小説「水仙」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治の作品の中でも、特に芸術や才能、そして人間の複雑な心理が描かれた一作として知られています。読後、深く考えさせられる方も多いのではないでしょうか。

物語は、主人公である「僕」が、かつて読んだ菊池寛の小説『忠直卿行状記』を回想するところから始まります。この導入が、本作「水仙」で描かれる中心的な出来事と巧みに結びついていくのです。殿様と家来の関係性が、やがて「僕」とある女性との関係性に重なって見えてくる仕掛けになっています。

この記事では、まず「水仙」の物語の筋道を、結末まで含めて詳しくお伝えします。どのような登場人物がいて、どんな事件が起こり、どのような結末を迎えるのか、その全貌を明らかにします。「僕」と草田静子という女性を中心に、物語がどのように展開していくのかを追っていきましょう。

そして後半では、この物語を読んで私が抱いた思いや解釈を、たっぷりと語らせていただきます。なぜ静子はあのような行動をとったのか、「僕」の最後の行動の意味は何か、そして太宰治がこの作品に込めたメッセージとは何だったのか。ネタバレを含みますが、より深く「水仙」の世界を味わいたい方は、ぜひお付き合いくださいませ。

小説「水仙」のあらすじ

主人公の「僕」は、売れない小説家です。ある日、ふと二十年ほど前に読んだ菊池寛の『忠直卿行状記』という小説を思い出します。剣術の達人である若い殿様が、家来たちの「わざと負けてやっている」という陰口を聞いたことから疑心暗鬼に陥り、狂気じみた行動の末に破滅していく物語です。「僕」は、この殿様は本当に名人だったのではないか、家来たちの言葉は負け惜しみだったのではないか、と考えます。

この『忠直卿行状記』の記憶が、「僕」の身近で起きた出来事と重なります。「僕」にとっての「殿様」は、旧知の仲である名家・草田家の夫人、草田静子でした。草田家とは先代からの付き合いですが、「僕」は自身のひがみもあって、裕福な彼らを避けていました。しかし三年前、静子から突然「主人も私も、あなたの小説の読者です」と書かれた招待状が届き、有頂天になって訪問します。

その訪問の際、「僕」は静子の何気ない一言に深く傷つきます。しじみ汁の貝の実を食べていた「僕」に、静子が「そんなもの食べて、なんともありません?」と尋ねたのです。貧しい自分を侮辱されたと感じた「僕」は、二度と金持ちの家には行くまいと心に誓います。

それから二年半後、草田家の主人・惣兵衛が「僕」のもとを訪れます。静子が突然家出したというのです。静子の実家は数年前に破産しており、そのことを恥じていた静子は心を閉ざしがちになっていました。惣兵衛は彼女を慰めようと、近所の中泉画伯のもとで洋画を習わせることにします。

そこで周囲に「天才だ」と褒めそやされた静子は、本当に自分を天才だと信じ込み、「あたしは天才だ」と言い残して家を出てしまったというのです。惣兵衛は困惑しつつも、静子の絵には「本当に天才みたいなところもある」と語ります。「僕」は金持ち夫婦の馬鹿馬鹿しい騒動だと呆れますが、どこか引っかかるものを感じます。

三日後、当の静子が「僕」のアパートを訪れ、自分の描いた絵を見せようとします。しかし、かつての侮辱を忘れられない「僕」は、「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」と冷たく突き放してしまいます。その後、静子は赤坂のアパートで画学生たちを集めては、お世辞に酔いしれる日々を送っていると、惣兵衛からの手紙で知るのでした。

小説「水仙」の長文感想(ネタバレあり)

太宰治の「水仙」を読み終えたとき、胸に残るのは、なんとも言えない苦さと、人間の心の脆さに対する深い問いかけでした。芸術、才能、コンプレックス、そして富を持つ者と持たざる者の間に横たわる見えない溝。短い物語の中に、これほど多くのテーマが凝縮され、複雑に絡み合っていることに驚かされます。

物語は「僕」という売れない小説家の視点で語られます。「僕」は貧しさゆえの劣等感を抱え、裕福な人々に対して屈折した感情を持っています。特に草田家のような名家に対しては、羨望と同時に強い反発を感じている様子がうかがえます。この「僕」のひがみっぽさ、人間臭さが、物語にリアリティを与えているように思います。

一方の草田静子。彼女もまた、別の種類のコンプレックスを抱えています。名家の出身でありながら、実家が破産したという過去。それは彼女のプライドを深く傷つけ、心を閉ざす原因となったのでしょう。夫である惣兵衛は、彼女を理解しようと努める好人物として描かれていますが、それでも静子の心の奥底にある孤独感や焦燥感は埋められなかったのかもしれません。

そんな静子が、夫の勧めで始めた洋画にのめり込んでいく過程は、痛々しくも感じられます。周囲の人々、特に画伯や若い研究生たちからの「天才だ」という称賛。それは、傷ついた自尊心を回復させる甘美な響きだったのでしょう。しかし、その称賛が真実に基づいたものだったのか、それとも単なるお世辞や社交辞令だったのか、判然としないところがこの物語の肝です。

静子は、承認欲求を満たしてくれる「芸術」の世界に救いを求めます。そして、同じく芸術(小説)の世界に生きる「僕」に、ある種の共感や憧れを抱いたのではないでしょうか。「あなたは芸術家なんでしょう、私も芸術で生きたい」と「僕」のアパートを訪ねてくる場面は、彼女の切実な思いが伝わってくるようです。しかし、彼女の期待は裏切られます。

