小説『壁』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文の感想も書いていますので、どうぞ。
安部公房という作家をご存知でしょうか。現代日本文学において、シュルレアリスムを大胆に取り入れた異色の存在として、彼の名は高く評価されています。第二次世界大戦後の混乱期に、既存の文学の枠を打ち破り、新たな表現を模索した彼の作品群は、常に読者に深い問いを投げかけてきました。特に、幼少期を満州で過ごしたという経験は、彼の描く不条理な世界観に色濃く反映されていると言われています。
『壁』は、1951年に刊行された中編・短編集で、安部公房の作家としてのキャリアにおいて、記念碑的な作品と言えるでしょう。この作品に収録されている「S・カルマ氏の犯罪」は、同年、第25回芥川賞を受賞し、安部公房の名を一躍世に知らしめるきっかけとなりました。勅使河原宏による装幀、桂川寛による挿絵、そして石川淳による序文が、この作品集が持つ芸術性の高さを物語っています。
この作品集は、オムニバス形式で構成されており、主要な三つの部から成り立っています。第一部の中編「S・カルマ氏の犯罪」に始まり、第二部の短編「バベルの塔の狸」、そして第三部には「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」という四つの短編が収められています。これらの物語に共通して流れているのは、主人公たちが自己のアイデンティティを構成する要素、例えば名前や影、あるいは「家」といった「ラベル」を次々と剥奪されていく過程です。これにより、彼らは社会的な認識から排除され、安心できる居場所を失い、他者との関係性も曖昧になっていきます。その結果として提示されるのは、存在権を失い、人間社会に自らの場所を見出すことができない孤独な人々の、深く悲哀に満ちた世界です。安部公房の作品全体に共通する、論理的に導き出された不条理さが際立つ作品と言えるでしょう。彼は、非現実的な設定の中に、普遍的な教訓や、人間の存在そのものに関わる実存的な問いかけを巧みに内包させているのです。
『壁』というタイトルは、単なる物理的な障壁を意味するだけでなく、人間の思考や存在そのものに深く関わる概念を示唆しています。文学の大家である埴谷雄高は、安部公房を「空間の造形的表現」において自分を超えたとまで評価し、壁の中に新たな世界が拓かれる可能性を見出しました。この指摘は、壁が単なる障害ではなく、むしろ創造の起点となり得ることを示唆しています。物語の結びの言葉、「その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」は、壁が克服されるべき対象ではなく、無限に成長し続けるものとして描かれていることを示唆しています。これは、壁という困難に直面し、それを乗り越えられない自己を見つめ直す過程そのものが、安部公房の小説執筆の原動力となり、彼の作品群に無限のテーマを与え続けたと解釈できるでしょう。また、地平線でさえも壁として認識されるという深遠な意味合いは、安部公房が幼少期を満州で過ごした際の広大な風景体験がその着想の基になっていると指摘されており、彼の文学的視点の独自性と深遠さを示しています。このように、『壁』というタイトルは、安部公房の文学的姿勢と創作の根源を象徴しており、単なる障害ではなく、人間の内面と外界の境界、そして絶えず変化し成長する実存そのものを表象しているのです。この多義的な意味合いは、彼の作品が単なる不条理の描写に留まらず、人間の存在そのものへの深い探求であることを示唆しています。
『壁』のあらすじ
『壁』の第一部である「S・カルマ氏の犯罪」は、奇妙な感覚に襲われる一人のサラリーマン、S・カルマ氏の物語から始まります。ある朝、目覚めると胸が空っぽになっているという異変に戸惑いながらも、彼は会社へと向かいます。食堂でツケ払いをしようとした彼は、自分の名前が書けないことに気づきます。事務所では、自分の名札に「S・カルマ」と書かれているものの、どうにもしっくりきません。さらに奇妙なことに、いつも自分が座っていた席には「もう一人の自分」、すなわち彼の名刺が座っていたのです。
