を下せずにいました。愛子の受験を応援し、彼女への深い愛情を感じながらも、「結婚」という具体的な形に踏み出すことをためらいます。「もし」や「たら」といった仮定の話を嫌う彼の性格は、不確かな未来への不安の表れだったのかもしれません。愛子の合格が近づくにつれて、彼らの関係もまた、岐路に立たされることになります。
やがて、共同生活の終わりは、静かに、しかし確実に訪れます。愛子は大学に合格し、曜子はロバではない男性との未来を選びます。ロバは再び写真家として旅立ち、与志は一人、公団住宅に残されることになります。あれほど濃密だった二年間は、まるで夢のように過ぎ去り、それぞれの道を歩み始めるのです。この結末は、決して悲劇的なものではありませんが、読者の胸には深い喪失感と、過ぎ去った時間へのどうしようもない郷愁が込み上げてきます。
物語の結末で、与志は愛子と再会しますが、二人はかつてのようには戻りません。愛子は精神科医となり、別の男性と結婚していました。ロバや曜子とも、疎遠になっているようです。あの二年間の共同生活は、彼らの人生において、かけがえのない宝物のような時間であったと同時に、あくまでも一時期の「通過点」でしかなかったのかもしれません。それでも、与志が雨の音を聞くたびにあの頃を思い出すように、その記憶は決して消えることなく、彼らの人生に影響を与え続けていくのでしょう。
「私たちが好きだったこと」は、人生における出会いと別れ、そして記憶の意味を深く問いかけてくる作品です。共同生活という特殊な状況の中で生まれた、温かくも切ない人間関係。登場人物たちの不器用さ、優しさ、そして弱さが、リアルに描かれているからこそ、私たちは彼らに共感し、その結末に心を揺さぶられるのだと思います。それは、誰もが経験するかもしれない、人生のある時期の輝きとその終わりを描いた、普遍的な物語なのかもしれません。読み返すたびに、新たな発見と感動を与えてくれる、まさに珠玉の一編と言えるでしょう。
まとめ
宮本輝さんの小説「私たちが好きだったこと」は、偶然始まった男女四人の奇妙な共同生活を描いた物語です。主人公の「私」こと北尾与志が、友人ロバ、そしてバーで出会った曜子と愛子と共に過ごした二年間の日々を、切ないノスタルジーとともに回想していきます。
物語の核心には、お互いを支え合いながら変化していく四人の関係性があります。愛子の不安神経症を皆でサポートしたり、「ミネルバの会」を結成して彼女の医学部受験を応援したりする中で、友情や愛情が育まれていきます。しかし、それぞれの過去や将来への不安が、次第に彼らの関係に影を落としていく様子も描かれています。
この作品の魅力は、人生の一時期における、二度と戻らない輝きと、その終わりゆえの切なさを丁寧に描いている点にあるでしょう。登場人物たちの「お人好し」とも言える優しさや不器用さが、読者の共感を呼びます。ネタバレになりますが、共同生活の結末は、それぞれの道を歩むという形で訪れ、読後に深い余韻を残します。
過ぎ去った日々の愛おしさとほろ苦さ、そして人生における出会いと別れの意味を考えさせられる、心に残る一作です。読んだ後、きっとあなたも登場人物たちのことをふと思い出し、あの二年間の日々に思いを馳せることになるのではないでしょうか。