小説「嘘をもうひとつだけ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が生み出した数々のミステリの中でも、加賀恭一郎シリーズは特に根強い人気を誇りますが、その中でも異彩を放つのがこの短編集『嘘をもうひとつだけ』。表題作を含む五つの物語は、いずれも「嘘」という名の迷宮へと読者を誘います。まあ、人の世は嘘で塗り固められていると言っても過言ではないでしょうから、題材としてはありふれているかもしれません。
しかし、そこは東野圭吾氏。ありふれたテーマを、実に巧妙な仕掛けと人間心理の深淵を探る筆致で、一級のエンターテイメントに昇華させています。特に表題作である「嘘をもうひとつだけ」は、シリーズの主人公、加賀恭一郎の怜悧な推理と、事件関係者の隠された嘘が見事に交錯する佳品と言えるでしょう。バレエという華やかな世界の裏側で繰り広げられる、静かながらも激しい心理戦。魅力的だと思いませんか?
この記事では、そんな「嘘をもうひとつだけ」の物語の核心部分に触れつつ、その構成や登場人物たちの織りなすドラマについて、少々辛口ながらも愛のある視点でお話ししようと思います。結末に関する情報も含まれますので、まだお読みでない方は、ご自身の判断で読み進めてください。もっとも、結末を知ったからといって、この作品の価値が損なわれるわけではありませんがね。むしろ、仕掛けを知った上で再読するのも、また一興というものでしょう。
小説「嘘をもうひとつだけ」のあらすじ
華やかな弓削バレエ団。その公演を間近に控えたある日、一人の女性が命を落とします。彼女の名は早川弘子。かつてはプリマドンナとして将来を嘱望されながらも、怪我により引退を余儀なくされ、現在はバレエ団の事務員として働いていました。彼女は、自宅マンションの七階にある自室バルコニーから転落し、敷地内の植え込みで亡くなっているのが発見されます。状況から事故死か、あるいは自ら命を絶った可能性も考えられました。
しかし、練馬警察署の刑事、加賀恭一郎は、この事件に不審な点を見出します。早川弘子は、マンションに引っ越してきたばかり。そして、彼女と同じマンションの、しかも真上の階に住んでいたのが、バレエ団の事務局長であり、演出家の亡き夫の仕事を引き継ぐ寺西美千代でした。加賀は、美千代が何かを知っている、あるいは関与しているのではないかと疑念を抱き、彼女への聞き込みを開始します。
美千代は、弘子の死について冷静に対応しますが、加賀の鋭い追求に対し、少しずつ動揺を見せ始めます。弘子はバレエへの復帰を目指していましたが、美千代はそれを快く思っていなかったのではないか? かつてのプリマと、現在のバレエ団の実権を握る者との間には、見えない確執があったのでしょうか。美千代は、弘子が亡くなったとされる時刻のアリバイを主張しますが、加賀はその証言の僅かな綻びを見逃しません。
加賀は、美千代の部屋と弘子の部屋の位置関係、そして美千代の語る「嘘」の中に隠された真実を手繰り寄せようとします。彼女はなぜ嘘をつく必要があったのか? 弘子の死の真相とは? 加賀は、美千代にもうひとつだけ、決定的な嘘をつかせることで、事件の全貌を明らかにしようと試みるのです。華麗なるバレエの世界の裏に隠された、嫉妬とプライド、そして悲しい嘘の物語が、加賀の冷徹な視線によって静かに暴かれていきます。
小説「嘘をもうひとつだけ」の長文感想(ネタバレあり)
東野圭吾氏の代表シリーズのひとつ、加賀恭一郎シリーズ。その第六作目にあたるのが、この『嘘をもうひとつだけ』です。シリーズとしては初の短編集であり、表題作を含む五編が収録されています。どれも「嘘」をテーマにした珠玉のミステリですが、ここではやはり表題作「嘘をもうひとつだけ」について、詳しく語らせていただきましょう。なにしろ、この短編こそが、本書の白眉であり、加賀恭一郎という刑事の、そして東野ミステリの神髄を示しているのですから。
まず、この作品の構成の見事さには、舌を巻かざるを得ません。物語は、バレエ団の事務局長である寺西美千代の視点で主に語られます。彼女の視点を通して、事件の状況、亡くなった早川弘子との関係、そして刑事・加賀恭一郎の執拗な捜査が描かれます。読者は美千代の心理に寄り添いながら、彼女が隠している「嘘」と、加賀が迫る「真実」の間で揺れ動くことになります。この視点の妙が、サスペンスを効果的に高めていると言えるでしょう。
事件の構図自体は、比較的シンプルです。マンションの上下階に住む二人の女性。かつてのプリマと、現在のバレエ団の実力者。そこに潜む嫉妬や確執。転落死という状況。ありがちと言えばありがちな設定かもしれません。しかし、東野氏は、このありふれた設定の中に、実に巧妙なロジックと心理描写を織り込んでいます。特に、美千代のアリバイ工作と、それを崩す加賀の推理の応酬は、静かながらも息詰まる緊張感に満ちています。