名刺の「ぼく」は生身の「ぼく」に公然と反抗し、カルマ氏は抗弁の言葉が「空っぽな胸の底に沈んだまま」出てこないことに苦しみます。この異常な状況に困惑したカルマ氏は、医者に診てもらいに行きます。診察室で、彼はスペインの絵入雑誌に載っていた、砂丘が地平線まで続く荒野の風景に強く魅せられ、いつの間にかその風景を空っぽの胸の中に吸い込んでしまいます。医者もこの異変に気づき、荒野の風景を胸に吸い込んだことがカルマ氏の病気であると診断します。
その後、動物園を訪れたカルマ氏は、特に砂漠に住む動物たち、ライオンやラクダに惹きつけられます。そして、信じられないことに、一頭のラクダが彼の体の中に入り込んでしまいます。間もなく、彼は二人の大男に取り押さえられ、動物園の檻の背後にある洞窟を通り、その奥にある理不尽な裁判所へと連行されてしまうのです。
裁判では、カルマ氏の罪状は二つあると告げられます。一つは、病院の診察室で胸部の陰圧を利用して雑誌の口絵を盗んだこと。もう一つは、動物園で目の力を使ってラクダを体の中に吸い込んだことです。逮捕されたのは生身のカルマ氏ですが、名刺のカルマ氏も依然として存在するため、裁判官はどちらが本物のカルマ氏であるか、あるいはなぜ二人のカルマ氏が存在するのかが判明するまで、裁判を永遠に続行すると告げます。法は名前にのみ関係するため、名前を失ったカルマ氏は自己の権利を主張することもできない状態に置かれます。
『壁』の長文感想(ネタバレあり)
安部公房の『壁』は、読者を不条理の迷宮へと誘い込む、まさに文学の傑作と言えるでしょう。この作品を読み終えた後、私たちの心に残るのは、奇妙な出来事の羅列だけではありません。そこには、人間の存在そのものに対する根源的な問いかけ、そして現代社会における個人の疎外感やアイデンティティの危機の予言的な描写が深く刻まれているのです。
「S・カルマ氏の犯罪」:名前の喪失と実存の壁
第一部「S・カルマ氏の犯罪」は、その冒頭から読者の度肝を抜きます。主人公のS・カルマ氏が、朝目覚めると胸が「空っぽ」になっているという異変。そして、自分の名前が書けなくなり、しまいには名刺が「もう一人の自分」として独立してしまうという展開は、まさに圧巻の一言です。ここで描かれるのは、単なるSF的な奇妙な出来事ではありません。彼の名前が書けない、名刺が自我を持つという事態は、名前という社会的な記号が、個人の存在をいかに規定し、そのアイデンティティを支えているかを痛烈に示唆しています。名前を失うことで、カルマ氏は社会的な認識から逸脱し、存在権を喪失していくのです。
この物語における「名刺のカルマ氏」の存在は非常に象徴的です。生身のカルマ氏に反抗し、周囲の事物たちを扇動して反乱を起こさせる名刺は、社会的な記号としての「名前」が、実体を超えて自律的な存在となりうる可能性を示しています。現代社会において、私たちは「名刺」や「ID」といった記号によって自己を証明し、社会の中で位置付けられています。もしそれらが実体と乖離し、あるいは反乱を起こしたら、私たちの存在そのものが揺らいでしまうのではないか、という根源的な不安を突きつけられるかのようです。
カルマ氏が診察室で雑誌の荒野の風景を胸に吸い込み、動物園でラクダを体の中に入れてしまうという描写は、まさにシュルレアリスムの真骨頂です。これは、論理や理性では説明のつかない、人間の内面における無意識の働きや、現実と非現実の境界が曖昧になる感覚を表現しています。彼の胸に広がる荒野は、彼の内面の空虚さ、そして社会からの疎外感を具現化したものと解釈できるでしょう。ラクダの侵入は、異物が自己の内面に入り込み、自己を変容させていく過程を象徴しているのかもしれません。
そして、彼が連行される「理不尽な裁判」の場面は、カフカの『審判』を彷彿とさせます。罪状は告げられるものの、その論理は破綻しており、彼は自己を弁護することすらできません。法が名前にのみ関係するという設定は、社会が個人の「実体」ではなく「記号」に基づいて機能していることへの批判とも読み取れます。名前を失ったカルマ氏には、もはや社会の中で自己を主張する権利すら与えられないのです。この理不尽さは、現代社会のシステムが持つ非人間性や、個人を抑圧するメカニズムを鋭くえぐり出しています。
