小説「接吻」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。江戸川乱歩といえば、探偵小説や怪奇・幻想的な作品で知られていますが、この「接吻」は少し毛色の違った、人間の心理、特に夫婦間の嫉妬や疑念に焦点を当てた物語なのです。

物語は、新婚ほやほやの主人公・山名宗三が、愛する妻・お花の不可解な行動を目撃するところから始まります。幸せなはずの新婚生活に忍び寄る影。一枚の写真が、夫婦の関係にさざ波を立て、やがて大きなうねりとなって宗三を翻弄していく様子が描かれています。

この記事では、まず物語の詳しい流れ、いわゆる「あらすじ」を、結末まで含めてお話しします。どのような出来事が起こり、宗三の心はどう揺れ動き、そしてどんな結末を迎えるのか。重要な展開にも触れていきますので、未読の方はご注意くださいね。

そして後半では、この物語を読んだ私の率直な思いを、たっぷりと語らせていただこうと思います。登場人物たちの心理描写、巧みなストーリー展開、そして読後に残る独特の余韻について、深く掘り下げていきます。ネタバレを避けたい方は、あらすじ部分を読み飛ばして、感想からお楽しみいただくことも可能です。

小説「接吻」のあらすじ

役所に勤める山名宗三は、結婚してまだ一ヶ月ほどの新婚です。美しい妻・お花との甘い生活に夢中で、毎日退勤時刻の午後四時が待ち遠しくてたまりません。ある日の帰り道、いつものようにお花を驚かせようと、こっそり家に入り茶の間の様子をうかがうと、信じられない光景を目にします。

お花が、長火鉢の前で一枚の写真に涙ぐみながら接吻していたのです。宗三がわざと大きな声で帰宅を告げると、お花は慌ててその写真を帯の中に隠し、動揺を隠せません。気まずい夕食の後、お花が物置へ行くのを宗三はこっそり見届けます。障子の穴から覗くと、お花は物置の正面にある箪笥の引き出しに、例の写真をしまうのでした。

深夜、お花が寝静まったのを確認した宗三は、物置へ忍び込みます。正面の箪笥の引き出しを開けると、そこには宗三の予感通り、上司であり、お花の遠縁でもある村山課長の写真が入っていました。村山はお花を宗三に紹介した人物であり、二人の仲人でもありました。同僚からは「上司のお下がりをもらった」などと陰口を叩かれることもあり、宗三は以前から複雑な思いを抱いていたのです。

写真の事実と、お花が結婚後も何かと理由をつけて村山家を訪れていたことを思い出し、宗三の嫉妬と怒りは頂点に達します。美しいお花と、容姿が良いとは言えない村山の妻を比べても、不安は募るばかり。宗三は悔しさと寒さで震えながら、一睡もできずに夜を明かしました。

翌朝、お花の差し出す弁当をひったくるように受け取り、宗三は無言で家を飛び出します。職場では、出勤してきた村山課長の姿を見るだけで腹が立ちます。やがて、書類の不備を理由に村山に呼び出され、いつものように嫌味な小言を言われると、宗三の怒りは爆発。大声で書類を奪い返すと、その場で「辞職願」を書き、課長の前に叩きつけて役所を飛び出してしまいます。

家に帰り着いた宗三は、お花に役所を辞めたこと、村山家への出入りを禁じること、そして昨夜の写真を引き渡すよう迫ります。訳が分からず呆気にとられるお花でしたが、やがて真相を察し、宗三を物置へ連れて行きます。そして、正面の箪笥の扉についている鏡を指差しました。昨夜、宗三が覗いた時、箪笥の扉がたまたま開いており、鏡には左側の箪笥が映っていたのです。宗三が見たのは、鏡に映った「左の箪笥に写真をしまうお花の姿」であり、実際に写真があったのは左の箪笥だったのです。そして、その写真はお花の宝物である、宗三自身の写真でした。お花が村山家へ通っていたのも、夫の出世を願ってのことだったと知ります。勘違いから職を失った宗三でしたが、妻が自分を深く愛してくれていた事実を知り、安堵と喜びを感じるのでした。

