小説「武州公秘話」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
本作は、文豪・谷崎潤一郎が描く、戦国時代を生きた一人の武将の、あまりにも特異な物語です。歴史の闇に葬られた「秘話」という体裁で語られるのは、武勇で名を馳せた男の、心の奥底に渦巻く倒錯した欲望。その欲望は、彼の生涯を根底から支配し、数奇な運命へと導いていくことになります。
グロテスクでありながら、どこか妖しいまでに美しい。そんな谷崎文学の真髄が凝縮された一作と言えるでしょう。この記事では、物語の筋を追いながら、その衝撃的な内容に深く分け入っていきます。なぜ主人公は、そのような歪んだ心を抱くに至ったのか。その執着が、どのような結末をもたらすのか。
物語の核心に触れる部分も包み隠さず記述していきますので、未読の方はご注意ください。しかし、この「秘話」の全貌を知ったとき、人間の心の深淵を覗き込んだような、忘れがたい読書体験が待っているはずです。それでは、倒錯と官能が織りなす「武州公秘話」の世界へ、ご案内いたしましょう。
小説「武州公秘話」のあらすじ
物語の舞台は、群雄割拠の戦国時代。のちに武州公・桐生武蔵守輝勝としてその名を知られることになる少年、法師丸は、敵対する筑摩氏の牡鹿城に人質として送られ、鬱屈した日々を送っていました。武士の子でありながら戦に参加することもできず、彼の胸には血腥い戦場への憧れと好奇心が募るばかりだったのです。
そんなある日、城の老女の手引きで、彼は固く禁じられた一室へと足を踏み入れます。そこは、討ち取った敵兵の首を洗い清め、検分のために飾り立てる「首装束」の場でした。薄暗い蝋燭の光に照らされた無数の生首。その異様な光景の中で、法師丸の目は、ある一つの首に釘付けになります。
それは、美しい顔立ちをしながらも、鼻が綺麗に削ぎ落とされた、異様な「女首」でした。若い女たちがその首を丹念に化粧する様を見た瞬間、十三歳の法師丸の心に、これまで経験したことのない、倒錯的としか言いようのない興奮と感動が雷のように突き刺さります。この体験が、彼の生涯を決定づける「呪い」の始まりでした。
この強烈な原体験は、臆病な人質の少年を、大胆不敵な行動へと駆り立てます。彼はその夜、城を抜け出し、驚くべき凶行に及ぶのです。この出来事を皮切りに、彼の武勇と倒錯は表裏一体となり、周囲の人間を巻き込みながら、物語はさらに奇怪で凄惨な展開を見せていくことになります。
小説「武州公秘話」の長文感想(ネタバレあり)
谷崎潤一郎という作家の底知れなさを改めて感じさせるのが、この「武州公秘話」という作品です。歴史物語の重厚な体裁を取りながら、その中で描かれるのは、人間の最も暗く、そして個人的な領域に属する「性」の倒錯。偽の軍記物語や手記を引用するという、いかにも谷崎らしい凝った構成で、私たちは一人の武将の「秘められた話」を覗き見ることになります。
物語の主人公、法師丸(後の武州公・桐生輝勝)が人質として送られた牡鹿城。そこは、彼にとって鬱屈と焦燥の場所でした。戦国の世に生まれながら、戦に参加できず、城の奥で無為な日々を過ごす。この閉塞感が、彼の内なる好奇心を異常な方向へと研ぎ澄ませていったのかもしれません。来る日も来る日も聞こえてくる戦の喧騒は、彼の心を掻き乱し、血への渇望を育てていきました。
その鬱屈が破裂するきっかけとなったのが、城の老女による禁断の場所への誘いです。彼女に導かれて法師丸が目撃したのは、薄暗い部屋で行われる「首装束」の儀式でした。討ち取られた敵の首を洗い、髪を結い、化粧を施す。死と生、醜と美が混濁するその光景は、谷崎特有の「陰翳礼讃」の世界そのものです。揺らめく光と影が、この世ならざる儀式の妖しさを際立たせています。