物語の終盤、カルマ氏が壁に吸い込まれ、「成長してゆく壁」となるという結末は、この作品の最も印象的な部分でしょう。彼は、生身の自分と名刺の自分に分裂し、胸に空虚感を抱え、広大な砂漠の光景を映し出した結果、最終的に壁そのものとなってしまいます。これは、自己のアイデンティティを失い、社会から完全に疎外された人間が、もはや個としての存在を維持できなくなり、環境と一体化していく悲劇的な姿を描いています。しかし、「成長してゆく壁」という言葉には、単なる消滅以上の、何か新たな存在への変容、あるいは無限の探求を続ける安部公房自身の文学的姿勢が込められているようにも感じられます。壁は単なる障害ではなく、人間の思考や実存そのものの限界であり、そこから新たな世界が拓かれる可能性を秘めているのかもしれません。
カフカとルイス・キャロルの影響
安部公房自身は「S・カルマ氏の犯罪」がルイス・キャロルの影響を受けて書かれたものであり、カフカの影響ではないと述べているのは興味深い点です。しかし、文学研究においては両者の影響が詳細に分析されています。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に見られるようなナンセンスな出来事が、物語の進行のきっかけとなっている点は確かに共通しています。カルマ氏が雑誌の口絵やラクダを胸に吸い込むという行為は、常識では考えられない奇妙な出来事です。また、変身の技法や、現実からの鮮やかな展開も共通しています。アリスがウサギの穴からトンネルを通って物語の世界に入るように、カルマ氏も動物園の檻の岩山から長いトンネルを通って裁判所へと導かれます。しかし、安部のユーモアがキャロルのような「哀しい」ユーモアに留まっているのは、安部のテーマが「深刻すぎた」ためだと指摘されています。キャロルが現実の外に逃亡するのに対し、安部の文学は現実の拒否であると同時に現実との対決であるという点で、そのアプローチには違いが見られます。
一方、フランツ・カフカの影響は、より深く作品に根ざしているように感じられます。カルマ氏が名刺の自分と生身の自分に分裂する状況は、カフカの『変身』で主人公グレーゴル・ザムザが害虫に変身する状況と類似しています。また、カルマ氏の裁判は、カフカの『審判』におけるヨーゼフ・Kの裁判と極めて類似しており、どちらも現実の裁判組織ではなく、主人公の心の中で生じた葛藤が描かれていると解釈できます。裁判所の場所も、『審判』のスラム街の屋根裏のような場所と、「S・カルマ氏」の動物園の岩山にあるトンネルを下った場所という点で、人間の心の中に存在する迷路を暗示しているようです。周囲の事物たちが反乱を起こす描写は、20世紀初頭のドイツ散文革命に見られる「事物の反乱」の文学思潮を連想させ、人間中心主義の崩壊と、事物への深い関心を示しています。最終的にカルマ氏が壁に吸収されることは、自我が事物に破れ、人間が破滅したことを意味し、カフカの作品とも通じる深い絶望を描いています。
安部公房は、この二人の巨匠の影響を独創的に融合させながらも、その根底には戦後日本の混乱期における個人のアイデンティティ喪失と実存的危機という、より深刻なテーマを横たえています。彼の不条理文学は、非日常的な展開を通じて、読者自身の存在の不確かさや社会からの疎外感を「他人事ではない」ものとして突きつけ、普遍的な問いを投げかけるのです。
「バベルの塔の狸」:影の喪失と空想の罠
第二部「バベルの塔の狸」は、詩人である「ぼく」が自身の影を失い、透明人間になってしまうという、これまた奇妙な物語です。ここで「影」は、自己の存在の証、アイデンティティ、あるいは現実世界における実体性を象徴しています。影を失うことは、自己の存在が曖昧になり、社会的な認識から排除されることと同義であると解釈できるでしょう。
そして、「ぼく」の前に現れる「とらぬ狸」は、彼の「空想やプランをつけている手帳」に由来しており、人間の未達成の計画、空想、あるいは内面に潜む非現実的な願望を象徴しています。「人間は誰でも各々のとらぬ狸を持っている」という言葉は、誰もが心の中に未実現の夢や隠れた願望を抱えているという普遍的な真理を示唆しています。しかし、この「とらぬ狸」が影を奪い、現実を混乱させる存在として描かれることは、人間の内面的な願望が、時に現実の主体性を脅かす危険性を孕んでいることを示唆しています。