小説「接吻」の長文感想(ネタバレあり)

この「接吻」という物語、江戸川乱歩の作品群の中では少し異色な存在かもしれませんね。派手な殺人事件や奇怪なトリックが中心ではなく、ごく普通の夫婦の日常に潜む、心の闇、特に「嫉妬」という感情を深く掘り下げている点に、私は強く惹かれました。

物語の冒頭、主人公・宗三の新婚生活の描写が、まず印象的です。退勤時間が待ちきれず、愛する妻の待つ家へ飛んで帰る。玄関を開ければ、妻が兎のように飛び出してくるのでは、なんて想像して顔をほころばせる。そんな彼の浮かれ具合が、なんとも微笑ましく、読んでいるこちらも幸せな気分になります。この幸福感の描写があるからこそ、その後の展開がより際立つのですよね。

しかし、その幸せな日常は、妻・お花が写真に接吻している場面を目撃したことで、一瞬にして崩れ去ります。しかも、涙ぐみながら。このシーンの衝撃は大きいですね。読者も宗三と一緒に、何が起こっているのかと息をのみます。愛する人の不可解な行動、それは疑念と不安を生むには十分すぎる出来事です。

宗三が抱く嫉妬心、その描写がまた、実に生々しい。彼はすぐにお花を問い詰めることができません。気まずい夕食、隠れて妻の行動を探る姿、そして深夜、証拠となる写真を見つけ出すまでの行動。嫉妬に駆られた人間の、冷静さを失いつつも、どこか執念深い一面がよく描かれていると感じます。もし自分が同じ立場だったら、すぐに問いただしてしまうだろうか、それとも宗三のように、確たる証拠を掴むまで耐えるだろうか、と考えさせられました。

そして、その写真が上司の村山課長であった、という事実。これがまた、宗三の心を深くえぐるのですね。全く知らない相手ならまだしも、自分たちの仲人であり、妻の遠縁でもある人物。しかも、日頃から仕事で嫌味を言われ、同僚からは陰口を叩かれる対象。宗三の劣等感や鬱屈した感情が、嫉妬と結びついて、抑えきれない怒りへと変わっていく過程は、読んでいて苦しくなるほどです。

村山課長という存在も、物語に深みを与えています。仕事はできるが神経質で小言が多い、という人物像。宗三にとっては、単なる上司以上に、自身の境遇や不満を象徴するような存在なのかもしれません。彼への反発心が、最終的に辞職という衝動的な行動に繋がっていくわけですが、その気持ちも、分からなくはない、と思ってしまうのです。

宗三が役所で怒りを爆発させ、辞職願を叩きつける場面。これは、彼の溜まりに溜まった不満が一気に噴出した瞬間ですね。日々の単調な仕事、安い給料、上司への屈従。そういった日常への絶望感が、妻への裏切り(と思い込んでいる)という引き金によって、暴発してしまった。後先考えない行動ではありますが、彼の人間らしい弱さや衝動性が表れている場面とも言えるでしょう。

物語のクライマックス、真相が明らかになる場面の鮮やかさには、やはり唸らされました。鏡のトリック。物置の薄暗さ、二つのよく似た箪笥、そしてたまたま開いていた鏡付きの扉。これらの要素が重なり合って、宗三の勘違いを生んだ。この解決は、ミステリ的な驚きを与えてくれます。昨夜の宗三の視点と、お花が示す真実が対比され、一気に視界が開けるような感覚がありました。

ただ、このトリック、本当にただの偶然だったのでしょうか? ここが、この物語の面白いところであり、読後に深い余韻を残す要因だと思うのです。参考にした文章でも触れられていましたが、もしかしたら、この鏡のトリック自体が、お花の咄嗟の嘘、あるいは計算された言い訳だったのではないか…? そう考えると、物語は全く違った様相を呈してきます。

