白い人・黄色い人小説『白い人・黄色い人』のあらすじをネタバレ込みでご紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

遠藤周作の『白い人・黄色い人』は、二つの短編からなる作品集で、それぞれが人間の心の奥底に潜む闇と、信仰の葛藤を深く掘り下げています。この作品は、芥川賞を受賞したことでも知られ、遠藤文学の根幹をなすテーマが凝縮されていると言えるでしょう。一見すると異なる舞台と主人公を持つ二つの物語ですが、その根底には「悪」と「赦し」、そして「信仰」という共通の問いが流れています。

特に注目すべきは、人間の「業」に対する遠藤の厳しい視線です。単なる善悪二元論では割り切れない人間の複雑な心理が、時に痛々しいほど生々しく描かれています。「白い人」では第二次世界大戦下のフランスを舞台に、人間の残虐性が極限まで追求され、「黄色い人」では戦時下の日本を背景に、日本人の持つ独特な信仰観や無関心さが問われます。

それぞれの物語が提示する問いは、決して特定の時代や地域に限定されるものではありません。むしろ、普遍的な人間の本質、宗教が果たしうる役割、そして個人が社会や歴史の中でどのように自己を見つめ直すかという、現代にも通じる深い示唆を与えてくれます。本作を読み解くことは、私たち自身の内面と向き合うことにもつながる、重厚な読書体験となるはずです。

『白い人・黄色い人』のあらすじ

まず、「白い人」は、第二次世界大戦下のフランス、リヨンを舞台に展開します。主人公である「私」は、ナチスの秘密警察(ゲシュタポ)の一員となり、その手記を通して彼の過去が語られていきます。幼少期に母親からの厳しい教育を受け、肉欲を抑圧されて育った「私」は、ある出来事をきっかけに内なるサディスティックな性を目覚めさせます。

やがて青年となった「私」は、敬虔な神学生ジャックとその従姉マリー・テレーズと出会います。ジャックの純粋さとは対照的に、「私」は言葉巧みにマリー・テレーズを誘い出し、強引に関係を持ってしまいます。この行為は、ジャックに「悪魔!」と呼ばしめ、「私」の人間性を決定づける出来事となります。

戦局が激化する中、「私」はゲシュタポとして、かつての友人であるジャックが拷問を受けている現場に遭遇します。信仰心ゆえに苦痛に耐え続けるジャックの姿を見た「私」は、嫉妬と狂気に駆られ、彼をさらなる苦痛へと追い込むことに快楽を見出すようになるのです。この展開は、「私」の堕落と人間の心の闇を深くえぐり出します。

そして、もう一つの物語「黄色い人」は、太平洋戦争下の日本、兵庫県仁川を舞台に始まります。主人公は、結核を患い余命を悟った日本人青年で、故郷に戻り静かに日々を過ごしています。彼はある日、かつて自分を洗礼したデュラン神父の日記を届けるため、手紙を書き始めるところから物語が動き出します。デュラン神父は、聖職の身でありながら日本人女性と愛し合い、教会を追放された人物でした。

『白い人・黄色い人』の長文感想(ネタバレあり)

遠藤周作の『白い人・黄色い人』を読み終えて、まず感じたのは、人間の心の奥底に潜む「悪」の根深さ、そしてそれに対する「信仰」の無力さ、あるいはその逆説的な強さといった複雑な感情でした。特に「白い人」の主人公の行動は、読者として目を背けたくなるような残酷さに満ちており、人間の精神が極限状況下でいかに変貌しうるかを突きつけられます。彼の幼少期の経験、特に母親による肉欲の抑圧が、後のサディスティックな嗜好へと繋がっていく過程は、心理的なリアリティを持って迫ってきます。性的な衝動と暴力が結びつく瞬間は、人間の持つ破壊的な一面を鮮やかに描き出しています。

主人公が神学生ジャックとその従姉マリー・テレーズに出会う場面は、彼の内面にある善悪の葛藤を象徴しているように感じられます。純粋なジャックと、彼を利用してマリー・テレーズを凌辱する主人公の対比は、まさに光と影。ジャックの「悪魔!」という叫びは、主人公だけでなく、読む私たち自身の心にも突き刺さります。それは、人間が持つ罪深い一面を指摘されているようでした。主人公は、自らの行動を正当化するのではなく、むしろその「悪魔的」な部分に酔いしれるかのように振る舞います。

ゲシュタポの一員となった主人公が、拷問を受けるジャックをさらに苦しめる場面は、この物語の最も衝撃的な部分の一つです。信仰によって苦痛に耐えるジャックの姿は、まるで殉教者のようであり、その対極に位置する主人公の悪魔性が際立ちます。なぜ彼は、かつての友をそこまで追い詰めるのか。それは、ジャックが持つ「信仰」という、彼には理解しがたい、しかし抗いがたい力への嫉妬と、それを破壊したいという衝動の表れではないでしょうか。この場面は、神を信じる者と信じない者、あるいは信じられない者が、いかにすれ違い、そして傷つけ合うかを描いているように思えます。

主人公の行動は、単なる悪意からくるものというよりも、むしろ彼自身の内なる虚無感や、自己の存在意義を見出せない苦悩の裏返しのように感じられました。彼は、ジャックの信仰心に触れることで、自分の中に何も確固たるものがないこと、つまり「空虚」であることに気づかされ、その苦痛から逃れるためにさらに残虐な行為に走ったのかもしれません。この「疲労に支配される」という描写は、彼の行動が彼自身をも蝕んでいることを示唆しており、罪悪感や自己嫌悪からの逃避という人間の弱さも同時に描かれているように感じます。