目玉銀行で目玉を預けることを要求される場面は、人間の「見る」という行為、すなわち現実を認識する能力そのものが、非現実的な存在(狸)によって操作されうる可能性を提示しています。これは、私たちが認識している現実が、いかに曖昧で脆いものであるかを突きつけているかのようです。
しかし、「ぼく」は時間彫刻器を使って過去に戻り、影を奪われる前の状態を回復させることに成功します。この行動は、不条理な状況下においても、人間が自らの意志と行動によって、失われた主体性やアイデンティティを取り戻そうと試みる可能性を示しています。安部公房は単に絶望的な不条理を描くだけでなく、その中で人間がどのように自己を再構築しようとするかという問いを投げかけているのです。この物語は、人間のアイデンティティが外部からの認識や内面的な空想によっていかに揺らぎやすいかを描きつつも、最終的には自己の認識能力と過去への介入を通じて、主体性を回復しようとする人間の抵抗を描いています。
「赤い繭」:居場所を求める孤独な探求と変身
第三部の短編「赤い繭」は、家を持たない一人の男が、自分の家を探し求める孤独な旅を描きます。家は山ほど林立しているにもかかわらず、彼の家は見つかりません。公園で休もうとすれば、「みんなのものだから自分一人のものではない」と言われて追い出されてしまいます。「家」は、物理的な居場所だけでなく、帰属意識、安心感、社会的な安定を象徴しています。男が家を見つけられないのは、現代社会における個人の根深い疎外感や、どこにも帰属できない孤独感を表現していると言えるでしょう。
家を求めるあまり、男は最終的に自分が「繭=家」へと変身してしまうという展開は、衝撃的でありながらも、深い悲哀を誘います。しかし、この変身には皮肉な結果が伴います。自分が家になった途端、今度はその家に帰る自分がいなくなってしまうのです。繭の中の時間は止まり、ずっと夕暮れのまま赤く光り続けます。これは、居場所を得たかに見えて、実際には生きた時間や活動を伴わない、ある種の「死んだ」状態であることを暗示しています。
最終的に繭となった男は警官に拾われ、子供のおもちゃ箱に住処を得ます。これは、人間としての尊厳を失い、単なる「物」として扱われることでしか居場所を得られないという、痛烈な社会批判となっています。この作品は、極限の疎外状況における自己防衛の試みであると同時に、その試みが自己の主体性を失わせるというパラドックスを内包しているのです。自己が自らを作り出す「家」となることで、究極の帰属先を得たように見えるが、その代償として主体性(「帰る俺」)を喪失するという、まさに安部公房らしい問いかけがここにあります。
「洪水」:液化する社会と階級問題
「洪水」は、河川の氾濫などによる自然災害の洪水とは異なり、人々が「液化」することによって洪水が発生するという、極めて特異な設定がなされています。労働者を皮切りに、工場労働者や刑務所の囚人、農民などが次々と液化していく様子は、不気味でありながらも、既存の社会秩序が溶解していく様を象徴的に描いているように感じられます。
液化した人々はアメーバのように自由に移動し、凍結したり蒸発したりもできる液体人間となり、水に関わる様々な異常や洪水を巻き起こし、液化しなかった人々を溺死させていきます。警察や物理学者もお手上げ状態となり、富める者たちは恐水病に陥ります。洪水から逃れた「富める人たち」は労働者を動員して堤防を建設しようと試みますが、液化と洪水は止まることなく続き、最終的に人類は滅亡してしまうという結末は、非常に衝撃的です。
この作品は、先行研究の多くが指摘するように、共産主義との関連で論じられることが多いです。特に労働者や貧しい人々が液化し、「富める人たち」を脅かすという点から、階級問題が読み取られます。安部が共産党に接近していた時期に書かれたこと、そして「反共の防波堤」を乗り越える共産化の波への期待が背景にあるという指摘は、この作品が単なる不条理な物語ではなく、戦後日本の政治的・思想的状況を強く反映した寓意であることを示しています。