「僕」は、静子の訪問を素直に受け入れることができません。かつて受けた「侮辱」——しじみ汁の貝の実をめぐる一件——が、彼の心を頑なにしていました。そして、「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」という冷たい言葉を投げつけてしまうのです。この言葉は、静子に向けられたものであると同時に、「僕」自身の芸術や才能に対する諦念や、生活のために書いているという現実への自嘲も含まれていたのかもしれません。

この「僕」の言葉は、静子にとって決定的な打撃となります。彼女を甘やかしていた周囲とは違い、「僕」は彼女の「天才」という自己認識を真っ向から否定したのです。それは、ある意味で残酷な真実の告知だったのかもしれませんが、同時に、彼女が必死に掴もうとしていた蜘蛛の糸を切ってしまうような行為でもありました。

その後、静子から「僕」へ送られてくる手紙の内容は、胸を締め付けられます。「耳が聞こえなくなった」「雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞えませぬ」「いままでかいた絵は、みんな破って棄てました」。絶望と、自らの過ちへの気づき、そして「僕」という存在への複雑な感情が綴られています。この手紙を読んだ「僕」は、ようやく自らの言動が静子に与えた影響の大きさに気づき、後悔と不安に苛まれます。

ここで再び、『忠直卿行状記』の逸話が意味を帯びてきます。「僕」は、自分が静子にとって、忠直卿を狂わせた家来たちと同じ役割を果たしてしまったのではないか、と考え始めるのです。静子は本当に才能のない、おだて上げられただけの女性だったのか?それとも、本物の才能を持っていたにも関わらず、周囲の無理解や「僕」の心無い言葉によって、その才能を潰されてしまったのではないか?

この疑念は、「僕」を深く苦しめます。いたたまれなくなった「僕」は、静子のアパートを訪ね、筆談で彼女と対話します。その中で、「僕」は静子の中に本物の芸術家の魂、真の「天才」の片鱗を見るような気がしてきます。しかし、静子はもはや「僕」の言葉を受け入れようとはしません。彼女は、自らが作り上げた「天才」という幻想からも、そしておそらくは現実の苦しみからも逃れるように、心を閉ざしてしまったかのようです。

物語のクライマックスは、「僕」が中泉画伯のアトリエを訪ね、静子が描いた最後の水仙のデッサンを見る場面です。その絵は「すばらしい」ものでした。しかし、「僕」はその絵を一目見るなり、衝動的に引き裂いてしまいます。この行動は、様々な解釈が可能でしょう。静子の才能を目の当たりにして、それを否定してしまった自らの罪の意識からくる破壊衝動だったのか。あるいは、あまりにも純粋で美しい芸術を前にして、それを汚れた現実世界から守ろうとした行為だったのか。もしかしたら、生活のために妥協を重ねる自らの姿と、純粋な芸術を体現する静子の絵との対比に耐えられなかったのかもしれません。

結局、静子は夫のもとに戻った後、その年の暮れに自ら命を絶ってしまいます。この悲劇的な結末は、「僕」の中に消えない問いを残します。「忠直卿も事実素晴らしい剣術の達人だったのではあるまいか」「二十世紀にも芸術の天才が生きているかも知れぬ」。静子の死を通して、「僕」は芸術や才能というものの本質、そして真実を見抜くことの難しさを痛感するのです。

この物語は、単に芸術論を語っているだけではありません。人間関係における誤解やすれ違い、コンプレックスが引き起こす悲劇、そして言葉の持つ力の恐ろしさをも描いています。静子の周りの人々は、彼女の才能を軽々しく褒めそやしましたが、それは彼女を本当に理解していたからではなかったでしょう。そして「僕」は、自らの劣等感から発した言葉で、静子を深く傷つけてしまいました。

私たちは、他者の才能や苦悩を、本当の意味で理解することはできるのでしょうか。そして、無責任な言葉や思い込みによって、誰かを追い詰めてしまうことはないでしょうか。「水仙」は、そんな普遍的な問いを、読者に投げかけてくる作品だと思います。静子の悲劇は、決して他人事ではないのかもしれません。

まとめ

太宰治の「水仙」は、芸術と才能、そして人間の複雑な心理模様を描いた、深く考えさせられる短編小説です。物語の中心となるのは、売れない小説家の「僕」と、名家の夫人でありながら心の内に葛藤を抱える草田静子の関係です。

静子は実家の破産というコンプレックスから逃れるように洋画の世界にのめり込み、周囲に「天才」と持ち上げられますが、「僕」の厳しい言葉によってその脆い自己認識は打ち砕かれます。この出来事が引き金となり、物語は悲劇的な結末へと向かいます。静子の死は、「僕」の中に芸術や才能の本質、そして真実を見極めることの難しさについての問いを残します。

この作品は、単なる芸術論にとどまらず、コンプレックス、承認欲求、富裕層と貧困層の間の見えない壁、そして言葉が持つ影響力の大きさといった、現代にも通じる普遍的なテーマを扱っています。登場人物たちの心の揺れ動きや、繊細な心理描写は、読む者の心に強く響きます。

「水仙」を読むことで、私たちは他者との関わり方や、真実を見抜くことの重要性について、改めて考えさせられるのではないでしょうか。太宰治の洞察力が光る、忘れがたい一作と言えるでしょう。