一方、「黄色い人」は、「白い人」とは異なる形で、信仰と人間のあり方を問いかけてきます。戦時下の日本という特殊な状況が、物語に独特の陰影を与えています。結核を患い余命を悟った日本人青年である主人公の視点を通して、デュラン神父という異色の人物が描かれることで、西洋のキリスト教と日本の土着的な精神風土との摩擦が浮き彫りになります。

デュラン神父の物語は、信仰と人間的な欲望の間の葛藤を象徴しています。聖職者としての誓いを破り、日本人女性キミコと愛し合った彼の姿は、既存の宗教の枠組みでは捉えきれない人間の複雑さを提示しています。「地獄に落ちる」と噂され、村人から疎まれる彼の姿は、キリスト教の教えが日本の社会でいかに異物として扱われうるかを示唆しているようにも思えました。しかし、彼の「ワタシ、ユルシテクダサイ」という言葉は、彼が自らの罪に苦しみ、同時に赦しを求めている人間の姿そのものです。

主人公の日本人青年とデュラン神父、そしてキミコの関係は、それぞれの信仰観や価値観が交錯する様を見事に描いています。主人公はクリスチャンとして洗礼を受けていながらも、「深い疲労」が心を満たす無神論に近い存在として描かれています。これは、戦時下の日本人が抱えていた、精神的な疲弊や価値観の喪失を象徴しているように思えました。彼の糸子に対する罪悪感の希薄さもまた、現代日本人にも通じる「無感覚さ」として、深く考えさせられる部分です。

キミコの存在は、日本の土着的な宗教観、特に仏教の寛容さを象徴しているように感じられます。「なんまいだを唱えれば仏さまの方が許してくれるんやで」という彼女の言葉は、原罪や告解という概念が希薄な日本の精神風土を端的に表しています。この言葉は、デュラン神父が抱える信仰の苦悩に対し、ある種の救いや安らぎを与えているようにも思えます。西洋のキリスト教と日本の仏教の対比は、遠藤周作が繰り返し問い続けてきたテーマであり、この作品においてもその核心が描かれています。

デュラン神父が最終的にキミコとの共同生活の中で一種の和解や赦しを見いだしていく過程は、非常に示唆に富んでいます。彼は教会の教義から離れ、人間的な感情と向き合うことで、新たな信仰の形を見出したのかもしれません。それは、形式的な信仰ではなく、人間同士の触れ合いの中にこそ真の赦しがあるという、遠藤のメッセージが込められているように感じられました。彼の苦悩と、そこからの解放は、読者に信仰とは何か、そして神は誰を救うのかという問いを投げかけます。

両作品を通して遠藤周作が問いかけるのは、まさに「神の存在意義」です。「白い人」では、極限の悪の中で神が沈黙しているかのように見え、それでもジャックは信仰を貫きます。一方、「黄色い人」では、信仰を失った者が救われるのか、異なる信仰が共存しうるのかという問いが提示されます。特に、有色人種と白色人種との差別観への抗議という視点は、当時の日本の時代背景を考えると、非常に斬新であり、遠藤の深い洞察力を示しています。

現代社会においても、異なる文化や宗教、価値観を持つ人々が共存する中で、いかにして互いを理解し、赦し合うかという問題は常に存在します。この作品は、そのような普遍的な問いを、人間の心の闇と信仰の光という対極的な要素を用いて、鮮やかに描き出しています。登場人物たちの苦悩や葛藤は、私たち自身の内面にも通じるものがあり、読後も深く心に残る作品です。遠藤周作の文学は、常に人間の弱さや醜さを直視し、それでもなお、その中に希望の光を見出そうとします。

本作は、人間が持つ「悪」の側面を決して美化することなく、しかしその根源を探ろうとする遠藤の真摯な姿勢が感じられます。そして、その「悪」の只中にあって、なおも信仰を問い続け、赦しを求める人間の姿を描くことで、読者に深い感動と、自己省察の機会を与えてくれます。キリスト教という普遍的なテーマを、日本人の精神風土というフィルターを通して描くことで、遠藤文学は国境を越え、多くの人々に共感を呼ぶのではないでしょうか。

まとめ

遠藤周作の『白い人・黄色い人』は、二つの短編を通して、人間の心の奥底に潜む「悪」と、それに抗い、あるいは同化していく「信仰」のあり方を深く探求した作品です。フランスを舞台にした「白い人」では、戦争という極限状況下で、主人公の残虐性が露わになり、信仰を持つ者との間で繰り広げられる葛藤が描かれます。彼の堕落は、人間の内なる闇を鮮烈に提示しています。

一方、日本を舞台にした「黄色い人」では、キリスト教と日本の土着的な精神風土との間に生じる摩擦や、信仰を失った者の苦悩が描かれます。デュラン神父と日本人青年、そしてキミコという登場人物たちの関係性は、異なる価値観が交錯する中で、いかにして赦しや救いを見出すかという問いを投げかけます。それぞれの物語は異なるアプローチを取りながらも、共通して「神の存在意義」という普遍的なテーマを追求しています。

本作が私たちに突きつけるのは、決して心地よい問いばかりではありません。人間の醜さ、残酷さ、そして無関心さといった側面を直視させられます。しかし、その中にこそ、信仰が持つ意味、そして人間が互いに赦し合うことの重要性が見えてくるのです。

『白い人・黄色い人』は、単なる物語の枠を超え、読者自身の内面と深く向き合うことを促す、重厚な読書体験となるでしょう。遠藤文学の真髄が凝縮されたこの一冊は、人間の本質、信仰、そして社会との関係性を深く考える上で、示唆に富む作品と言えます。