小説「怪笑小説」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏といえば、緻密なミステリーの書き手として名を馳せていますが、この短編集では少々、いや、かなり毛色の違う一面を覗かせています。人間の滑稽さ、愚かさ、そしてちょっぴり物悲しい性を、皮肉たっぷりに描き出しているのです。
収録されているのは、いずれも一癖も二癖もある物語ばかり。日常に潜む小さな狂気、あるいは非日常的な状況下での人間の奇妙な振る舞い。それらを、東野氏独特の冷静な筆致で切り取っています。笑えるかと問われれば、まあ、そうかもしれません。しかし、その笑いは乾いた、どこか醒めた種類のものでしょう。心温まる物語を期待する方には、少々刺激が強いかもしれませんね。
この記事では、そんな「怪笑小説」の物語の顛末、そして私が抱いた個人的な見解を、少々長くなりますが語らせていただきます。読み進めるうちに、あなたもこの歪んだ笑いの世界の虜になる…かもしれませんよ。まあ、保証は致しかねますが。
小説「怪笑小説」のあらすじ
「怪笑小説」は、それぞれ独立した九つの短編から構成される作品集です。共通するのは、人間の持つ奇妙な一面や、日常に潜むブラックな笑いを描いている点でしょうか。ミステリーの旗手として知られる東野圭吾氏が、その鋭い人間観察眼を異なる角度から発揮した意欲作と言えるでしょう。
例えば、「鬱積電車」では、朝の満員電車という閉鎖空間で、乗客たちが内心で抱く他人への不満や怒りが、あるアクシデントによって表面化するかもしれない、という寸止めのような状況を描きます。また、「おっかけバアさん」は、老境に至ってアイドルの追っかけにのめり込み、生活のすべてを捧げてしまう女性の姿を、やや戯画的に、しかしどこか物悲しく描き出します。
さらに、「一徹おやじ」は、かの有名なスポ根漫画へのオマージュでありつつ、その情熱が予想外の方向へ暴走する様を滑稽に描写。「しかばね台分譲住宅」では、自宅の資産価値を守るためなら死体遺棄も厭わない住民たちの、常軌を逸した隣人戦争が繰り広げられます。
その他にも、UFOの正体を巡る奇妙な論争「超たぬき理論」、無人島での異様なサバイバル「無人島大相撲中継」、若返りの手術を受けた老人の悲哀「あるジーサンに線香を」、そして他人が動物に見える少年の孤独を描く「動物家族」など、多彩な物語が収められています。いずれも、人間の可笑しさと哀しさが表裏一体となった、一筋縄ではいかない物語ばかりです。
小説「怪笑小説」の長文感想(ネタバレあり)
さて、ここからは「怪笑小説」各編について、物語の核心に触れつつ、私の個人的な見解を述べさせていただきましょう。東野圭吾氏が仕掛けた、この歪で、しかし妙に人間臭い笑いの罠について、じっくりと語っていこうではありませんか。
まず「鬱積電車」。これは、現代社会の縮図とも言える満員電車を舞台にした、心理劇ですね。誰もが一度は感じたことのあるであろう、見知らぬ他人への小さな苛立ちや不快感。それが、登場人物たちのモノローグとして赤裸々に綴られていきます。無理やり座席に割り込む肥満体の男、香水の匂いを撒き散らす女、大声で電話するビジネスマン…。彼らの内心の毒舌は、実にリアルで、思わず苦笑してしまいます。そして最後の最後、主人公が開発した「自白ガス」が漏れ出すかもしれない、という不穏な結末。この後、車内がどうなるのか。想像するだけで、背筋が少し寒くなります。人間の本音が解放された時、そこには一体どんな光景が広がるのか。東野氏は、あえてそれを描かないことで、読者の想像力を掻き立てます。実に意地の悪い、しかし見事な幕引きと言えるでしょう。この作品を読むと、毎日の通勤電車が少し違って見えるかもしれませんね。隣の乗客も、内心では何を考えているのやら…。
次に「おっかけバアさん」。年金暮らしの老婆が、若手アイドルに熱狂し、生活の全てを捧げていく。この設定自体、現代にも通じるものがあります。推し活、という言葉が一般的になった今、その熱狂ぶりは決して他人事ではないかもしれません。しかし、この物語の老婆の行動は、常軌を逸しています。食費を切り詰め、家財を売り払い、果ては犯罪まがいの行為にまで手を染めようとする。その姿は、滑稽であると同時に、痛々しくもあります。何かに熱中できることは素晴らしいことかもしれませんが、それが自己破滅に繋がるのなら、本末転倒というものでしょう。老婆が最終的にどうなったのか、明確には描かれていませんが、栄養失調で倒れた後、それでもアイドルの元へ向かおうとする姿は、執念というよりは、もはや狂気です。しかし、なぜ彼女はそこまでのめり込んだのか。孤独な老後、満たされない心、そういった背景を考えると、一概に笑い飛ばすこともできません。人間の承認欲求や、何かへの依存心の恐ろしさを、この物語は突きつけてきます。
