小説「回廊亭殺人事件」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この物語は、一人の女性の執念深い復讐心が生み出した悲劇、いや、もしかしたら喜劇と呼ぶべきかもしれません。巨万の富を持つ老人の死、その遺産を巡る醜い争い、そして過去の事件の真相。古風な旅館「回廊亭」を舞台に、人間の欲望と秘密が複雑に絡み合います。
主人公、桐生枝梨子は、愛する人を失った悲しみを復讐心に変え、老婆に成りすまして回廊亭へと潜入します。目的はただ一つ、半年前の恋人の死の謎を解き明かし、犯人を見つけ出すこと。しかし、彼女の計画は、予期せぬ新たな殺人事件によって狂わされていきます。果たして、枝梨子は真実にたどり着き、復讐を遂げることができるのでしょうか。
この記事では、そんな『回廊亭殺人事件』の物語の核心に触れつつ、その構成の巧みさ、あるいは少々古めかしいと感じるかもしれない点について、私の視点から深く掘り下げていきます。ネタバレを避けたい方はご注意ください。まあ、ミステリの醍醐味は結末を知ってから、その過程の妙を味わうことにあるとも言えますが。
小説「回廊亭殺人事件」のあらすじ
物語の幕開けは、雪深い山奥に佇む古風な旅館「回廊亭」。かつては賑わいを見せたこの場所も、半年前のある忌まわしい事件以降、静寂に包まれていました。その回廊亭が、一代で巨万の富を築いた実業家、一ヶ原高顕の四十九日と遺言書公開のために、再び扉を開きます。集まったのは、高顕の遺産相続を目論む一族郎党。誰もが腹に一物抱えた、いかにもな面々です。
その中に、ひときわ異彩を放つ老婆、本間菊代の姿がありました。しかし、その正体は、高顕の秘書であり、半年前の事件で恋人・里中二郎を失った桐生枝梨子。彼女は顔に負った火傷を隠し、復讐のため老婆に変装して乗り込んできたのです。枝梨子は、二郎の死は自殺ではなく、この一族の誰かによる殺人だと確信していました。彼女は自らが死んだと偽装し、菊代が持つ「真実を記した手紙」を遺言公開の場で明らかにさせるという大胆な計画を立てます。
計画通り、枝梨子は菊代の部屋に手紙を置き、犯人が盗みに来るのを待ち構えます。深夜、部屋に忍び込んだのは、意外にも一族の娘、一ヶ原由香でした。しかし、枝梨子が由香の部屋へ向かうと、そこには無残にも殺害された由香の姿が。しかも、由香が盗んだはずの手紙は消え失せていました。現場には、謎のダイイングメッセージらしきものが残されていましたが、枝梨子はそれを消し去り、現場を偽装して立ち去ります。
予期せぬ第二の殺人事件の発生により、回廊亭は警察の捜査が入る閉鎖空間となります。枝梨子は老婆・菊代を演じ続けながら、警察の追及をかわし、真犯人を探らねばなりません。由香はなぜ殺されたのか? 消えた手紙の行方は? そして、恋人・二郎を殺した真犯人は誰なのか? 疑心暗鬼が渦巻く中、枝梨子は一族の秘密と、二郎の出生に隠された驚愕の事実に迫っていくのです。
小説「回廊亭殺人事件」の長文感想(ネタバレあり)
さて、東野圭吾氏の初期作品『回廊亭殺人事件』。発表は1991年と、もう30年以上も前のことになりますか。氏の作品群の中では、やや異色、あるいは過渡期的な作品と位置づけられるかもしれません。しかしながら、この古風な設定と、執念深い復讐譚には、現代の洗練されたミステリにはない、独特の魅力があるのも事実でしょう。
まず、この物語の核となるのは、主人公・桐生枝梨子の「変装」と「復讐」です。恋人を殺され、自らも瀕死の重傷を負った女性が、老婆になりすまして犯人がいるであろう場所に潜入する。この設定自体は、決して目新しいものではありません。横溝正史作品あたりを彷彿とさせる、いかにも本格ミステリ的な導入と言えます。しかし、枝梨子の動機付け、つまり、単なる恋人の仇討ちだけでなく、彼が実は一ヶ原高顕の隠し子であり、遺産相続に絡む陰謀があったという背景が、物語に深みを与えています。彼女の復讐は、個人的な情念と、社会的な(?)正義感がないまぜになった、複雑な様相を呈しているわけです。
枝梨子が老婆・本間菊代になりすます過程、その徹底ぶりはなかなかのものです。特殊メイク、鬘、老人の所作。彼女の執念がひしひしと伝わってきます。ただ、現代の感覚からすると、いくらなんでもバレるのでは? と思わなくもない。特に、警察の事情聴取など、かなり際どい場面もあります。まあ、そこは物語のお約束、フィクションの許容範囲として楽しむべきなのでしょう。むしろ、この「バレるかバレないか」というサスペンスが、物語前半の推進力となっています。
物語の舞台となる「回廊亭」も、実に古典的なクローズド・サークルを形成しています。雪に閉ざされた古い旅館、遺産目当てに集まった胡散臭い一族、過去の因縁。これ以上ないほど、事件が起こるべくして起こる環境が整えられています。登場人物も、いかにも怪しげな人物ばかり。高顕の弟・蒼介、異母兄弟の直之、義妹の紀代美とその子供たち。誰もが遺産を欲し、何かを隠しているように見えます。読者は、枝梨子と共に、この魑魅魍魎とした人間関係の中を探っていくことになります。
