小説「惜別」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治が描く、若き日の魯迅の物語。そこには、単なる伝記小説という枠を超えた、太宰自身の葛藤や、時代への問いかけが込められているように感じられます。
本作は、太平洋戦争末期という特殊な状況下で、内閣情報局と日本文学報国会からの委嘱を受けて書かれた、いわゆる「国策小説」という一面を持っています。そのため、発表当初から様々な評価を受けてきました。ある人は戦争協力だと批判し、またある人は太宰文学の異色作として捉えています。
しかし、そうした背景を知った上で読むと、かえってこの作品の奥深さが見えてくるのではないでしょうか。なぜ太宰はこの題材を選んだのか。魯迅という人物を通して、何を語ろうとしたのか。単に「国策」というレッテルだけで片付けてしまうには、あまりにもったいない魅力が、この「惜別」にはあるのです。
この記事では、まず物語の詳しい流れを追い、その上で、作品が持つ多層的な意味合いや、私が抱いた個人的な思いを、ネタバレを気にせずに詳しく語っていきたいと思います。一緒に「惜別」の世界を深く味わってみませんか。
小説「惜別」のあらすじ
物語は、東北の片田舎で開業医をしている「私」が、戦時下に記者から取材を受ける場面から始まります。記者は、「私」が学生時代に仙台医学専門学校(仙台医専)で同級生だった周樹人、後の文豪・魯迅との交流を、日中友好の美談として記事にしようとします。しかし、「私」はそのような単純化された見方に違和感を覚え、自らの手で真実の思い出を書き残そうと決意します。
時間は遡り、「私」の学生時代。津軽の田舎から出てきた「私」は、自身の強い訛りに劣等感を抱き、授業にも身が入りません。ある日、授業を抜け出して松島へ足を延ばした際、ひとりの清国人留学生と出会います。それが周樹人でした。物静かながらも芯の強さを感じさせる周さんに、「私」は次第に惹かれていきます。
周さんは、解剖学の担当である藤野先生を深く尊敬していました。藤野先生は、留学生である周さんに対しても分け隔てなく、むしろ丁寧に指導してくれる篤実な人物でした。「私」もまた、藤野先生の人柄に触れ、周さんと先生、そして「私」の三者の間には、穏やかで温かい交流が生まれていきます。
夏休みが近づいた頃、周さんは「私」に自身の胸の内を明かします。故郷である中国では、旧態依然とした儒学や非科学的な漢方医学が人々の精神を蝕んでいること。そして、西洋医学を学び、その知識で祖国の人々を肉体的に救うことを通して、科学的な思考を目覚めさせ、国の近代化に貢献したいという熱い思いを語るのでした。
しかし、夏休みが明けると、周さんの様子に変化が見られました。以前のような医学への情熱が感じられません。心配した「私」が尋ねると、周さんは夏休み中に東京で見た他の清国人留学生たちの姿に失望したと語ります。彼らが、祖国のための革命運動に身を投じるのは良いとしても、その手段として奇妙なダンスを踊り、活動資金を集めている浅薄さに耐えられなかったのです。周さんは、「私」に「少し文学をやりたい」と漏らします。
そして決定的な出来事が起こります。翌年の春、細菌学の授業中に「幻燈」が映し出されました。それは、日露戦争中にロシア軍のスパイとして捕らえられた中国人が、日本軍によって処刑される場面でした。さらに衝撃的だったのは、処刑される同胞を、周りの多くの中国人たちが無表情でただ眺めている光景でした。この「幻燈事件」を目の当たりにした周さんは、肉体の病よりも、まず救わなければならないのは、この麻痺した「精神」なのだと痛感します。医学では精神の蒙を啓くことはできない。必要なのは文学なのだ、と。
周さんは医学の道を断念し、文学によって祖国の人々の精神を пробудить(呼び覚ます)ことを決意します。そして、別れを惜しむ藤野先生や「私」に見送られながら、仙台を去り、祖国へと帰っていくのでした。「私」の回想はここで終わります。最後に、この手記を発見した語り手(太宰自身を思わせる人物)による短いあとがきが付され、物語は幕を閉じます。
小説「惜別」の長文感想(ネタバレあり)
太宰治の「惜別」を読むたびに、私は複雑な気持ちになります。この作品が持つ背景、つまり太平洋戦争末期に国の依頼で書かれたという事実を抜きにして、純粋な文学作品としてだけ向き合うことは、なかなか難しいからです。しかし、その「国策」という側面を意識するからこそ、かえって太宰治という作家のしたたかさや、苦悩、そして文学に託した祈りのようなものが浮かび上がってくるように思うのです。