そして、運命の出会いが訪れます。数ある首の中で、法師丸の魂を鷲掴みにしたのが、鼻を削がれた「女首」でした。ここで言う「女首」とは、女性の首というわけではなく、おそらくは優美な顔立ちの若武者の首でしょう。その最も特徴的な部分である鼻が、無残にも削がれている。この究極の毀損と、それを慈しむかのように化粧を施す女たちの姿が、法師丸に強烈な衝撃を与えました。
この瞬間に、彼の倒錯は産声を上げます。無力な客体と化した首。その毀損された部分。そして、それを玩ぶかのような女性の手。この構図に、彼は言葉にしがたい性的興奮と羨望すら覚えたのです。特に「鼻の欠損」は、去勢の象徴とも解釈でき、彼のマゾヒスティックな欲望を極限まで刺激する要素でした。この覗き見た秘密の光景こそが、彼の生涯を貫くフェティシズムの原点となったのです。
単なる傍観者ではいられなくなった法師丸は、その夜、大胆な行動に出ます。城を抜け出し、敵である薬師寺勢の陣に単身忍び込むのです。これは、先ほど目撃した光景を、自らの手で「再現」したいという、抑えがたい衝動の発露でした。彼の目的は、敵将・薬師寺政高の命そのものよりも、その「鼻」にありました。
彼は見事に政高の寝首を掻き、その証として鼻を削ぎ取って持ち帰ります。この十三歳の少年による凶行は、彼の倒錯的欲望が、初めて現実世界で暴力として結実した瞬間でした。自分が体験したあの衝撃的な美を、自ら創り出し、所有したい。その純粋で歪んだ欲望が、彼を突き動かしたのです。
この手柄は、結果として牡鹿城を救い、法師丸は英雄として称賛されます。彼は元服し、桐生武蔵守輝勝と名を改め、一人の若武者として歩み始めます。しかし、その輝かしい武勇の根源には、誰にも理解されない暗い秘密が隠されていました。彼の英雄譚は、その始まりからして、個人的なフェティシズムの充足という、歪んだ動機に貫かれていたのです。
歳月が流れ、物語に新たな展開が訪れます。かつて輝勝が鼻を削いだ敵将・薬師寺政高の娘、桔梗の方が、政略結婚によって筑摩則重(牡鹿城主の嫡男)に嫁いでくるのです。この因縁深い結婚は、案の定、不吉な事件を引き起こします。祝言の後、夫である則重が、何者かによって執拗に鼻を狙われるようになるのです。
この不可解な事件の背後に、輝勝はすぐに桔梗の方の存在を嗅ぎつけます。父を殺され、その鼻を奪った輝勝への復讐心か。それとも、彼女自身もまた、輝勝と同じ暗い欲望を共有する人間だったのか。輝勝は、彼女が夫の鼻が同じように毀損されることを、心の奥底で望んでいると鋭敏に察知します。
ここに、世にもおぞましい「暗黒の同盟」が結ばれます。輝勝は、桔梗の方の秘められた願望を、自らの倒錯と重ね合わせ、彼女と共謀して則重の鼻を削ぐ計画を立てるのです。城内の厠が二人の密会の場所として使われたとも記されており、その不浄な空間が、彼らの禁忌に満ちた結びつきを象B徴しているかのようです。
そして計画は実行され、則重は鼻を失います。このグロテスクな共犯関係は、輝勝と桔梗の方の間に、通常の恋愛や信頼とは全く異なる、歪んだ絆を生み出しました。社会の規範から外れた秘密を共有することで成り立つ、暗い親密さ。この出来事を通して、輝勝は自らの倒錯が、他者と共有し、現実世界で具現化できるという確信を深めたに違いありません。
やがて父の跡を継ぎ、武州公となった輝勝は、松雪院という正室を迎えます。しかし、安定した結婚生活が彼の歪んだ心を癒すことはありませんでした。むしろ、その奇怪な性癖はますますエスカレートしていきます。彼は妻を自らの倒錯世界に引き込もうとしますが、貞淑な彼女には到底理解できるはずもなく、その試みはことごとく失敗に終わります。