最初の殺人(とされる)里中二郎の死の謎、そして第二の殺人である由香の死。この二つの事件が絡み合い、物語は複雑化していきます。枝梨子が仕掛けた「告発の手紙」を由香が盗み、その由香が殺される。手紙はどこへ消えたのか? 由香を殺したのは誰か? 枝梨子は、当初、恋人を殺した犯人が由香をも殺したと考えますが、捜査が進むにつれて、事態はより錯綜していきます。
特に、由香が残したとされるダイイングメッセージ。アルファベットの「N」を逆にしたような、あるいは「Z」や「S」にも見える奇妙な記号。これが意味するものは何か? ミステリにおけるダイイングメッセージは、時に陳腐なギミックになりがちですが、本作では読者の興味を引きつけるフックとして機能しています。もっとも、その真相を知ると、少々肩透かしを食らう感も否めませんがね。
中盤以降、枝梨子は一族の中でも特に怪しい動きを見せる直之に疑いの目を向けます。由香と直之が密かに関係を持っていたこと、直之が持つ真珠のタイピンと由香の指輪の関連性。枝梨子は、直之こそが二郎と由香を殺した犯人だと確信し、復讐の刃を研ぎ澄ませていきます。このあたりの推理と、枝梨子の心理描写は、彼女の孤独と焦燥感をよく表しています。復讐という目的のためには手段を選ばない、危うげなヒロイン像は、なかなか魅力的です。
そして迎えるクライマックス。枝梨子は、自らの手で直之に裁きを下そうとしますが、そこに待っていたのは、まさにどんでん返し。真犯人は、まったく予想外の人物でした。いや、正確に言えば、二つの事件の犯人はそれぞれ別人であり、その動機も複雑に絡み合っていたのです。
半年前の事件、つまり里中二郎(と枝梨子)を狙った放火殺人の犯人は、なんと、枝梨子が最も信頼していたはずの人物、本物の老婆・本間菊代でした。彼女は、かつて高顕に捨てられた恨みを晴らすため、そして高顕の血を引く二郎の存在を疎ましく思い、犯行に及んだのです。枝梨子は、復讐のために成りすましていた相手こそが、真の仇だったという皮肉な結末を迎えるわけです。この構造は、なかなかよく練られていると言えるでしょう。まるで、己の影を追いかけていたつもりが、その影こそが本体であったかのような、虚無感を伴う逆転劇です。
一方、由香を殺害したのは、紀代美の息子、健彦でした。彼は、由香が盗んだ手紙の内容(二郎が高顕の息子であること)を知り、それが公になれば自分たちの相続分が減ることを恐れ、衝動的に由香を殺害してしまった。そして、その罪を隠蔽するために、枝梨子(菊代)が犯人であるかのように偽装工作まで行っていた。ダイイングメッセージとされた記号も、実は健彦が偽装したものだったのです。こちらは、遺産相続に目が眩んだ、ある種、矮小な動機による犯行と言えます。
最終的に、枝梨子は本物の菊代と対峙し、炎の中で壮絶な最期を遂げます。復讐を果たしたのか、果たせなかったのか。彼女が得たものは何だったのか。破滅的な結末ではありますが、復讐に生きた彼女にとっては、あるいは本望だったのかもしれません。すべてが燃え尽きた後に残るのは、言いようのない空虚感と、人間の業の深さに対する嘆息でしょうか。
全体として、『回廊亭殺人事件』は、古き良き本格ミステリの要素を色濃く残した作品です。変装、クローズド・サークル、遺産相続争い、ダイイングメッセージ、そしてどんでん返し。これらの要素が、東野氏らしい手堅い構成力でまとめられています。登場人物の造形は、ややステレオタイプな感もありますが、それぞれの欲望や秘密が物語を駆動させており、飽きさせません。
ただ、やはり時代を感じさせる部分も散見されます。特に、トリックや動機の一部には、ややご都合主義的な、あるいは強引さを感じる箇所もないわけではありません。例えば、枝梨子の変装が最後までバレない点や、健彦の犯行とその後の偽装工作など、細かく見れば突っ込みどころはあるでしょう。しかし、それを補って余りあるのが、物語全体を覆う陰鬱な雰囲気と、枝梨子の執念、そして終盤の畳み掛けるような展開の力強さです。
初期の作品でありながら、後の東野作品にも通じる「人間の情念」や「罪と罰」といったテーマ性が垣間見える点も興味深い。特に、復讐心が人間をどのように変え、破滅へと導くのかという描写は、本作の大きな魅力と言えるでしょう。派手さはないかもしれませんが、じっくりと腰を据えて読むに値する、骨太なミステリではないでしょうか。まあ、たまにはこういう、少し埃っぽい香りのする物語に浸るのも悪くありません。
まとめ
東野圭吾氏の『回廊亭殺人事件』は、復讐のために老婆に変装した女性が、遺産相続争いに揺れる一族が籠る古い旅館で真相を探るという、古典的な設定のミステリです。半年前の恋人の死の謎と、新たに起こる殺人事件。二つの事件が複雑に絡み合い、読者を欺きます。
物語の魅力は、桐生枝梨子の執念深い復讐心と、クローズド・サークルならではの濃密な人間関係、そして終盤に待ち受ける衝撃のどんでん返しにあります。真犯人の意外性、そしてその動機に隠された人間の業の深さは、読後に重い余韻を残すことでしょう。まさに愛憎劇という言葉がふさわしい展開です。
発表から年月を経ているため、一部に古めかしさや、やや強引な展開を感じる部分もあるかもしれません。しかし、それを補うだけの構成力と、人間の暗部を抉り出すようなテーマ性は健在です。東野作品のファンはもちろん、重厚な本格ミステリを味わいたい方には、一読の価値がある作品と言えます。まあ、たまにはこういう泥臭い人間ドラマも良いものです。