まず、この作品が「国策小説」として書かれた経緯について触れないわけにはいきません。「大東亜共同宣言」の理念を文学作品で表現するという国家的な要請。太宰は「独立親和」というテーマを与えられ、若き日の魯迅が仙台で医学を学んだ時代を描くことを選びました。太宰自身、「『惜別』の意圖」という文章の中で、「中國の人をいやしめず、また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもり」であり、「百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖」があると述べています。
この言葉を額面通りに受け取るならば、太宰は本気で文学の力によって日中関係の改善を願い、この作品を書いたということになります。しかし、当時の状況を考えると、どこか割り切れない思いも残ります。敗色が濃厚になりつつあった戦時下で、本当にそのような純粋な動機だけで筆を執ることができたのでしょうか。資料によれば、太宰はこの委嘱を受ける前から周到に準備を進めており、自身に白羽の矢が立つことを予期していた節もあります。もしかしたら、この国家的な依頼を逆手に取り、検閲をくぐり抜けながら自身の文学的主張や国家観を表明する、一種の「時局逆便乗」を狙っていたのではないか、とも勘繰りたくなります。
作中で周樹人に語らせる言葉には、明らかに太宰自身の思想が色濃く反映されています。例えば、日露戦争に勝利した日本の状況について、「日本人の愛国心は無邪気過ぎる」と評する場面があります。これは、当時の日本の狂信的な国家主義に対する、太宰なりの間接的な批判と読むこともできるでしょう。また、周さんが東京で見た革命運動に傾倒する留学生たちの軽薄さを嘆く場面は、太宰自身の文学や社会に対する潔癖さ、あるいはある種の理想主義の表れとも解釈できます。
魯迅研究の専門家からは、この作品における魯迅像が史実と異なる、あるいは太宰の理解が浅いといった批判が多くなされてきました。確かに、作中の周樹人は、私たちが知る後の文豪・魯迅のイメージとは少し異なり、内向的で感傷的な、いかにも太宰作品に登場しそうな青年として描かれています。周さんの語る言葉も、時折、魯迅自身のものというよりは、太宰自身の声のように聞こえる瞬間が多々あります。
しかし、太宰は歴史家ではなく、小説家です。彼が目指したのは、魯迅の正確な伝記を書くことではなく、魯迅という素材を借りて、ひとりの若い知識人が異国の地で経験する苦悩、葛藤、そして自己発見の物語を描くことだったのではないでしょうか。語り手を「私」という架空の同級生に設定し、回想形式をとっていることも、史実からの自由度を確保するための戦略だったのかもしれません。太宰は「あとがき」で、この作品は「醫学徒の頃の魯迅」を描いたものであり、「小説」なのだと断っています。彼は、歴史的事実の再現よりも、文学的な真実を追求しようとしたのだと私は考えます。
そうした視点で見ると、作中の周樹人は、太宰自身の分身としての側面を強く帯びてきます。故郷の因習や無知蒙昧に対する憤り、西洋近代科学への憧れと限界の認識、そして最終的に文学に活路を見出す過程は、太宰自身の文学的出発点や、常に抱えていたであろう社会への違和感、人間存在への問いと重なって見えるのです。周樹人が「幻燈事件」をきっかけに医学を捨てる場面は、単なるエピソードではなく、太宰自身の文学への覚悟表明のようにも読めます。
そして、この物語のもう一つの核となるのが、藤野先生との関係です。周樹人にとって、藤野先生は単なる恩師以上の存在でした。異国からの留学生である自分を偏見なく受け入れ、熱心に指導してくれたばかりでなく、人間的な温かさをもって接してくれた人物。周さんが仙台を去る際に、藤野先生が写真の裏に「惜別」と書いて手渡す場面は、何度読んでも胸が熱くなります。この師弟の間の純粋で誠実な交流は、国家や民族といった垣根を超えた人間同士の結びつきの尊さを静かに示しており、太宰が「独立親和」というテーマに対して出した、ひとつの文学的な回答だったのかもしれません。
藤野先生の存在は、周樹人(そして太宰)が日本に対して抱いていた複雑な感情を象徴しているようにも思えます。一方では、軍国主義的な側面や、無自覚な優越感に対する批判的な視線を持ちながらも、他方では、藤野先生のような誠実で心優しい人々がいることも知っている。だからこそ、単純な憎しみや絶望に陥ることなく、より良い関係性を模索しようとする。「惜別」というタイトル自体が、単なる別れだけでなく、そうした複雑な思いを含んだ、深い感情を表しているのではないでしょうか。