核心となるのは、やはり「嘘」です。美千代は、自身の立場を守るため、そしておそらくは亡き夫への想いも絡んで、嘘を重ねます。しかし、その嘘は完全ではありません。僅かな矛盾、不自然な言動。加賀はそれらを丹念に拾い上げ、美千代を追い詰めていきます。そして、タイトルにもなっている「嘘をもうひとつだけ」。これは、加賀が美千代に仕掛ける最後の罠であり、彼女の嘘を決定的に暴くための巧妙な一言です。加賀自身もまた、真実を明らかにするために「嘘」を用いる。この皮肉な構造が、物語に深みを与えています。
加賀恭一郎という刑事の魅力も、この短編で存分に発揮されています。彼は決して多くを語りません。しかし、その鋭い観察眼は、相手の心の奥底まで見透かしているかのようです。『眠りの森』でもバレエ団を舞台にした事件を扱いましたが、本作での加賀は、より円熟味を増し、冷静沈着でありながらも、人間心理の機微に対する深い理解を示しています。彼は、美千代が嘘をつかざるを得なかった状況や心情にも、ある程度の理解を示しているように見えます。だからこそ、単に犯人を断罪するのではなく、彼女自身に真実を語らせようとするのでしょう。その捜査手法は、時に非情にさえ映りますが、同時に、人間という存在への冷徹ながらも温かい眼差しを感じさせるのです。
登場人物たちの造形も秀逸です。寺西美千代は、プライドが高く、目的のためには手段を選ばない冷徹な一面を持ちながらも、亡き夫への深い愛情や、バレエ団を守ろうとする責任感も持っています。彼女のつく嘘は、単なる自己保身だけではなく、複雑な感情が絡み合った結果なのです。一方、被害者の早川弘子は、才能に恵まれながらも挫折を経験し、再び舞台に立つことを渇望する女性として描かれています。彼女の存在が、美千代の心をどのように揺さぶり、事件へと繋がっていったのか。その背景にある人間関係の綾が、丹念に描かれています。
バレエという舞台設定も、この物語に独特の雰囲気を与えています。華やかで、美しく、しかしその裏側では激しい競争や嫉妬が渦巻く世界。それは、美千代と弘子の関係性を象徴しているかのようです。閉鎖的なバレエ団というコミュニティの中で起こった事件だからこそ、人間関係の濃密さや、隠された感情の深さが際立つのです。美千代が守ろうとしたもの、弘子が渇望したもの、それらはすべて、この特殊な世界の価値観と深く結びついています。
そして、この物語の「嘘」は、まるで幾重にも重ねられたヴェールのように、真実を覆い隠しているのです。美千代の嘘、そして加賀が仕掛ける嘘。それらが解き明かされたとき、現れる真実は、決して単純なものではありません。そこには、人間の弱さ、悲しさ、そしてどうしようもない業のようなものが横たわっています。読後感は、決して爽快なものではないかもしれません。むしろ、人間の心の複雑さや、嘘というものの持つ根源的な力について、深く考えさせられることになるでしょう。
短編でありながら、長編に匹敵するほどの濃密なドラマと、鮮やかなトリック、そして深い余韻を残す。それが「嘘をもうひとつだけ」という作品です。加賀恭一郎シリーズの中でも、特に完成度の高い一編と言って差し支えないでしょう。東野圭吾氏の、人間心理に対する洞察力の深さと、ミステリ作家としての卓越した技量が、見事に結晶化した作品なのです。まあ、これほどの作品を短編として書いてしまうあたり、氏の才能には改めて感服させられますね。他の収録作もそれぞれに味わい深いですが、まずはこの表題作をじっくりと味わってみることをお勧めしますよ。きっと、あなたも「嘘」の迷宮に迷い込むことになるでしょうから。
まとめ
さて、東野圭吾氏の短編集『嘘をもうひとつだけ』、その表題作について語ってきましたが、いかがでしたでしょうか。華やかなバレエ団を舞台に繰り広げられる、静かな殺人事件。その裏には、女たちのプライドと嫉妬、そして巧妙に重ねられた嘘が隠されていました。我らが加賀恭一郎刑事は、相変わらずの慧眼で、その嘘の皮を一枚一枚剥がしていくわけです。
この物語の核心は、やはり「嘘」そのものにあります。犯人である寺西美千代がつく嘘、そして真実を暴くために加賀がつく嘘。嘘と嘘が交錯し、人間の心の複雑な綾を浮き彫りにしていきます。結末を知れば、ああ、なるほどと膝を打つと同時に、どこか物悲しい気持ちにもなるかもしれません。それこそが、東野ミステリの持つ独特の味わいと言えるでしょう。
結局のところ、この「嘘をもうひとつだけ」は、単なる謎解きに留まらない、深い人間ドラマを描いた作品なのです。短編でありながら、その構成の巧みさ、心理描写の深さ、そして読後に残る余韻は、長編にも劣りません。加賀恭一郎シリーズのファンはもちろん、良質なミステリを求めている方ならば、読んで損はない一作だと断言しておきましょう。まあ、私の言葉を信じるか信じないかは、あなた次第ですが。