しかし、液化と溺死を単純な階級対立に還元できないという指摘や、液体人間の多様な性質に焦点を当てるべきだという提言は、安部が描いた変革が、特定のイデオロギーに収まらない、より根源的な「人間の存在を根本から変える」ような変化を志向していた可能性を示唆しています。そして、静まった水底では、目に見えない心臓を中心に、何やらきらめく物質が結晶しはじめるという結末は、旧体制の徹底的な破壊の後に、全く新しい秩序や生命が誕生する可能性、すなわち希望や再生の暗示を含んでいるようにも読み取れます。
「魔法のチョーク」:創造の力と現実の変容
「魔法のチョーク」に関する詳細なあらすじは資料に限定的ですが、タイトルと文学評論家の埴谷雄高の言葉から、この作品が持つテーマは明確に浮かび上がってきます。埴谷は「安部公房君が椅子から立ちあがって、チョークをとって、壁に画をかいたのです。安部君の手にしたがって、壁に世界がひらかれる。壁は運動の限界ではなかった。ここから人間の生活がはじまるのだということを、諸君は承認させられる」と述べています。
この言葉は、「魔法のチョーク」が「創造の力」「現実の変容」「限界の打破」といったテーマを扱っていることを強く示唆しています。チョークで壁に絵を描く行為が、新たな世界を「ひらく」ことにつながるという解釈は、芸術や想像力が現実の制約を乗り越える可能性を示唆しているのです。『壁』全体が二項対立やパラドックスを突き詰める作品であることを踏まえると、「魔法のチョーク」もまた、現実と非現実、創造と破壊といった二項対立を内包し、それらを統合する人間の能力や葛藤を描いている可能性があります。
この作品は、安部公房が探求した「創造の力」と「現実の再構築」という普遍的なテーマを象徴していると言えるでしょう。不条理な現実や限界に直面した際に、人間がいかにして新たな意味や可能性を創造し、自己の存在を再構築していくかという、安部文学に共通する実存的な問いかけと深く結びついています。それは、不条理や限界に直面した人間が、想像力や芸術を通じて、自身の世界を「ひらく」可能性を示唆しており、安部文学の根底にある希望的な側面、あるいは抵抗の精神を垣間見せています。
「事業」:倫理の崩壊と人間性の解体
第三部の短編「事業」もまた、資料から得られるあらすじは限定的ですが、「人肉でソーセージを生産することの有意義性について主張する話なんてものもある」という一文は、読者に強烈な印象を与えます。この衝撃的な設定から、物語は、極限状況下における倫理観の崩壊、人間性の解体、あるいは合理性や効率性を追求するあまりに逸脱していく社会の姿を描いていると推測できます。
「人肉でソーセージを生産することの有意義性」というテーマは、人間の尊厳、生命の価値、そして倫理の境界線を問う、極めて挑発的な内容です。これは、戦後の混乱期や、合理主義が過度に進行する社会において、人間性がどのように変質しうるか、あるいは、生存や「事業」の効率性が倫理を凌駕する危険性を寓意的に示していると考えられます。「有意義性について主張する」という表現は、単なる逸脱ではなく、それが何らかの「合理性」や「効率性」の名の下に正当化されうるという、より恐ろしい側面を示唆しています。
主人公が「食に楽しみを見出す」という描写は、このような異常な状況下でさえ、人間が快楽や日常性を追求しようとする、ある種の「適応」あるいは「狂気」を暗示している可能性があります。これは、人間が環境に適応する中で、いかに容易に倫理観を麻痺させ、非人間的な行為を内面化しうるかという警鐘とも読み取れます。
このように、「事業」は、極めてグロテスクな設定を通じて、現代社会における倫理の相対化、人間性の解体、そして合理性や効率性の追求がもたらす危険な帰結を寓意的に描いています。これは、安部公房が人間の本質や社会の病理を、最も過激な形で探求しようとした実験精神の表れであり、読者に深い倫理的問いかけを迫るのです。
『壁』が問いかける実存と社会
『壁』全体を貫く「壁」という概念は、単なる物理的な障害物としてだけでなく、個人のアイデンティティを限定する社会的な記号、他者との関係を隔てる心の壁、そして人間の認識や思考の限界といった多義的な意味を持っています。特に「S・カルマ氏の犯罪」で主人公が最終的に「成長してゆく壁」となるように、壁は克服されるべき対象ではなく、むしろ人間の存在そのものと一体化し、絶えず変化・増殖する実存の象徴として描かれます。この「成長する壁」という概念は、安部公房自身の小説執筆の原動力であり、彼にとって終わりなき探求のテーマであったと解釈できるでしょう。