この作品は、他の太宰作品、例えば「人間失格」や「斜陽」などと比べると、文体や構成がやや硬質で、自由奔放さに欠ける印象を受けるかもしれません。それはやはり、「国策」という枠組みや、膨大な資料に基づいて物語を構築しなければならなかったという制約が影響しているのでしょう。太宰自身も、いつものように右脳全開で書いたというよりは、左脳主体で論理的に組み立てていった側面があったのかもしれません。しかし、その制約の中で、太宰は魯迅の「藤野先生」というテクストを巧みに利用し、自身の思想や感情を織り込んでいくという離れ業をやってのけています。
特に、語り手を「私」という東北の老医師に設定した点が秀逸です。朴訥とした語り口は、物語にリアリティと温かみを与えると同時に、太宰自身の直接的な主張を和らげる効果も生んでいます。「私」というフィルターを通して語られることで、周樹人の言葉や行動は、より客観的で普遍的な響きを持つようになるのです。戦時下の東北の田舎町で、空襲警報を聞きながら四十年前の思い出を綴る、という導入部も、作品に独特の陰影と深みを与えています。
発表当時、竹内好や武田泰淳といった、太宰文学を愛し、かつ中国文学にも造詣の深い人々がこの作品に失望したという事実は、重く受け止める必要があります。彼らにとって、太宰が描いた魯迅像は受け入れがたいものだったのでしょうし、国策に協力したという側面も許しがたいものだったのかもしれません。しかし、時代を経て、私たちがあらためて「惜別」を読むとき、単なる「失敗作」や「汚点」として切り捨てるのではなく、その複雑な成り立ちと内容を、より多角的に評価する必要があるのではないでしょうか。
むしろ、この作品は、戦争という極限状況下で、文学者が国家や社会とどう向き合うかという、普遍的な問題を私たちに突きつけているように思えます。太宰は、安易な戦争賛美に陥ることなく、かといって完全に沈黙するのでもなく、与えられた状況の中で、ぎりぎりの選択としてこの作品を書いたのではないでしょうか。その選択が正しかったかどうかは別として、彼の文学者としての矜持と苦悩が、行間から滲み出ているように感じるのです。
そして、「惜別」が問いかけるものは、過去の戦争の時代だけに留まりません。「日本人の愛国心は無邪気過ぎる」という言葉は、現代の私たちにも響いてくるものがあります。国家とは何か、民族とは何か、そして個人はその中でどう生きるべきか。周樹人が直面した問いは、形を変えながらも、現代社会に生きる私たち自身の問いでもあるのです。医学(科学)の限界と文学(精神)の可能性というテーマもまた、現代においてますます重要性を増しているように感じられます。
太宰治の「惜別」は、読むたびに新しい発見と問いを与えてくれる、非常に奥行きの深い作品です。国策小説という側面、魯迅像の解釈、藤野先生との感動的な交流、そして太宰自身の思想の投影。これらの要素が複雑に絡み合い、独特の読書体験をもたらしてくれます。賛否両論ある作品ではありますが、だからこそ、じっくりと向き合い、自分なりの読み方を見つける価値がある。そう私は強く思います。
まとめ
太宰治の「惜別」は、若き日の魯迅が仙台医学専門学校で過ごした日々を、同級生だったという架空の老医師「私」の視点から描いた作品です。物語は、周樹人(魯迅)が医学を志して来日し、恩師となる藤野先生や「私」と出会い、交流を深める中で、次第に自身の進むべき道を見出していく過程を追っていきます。
この作品は、太平洋戦争末期に国の委嘱を受けて書かれたという特殊な背景を持っています。そのため、作中には当時の時代状況を反映した描写や、太宰自身の国家観、日中関係に対する思いなどが色濃く表れています。単なる伝記小説としてではなく、太宰が置かれた状況や彼の意図を読み解こうとすることで、作品の持つ複雑な意味合いがより深く理解できるでしょう。
魯迅像の解釈や、国策小説としての評価については様々な意見がありますが、藤野先生との心温まる師弟関係や、「幻燈事件」をきっかけに文学の道へと転向していく周樹人の内面の葛藤は、読む者の心を打ちます。それは、太宰自身の文学への思いや、人間存在への問いかけとも重なる部分があるからです。
「惜別」は、太宰文学の中でも異色の作品とされながらも、国家と個人、異文化理解、知識人の役割といった普遍的なテーマを内包しています。賛否両論あるからこそ、先入観を持たずに作品そのものに向き合い、自分自身の声で語りかけてくるものを感じ取ってみてはいかがでしょうか。きっと、単なるあらすじや評価だけでは分からない、深い感動と考察のきっかけを与えてくれるはずです。