「一徹おやじ」。これは明らかに「巨人の星」へのオマージュですね。息子を一流のプロ野球選手にするために、全てを捧げる父親。その熱血指導ぶりは、元ネタを知っていればいるほど、笑いを誘います。ちゃぶ台返しならぬ、食卓ごと投げ飛ばすシーンなど、過剰な描写がいちいち面白い。しかし、物語は単なるパロディでは終わりません。必死の努力が実を結び、息子がドラフト指名を目前にした時、彼は野球ではなく、別の道を選んでしまう。しかも、その理由が「愛しの彼を追いかける」ため、という予想外の展開。父親の落胆ぶりたるや、想像に難くありません。しかし、娘の反応を見ると、この結末もまた、一つの幸せの形なのかもしれない、と思わせられます。旧態依然とした価値観に固執する父親の姿は滑稽ですが、その純粋なまでの情熱には、どこか憎めないものも感じます。時代の変化と、多様な生き方を、コミカルに描いた一編と言えるでしょう。東野氏の引き出しの多さを感じさせます。
「逆転同窓会」。これは、少々耳の痛い話かもしれません。かつて優秀だった教え子たちを招き、同窓会を開く元教師たち。しかし、彼らは現代社会で活躍する教え子たちの話題に全くついていけず、自分たちの価値観の古さを露呈してしまいます。変化を拒み、過去の栄光にすがる老人たちの姿は、皮肉たっぷりに描かれています。教育者であったはずの彼らが、最も社会の変化から取り残されている、という構図は、実に痛烈です。最後に、教え子の一人が高校教師になっていることを知り、生気を取り戻す教師たちの姿も、どこか滑稽で物悲しい。彼らは結局、自分たちの理解できる範囲の世界でしか、安心立命できないのかもしれません。この作品は、世代間のギャップや、変化に対応できない人間の悲哀を描いており、読者によっては不快感を覚えるかもしれません。しかし、それもまた、東野氏の狙いなのでしょう。心地よいだけの物語ばかりが、文学ではありませんからね。
「超たぬき理論」。これは、本作の中でも特に奇想天外な一編でしょう。「UFOの正体はタヌキである」という、荒唐無稽な説を巡って、二人の男が大真面目に議論を戦わせる。その論理(?)展開は、馬鹿馬鹿しいと分かっていながらも、妙な説得力があります。「文福茶釜」を引き合いに出し、タヌキの持つとされる変身能力や超能力を根拠に、UFO現象を説明しようとする空山一平の熱弁は、圧巻ですらあります。対する大矢真の常識的な反論も、空山の奇説の前では霞んでしまう。この不毛な論争に、学術的な体裁を整えようとする周囲の人間たちもまた、滑稽です。科学や常識といったものが、いかに脆い土台の上に成り立っているのか。あるいは、人間は自分が信じたいものを、いかに都合よく解釈する生き物なのか。そんなことを考えさせられます。純粋に、その馬鹿馬鹿しさを楽しむのが、この作品の正しい嗜み方なのかもしれません。くだらない、実にくだらない。だが、それがいい、と思わせる魅力があります。
「無人島大相撲中継」。豪華客船の火災事故で無人島に漂着した人々。極限状況の中で、唯一の娯楽となったのは、過去の大相撲の取り組みを全て記憶し、ラジオのように実況できる男、徳俵庄ノ介の「中継」でした。彼の語る熱戦の様子は、食料も乏しい無人島での生活に、一時の興奮と潤いを与えます。しかし、物語が進むにつれて、人々は彼の「中継」に依存し、勝敗の結果を求めるようになります。そして、結末を語ろうとしない徳俵に対し、人々は「ラジオが壊れた」と言って、彼を物理的に「叩く」のです。人間の身勝手さ、娯楽への渇望、そして集団心理の恐ろしさが、この短い物語の中に凝縮されています。最初は神のように崇められた男が、最後には壊れた道具のように扱われる。その落差は、強烈な皮肉です。生きるか死ぬかの状況下でも、人間は娯楽を求め、そして飽き足らなくなると、与えてくれる存在を破壊する。これは、現代社会におけるメディアやエンターテイメントとの向き合い方にも通じる、普遍的なテーマを孕んでいるように思えます。徳俵の孤独と、彼を取り巻く人々の愚かさが、胸に迫ります。
「しかばね台分譲住宅」。これは、本作の中でも特にブラックな味わいの強い一編です。ある朝、自分の家の前に包丁が刺さった死体が転がっているのを発見した住民。彼らがまず考えたのは、事件の解決ではなく、「自宅の資産価値が下がる」ことでした。そして、警察に通報する代わりに、隣接するライバル住宅地「黒が丘タウン」に死体をこっそり捨てに行く、という行動に出ます。しかし、翌日には死体が投げ返され、そこから二つの住宅地の間で、死体の押し付け合いという、陰惨極まりない「戦争」が始まるのです。人間のエゴイズム、地域間の対立、そして事態がエスカレートしていく様が、淡々とした筆致で描かれることで、逆に不気味さが際立ちます。最終的に、この死体の押し付け合いが「コーベ(頭)を押し付け合う」年に一度のフットボール大会へと変貌していく、という結末は、もはや悪夢的ですらあります。常識や倫理観が、いとも簡単に崩壊していく過程は、読んでいて寒気を覚えるほどです。この作品は、まるで冷たい刃物のように、人間の心の奥底にある醜悪さを抉り出してきます。 比喩を使うなら、この一編はまさにそれでしょう。笑うに笑えない、後味の悪い物語ですが、人間の本質の一端を突いているという意味では、強烈な印象を残します。