安部公房は第二次世界大戦後の作家であり、シュルレアリスムの手法を駆使した実験的小説を数多く発表しました。彼の作品は、何が起きているか理解できない不条理な展開が特徴でありながらも、読者に「他人事ではない」感覚を与え、人間の存在権の喪失や社会からの疎外感を深く問いかけます。安部自身は実存主義に一時接近しましたが、後に離れたとされつつも、彼の文学は自己に対する「疑い」や「ズレ」に焦点を当て、自己証明の喪失やアイデンティティの危機を描く点で実存主義文学と共通しています。文学の大家である埴谷雄高が『壁』を「未曾有の作品」と絶賛し、カフカやゴーゴリと比較しつつ、その抽象的・象徴的表現と論理的構造を高く評価したのも頷けます。
『壁』が発表された1951年は、第二次世界大戦終結から間もない戦後復興期であり、従来の価値観が崩壊し、新たな思想が模索されていた時代です。安部公房は、戦時下の翼賛的な文学への批判から「戦後文学」の最前線に立ち、伝統的な人間中心主義を超え、「反人間」的な側面を探求しようとしました。彼のシュルレアリスム的手法や不条理な物語は、当時の文学界において「実に先進的」であり、「実験的小説」として評価されたのです。
特に「S・カルマ氏の犯罪」における名前の喪失や自己の分裂、そして「洪水」における液化現象は、戦後の社会で個人が経験したアイデンティティの揺らぎや、社会構造の流動性を象徴的に表現しています。これらの作品は、単なる現実の模倣ではなく、象徴と寓意に満ちた深層の現実を提示することで、読者に自身の存在や社会のあり方を根本から問い直すことを促しました。安部公房は、固定概念にとらわれず、日常性に支配された表層のコミュニケーションを解体し、象徴と寓意に満ちた深層の現実を呼び起こそうとするアヴァンギャルドな実験精神の持ち主でした。彼の文学は、戦後日本の思想を領導し、戦後社会の時代性や社会性を問う様々な文化運動や政治運動とも深く関わっていたのです。「洪水」における液化現象や階級問題の描写は、当時の共産主義運動や社会変革への期待を反映しています。
このように、『壁』は、単なる芥川賞受賞作に留まらず、戦後日本の思想的・社会的混乱の中で、伝統的な文学観を打ち破り、シュルレアリスムと実存主義を融合させた革新的な手法で人間のアイデンティティと社会の不条理を深く探求した作品です。安部公房は、この作品を通じて、戦後の日本文学に新たな地平を拓き、その後の世界文学にも影響を与える「世界文学者」としての地位を確立したと言えるでしょう。
まとめ
安部公房の『壁』は、名前、影、家といった自己を規定する「ラベル」が剥奪されることで、人間がいかに容易に存在権を失い、社会から疎外されるかを描き出した傑作です。各物語を通じて、安部公房は、不条理な状況下での人間の実存的苦悩、アイデンティティの脆さ、そして社会の根深い病理を寓話的に提示しています。この作品は、まるで鏡のように、私たちの日常に潜む不可解な側面を映し出してくれるかのようです。
しかし、その不条理の中にも、自己が「壁」と一体化し成長していくという諦念と探求の姿勢、あるいは失われた主体性を回復しようとする人間の抵抗が描かれており、単なる絶望に終わらない多層的な意味合いを持っています。安部公房は、単に読者を困惑させるだけでなく、その先に何かを見出そうとする人間の営みをも描き出しているのです。
この作品は、発表から70年以上が経過した現代においても、個人のアイデンティティ、社会との関係性、そして人間性の本質といった普遍的な問いを私たちに突きつけ続けています。情報過多の現代社会において、私たちは常に「何者か」であることを求められ、その「ラベル」によって生きることを強いられているのかもしれません。
『壁』が提示する奇怪で悲哀に満ちた世界は、読者自身の日常に潜む「壁」を再認識させ、自己と世界の深淵を見つめる機会を提供してくれます。ぜひ一度、この不朽の名作に触れ、あなた自身の「壁」について考えてみてはいかがでしょうか。