妻への幻滅を深める一方で、武州公の執着は、より具体的な形で現れます。坊主の首で遊んだり、城内に自分のフェティシズムを満足させるための「首の博物館」のような空間を設けたりした、という記述さえあります。彼の快楽の源泉は、あくまでも「美女の手によって弄ばれる、鼻の欠けた醜い生首」に自身を投影することにあるのです。それは、究極のマゾヒズムと言えるでしょう。
しかし、この倒錯には、サディスティックな側面も存在します。彼は、かつて薬師寺政高や則重にしたように、他者を毀損し、自らのフェティッシュの対象へと変貌させることに、支配者としての喜びを感じていました。このマゾヒズムとサディズムの二面性が、武州公という人物像に、底知れない複雑さを与えているのです。
そして物語は、クライマックスへと向かいます。強大な戦国大名となった武州公は、かつて自らが人質として過ごした牡鹿城への侵攻を開始します。その動機は、領土的野心などではありませんでした。彼の目的はただ一つ、彼の倒錯の原点であり、そして今やその生きたフェティッシュの対象(鼻を削がれた則重)が幽閉されている、牡鹿城そのものを手中に収めることでした。
城は落ち、武州公はついに長年の執着の対象であった則重と対面します。しかし、ここで予期せぬ事態が起こります。かつての共犯者、桔梗の方の心変わりです。兎唇のようになった夫の無残な姿を目の当たりにした彼女は、かつての復讐心や倒錯的な興奮から完全に醒め、夫への深い同情と憐憫の情に目覚めるのです。彼女は貞淑な妻、慈愛深き母として、過去の罪を償うかのように生き始めます。
この桔梗の方の人間性への回帰は、武州公にとっては決定的な「裏切り」でした。彼の倒錯世界を唯一共有できたはずの相手が、彼岸へと去ってしまったのです。長年の野望を達成し、執着の対象を意のままにしたにもかかわらず、彼の心を満たしたのは、達成感ではなく、深い幻滅と孤独感でした。
物語は、武州公の華々しい勝利の物語としては終わりません。むしろ、その執着の果てにある虚しさを描き出して、どこか尻すぼみな印象すら与えます。彼の強烈な内的衝動とは裏腹に、それが具現化したところで、得られる充足感はあまりに希薄だったのです。結局、彼は生涯を通じて、少年時代に受けた「女首」の強烈な呪縛から、一瞬たりとも逃れることはできませんでした。彼の人生そのものが、あの最初の光景を繰り返し追い求める、終わりのない旅だったのです。
まとめ
谷崎潤一郎の「武州公秘話」は、一人の戦国武将の生涯を借りて、人間の心の最も暗い深淵を描き出した、他に類を見ない物語です。主人公・輝勝の人生は、少年時代に目撃した「鼻を削がれた首」という強烈な原体験によって、根底から方向づけられてしまいました。
彼の武勇伝とされる行為の数々は、実はその倒錯したフェティシズムを満たすための手段に過ぎませんでした。敵将の鼻を削ぎ、共犯者と共にその夫の鼻を毀損し、ついにはその執着の対象が住む城を攻め落とす。その全ての行動原理は、この極めて個人的で、誰にも理解されない欲望にありました。
しかし、長年の執着を成就させたとき、彼を待っていたのは完全な満足ではなく、深い幻滅と孤独でした。唯一の理解者であったはずの共犯者は人間的な情愛に目覚めて去り、彼は倒錯の世界に一人取り残されます。この結末は、飽くなき欲望の追求がいかに不毛であるかを、冷徹に示しているようです。
歴史物語の体裁を取りながらも、その本質は普遍的な人間の業と、抗いがたい欲望の悲劇を描いています。「武州公秘話」は、そのおぞましさと妖しい美しさで、読後に忘れがたい戦慄と問いを投げかけてくる、谷崎文学の傑作と言えるでしょう。