「あるジーサンに線香を」。他の作品とは少し毛色が異なり、SF的な要素を含んだ、切ない物語です。孤独な老人が、試験的な若返りの手術を受け、一時的に20代の肉体を取り戻す。彼は、これまで知らなかった世界の輝き、若さの素晴らしさを満喫します。新しい服を買い、画廊を訪れ、生きる喜びに満たされる。しかし、その若さは永遠ではありません。ピークを過ぎると、急速な老化が再び彼を襲い、以前にも増して死への恐怖を強く感じるようになるのです。「こういう世界があることを知れただけでも、若返った価値がある」と感じた幸福感と、「死が一気に怖くなる」という絶望感。この対比が、非常に残酷です。知らなければよかったのか、それとも、一瞬でも輝きを知ることができたのは幸せだったのか。答えは簡単には出ません。人生の意味や、老いと死という普遍的なテーマについて、深く考えさせられる一編です。他の短編のような直接的な「笑い」はありませんが、人生の皮肉、という点では、共通するものを感じます。読後、静かな余韻が残る作品です。
最後に「動物家族」。これは、本作の中で最も暗く、救いのない物語かもしれません。主人公の少年、肇には、周囲の人間が動物に見える、という特殊な能力(あるいは精神的な症状)があります。父親はスピッツ、母親はタヌキ、姉はハイエナ、兄はキツネ…。そして、学校では同級生たちから「動物」扱いされ、いじめを受ける。家庭内でも、彼の特異性を理解されず、疎外感を深めていきます。彼の唯一の心の支えであった蝶の標本が壊された時、彼の内面に蓄積されていた怒りや絶望が爆発し、人間性を失った獣のような存在へと変貌してしまう。この結末は、あまりにも痛ましい。家庭崩壊、ネグレクト、いじめといった、現代社会が抱える深刻な問題が、ファンタジックな設定の中で、より鋭く、生々しく描かれています。「怪笑」というタイトルを冠した短編集の最後に、このような重く、暗い物語を配置した東野氏の意図は何だったのでしょうか。それはおそらく、人間の持つ「笑い」の側面だけでなく、その裏側にある「闇」をも描き出すことで、人間という存在の多面性、複雑さを提示したかったからではないでしょうか。笑いのすぐ隣には、常に悲劇や狂気が潜んでいる。それを、この「動物家族」は象徴しているように思えます。読後感は決して良いものではありませんが、強烈な問題提起を含んだ、忘れがたい一編です。
こうして九つの短編を振り返ってみると、「怪笑小説」というタイトルが実に的を射ていることがわかります。そこにあるのは、腹を抱えて笑うような陽気なものではなく、人間の愚かさや弱さ、社会の歪みに対する、乾いた、あるいは冷めた笑いです。時にはブラックな描写に眉をひそめ、時には登場人物の哀れさに胸を痛め、そして時には、その奇妙な発想に感心させられる。一冊で様々な感情を呼び起こされる、非常に密度の濃い短編集と言えるでしょう。東野圭吾氏のミステリー作品とは異なる魅力、その”毒”を味わいたい方には、格好の一冊となるはずです。ただし、後味の悪さも保証付きですがね。
まとめ
東野圭吾氏の「怪笑小説」は、氏の持つ多彩な才能の一端を示す、異色の短編集と言えるでしょう。ミステリーで見せる緻密な構成力とはまた違う、人間の滑稽さや社会の歪みを、時にブラックに、時にシュールに切り取る手腕は、見事と言うほかありません。収録された九つの物語は、それぞれが独立していながらも、「人間の奇妙な性(さが)」という共通のテーマで繋がっているように感じられます。
満員電車の不快感、老人の暴走する情熱、常識外れの隣人トラブル、そして救いのない家庭の物語まで。描かれる題材は多岐にわたりますが、いずれも私たちの日常と地続きにあるような、妙なリアリティを伴っています。だからこそ、描かれる人間の愚かさや身勝手さが、時に苦笑を誘い、時に背筋を寒くさせるのでしょう。読後、単純な面白さだけではない、複雑な感情が残るはずです。
この「怪笑小説」は、万人に勧められる作品ではないかもしれません。しかし、人間の持つ可笑しみや哀しみ、その表裏一体となった姿に興味がある方、あるいは、東野圭吾氏の”毒”のある一面に触れてみたい方にとっては、非常に刺激的な読書体験となることでしょう。くれぐれも、読後に人間不信に陥らないよう、ご注意いただきたいものですが。