お花というキャラクター。無邪気でよく笑い、夫の出世を願って甲斐甲斐しく動く、健気な妻。物語の表面上は、そう見えます。しかし、もし彼女が、村山課長への想いを隠すために、鏡のトリックという絶妙な嘘をついたとしたら? 宗三を安心させるために、彼の写真を持ち出し、「あなたの写真を見ていたのよ」と言ったとしたら? そう考えると、彼女はとんでもない「悪女」ということになります。

江戸川乱歩は、この結末を「リドル・ストーリー」として提示しています。つまり、明確な答えを与えず、解釈を読者に委ねるのです。お花は本当に潔白だったのか、それとも巧みに嘘をつき通したのか。どちらの可能性も否定できない。この曖昧さが、読者を惹きつけ、考えさせる。「女は表面何も知らない顔をしていても、心の底には陰険が巣食っている」という一文が、読者の心に引っかかり続けるのです。

私は、個人的には、お花は潔白であってほしい、と願ってしまいます。宗三の勘違いによって職を失い、それでも夫を愛し続ける健気な妻であってほしい。しかし、そう信じようとすればするほど、「もし違ったら?」という疑念が頭をもたげてくる。この揺らぎこそが、この作品の醍醐味なのかもしれません。

嫉妬という感情は、誰の心にも潜む普遍的なものです。愛するが故に疑い、不安になり、時には相手を傷つけ、自分自身をも破滅に向かわせることさえある。この物語は、そんな嫉妬の恐ろしさと、それが引き起こす悲喜劇を、見事に描き出していると思います。宗三の行動は軽率だったかもしれませんが、彼の心の動きには、共感できる部分も多いのではないでしょうか。

また、当時の社会背景、例えば役所勤めの息苦しさや、家父長制的な結婚観なども、物語にリアリティを与えています。夫の出世のために、妻が上司の家へ通う、といった描写は、現代から見ると少し違和感があるかもしれませんが、当時の価値観の中では自然なことだったのかもしれません。そういった時代性も考慮に入れると、物語の解釈はさらに深まります。

「接吻」というタイトルも、実に示唆的です。お花が写真にした接吻が、全ての始まりでした。それは、夫への愛の証だったのか、それとも秘めたる想いの表れだったのか。そして、物語の最後、真実(とされるもの)を知った宗三が感じる安堵と喜びは、ある意味で、彼がお花との精神的な「接吻」を取り戻した瞬間とも言えるのかもしれません。しかし、その口づけの裏に、別の真実が隠されている可能性も…。

読後、心に残るのは、一種のもやもやとした感覚と、人間心理の複雑さに対する深い問いかけです。単純な勧善懲悪ではない、白黒つけられない人間の心の機微。それを短い物語の中に凝縮させた、江戸川乱歩の手腕に改めて感嘆します。派手さはないけれど、じっくりと味わい深い、記憶に残る一作だと感じました。

まとめ

江戸川乱歩の「接吻」は、新婚夫婦の間に生じた嫉妬と疑念、そして意外な結末を描いた物語です。主人公の宗三が、妻お花の不可解な行動から上司との関係を疑い、衝動的に職を辞してしまうまでの心の揺れ動きが、リアルに描かれています。

物語の核心は、お花が接吻していた写真の真相と、それを巡る勘違いにあります。物置の鏡を使ったトリックによって、宗三の疑いは晴れ、妻の深い愛情を知ることになります。このどんでん返しは、ミステリとしての面白さも感じさせてくれます。

しかし、この物語は単純なハッピーエンドではありません。鏡のトリックは本当に偶然だったのか、それともお花の計算だったのか…? 結末は読者の解釈に委ねられており、そこが本作の大きな魅力となっています。お花の真意について考えると、物語は何通りもの顔を見せるのです。

「接吻」は、人間の嫉妬という感情の恐ろしさや複雑さ、そして夫婦関係の危うさや脆さをも描き出しています。短い物語ながら、読後に深い余韻と考察の楽しみを残してくれる、味わい深い作品と言えるでしょう。