小説「危険なビーナス」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この物語、一見すると平凡な獣医師が謎めいた美女に翻弄される、ありふれた筋書きのようにも思えます。しかし、そこは東野圭吾氏。一筋縄ではいかない複雑な人間模様と、過去から続く因縁が絡み合っています。

主人公、手島伯朗。実直さが取り柄の獣医師ですが、少々惚れっぽいのが玉に瑕、いや、物語の始まりと言うべきでしょうか。彼の前に突如現れた、弟の妻を名乗る美女、楓。彼女の登場が、伯朗を矢神家という巨大で複雑な一族の渦中へと引きずり込んでいきます。弟の失踪、巨額の遺産、そして一族に隠された秘密の研究。楓と共に真相を追ううち、伯朗は知らず知らずのうちに、自らの過去とも向き合うことになるのです。

この記事では、「危険なビーナス」の物語の顛末、その核心に迫る部分まで踏み込みます。そして、私がこの作品をどう読んだか、少々長くなりますが、その所感を述べさせていただきます。まあ、退屈しのぎにでもなれば幸いですが。

小説「危険なビーナス」の物語の概要

手島伯朗は、亡き母・禎子の再婚相手である矢神康治とは距離を置き、実父の姓を名乗る実直な獣医師。都内で動物病院の院長代理を務める彼の平穏な日常は、一本の電話によって破られます。「弟の妻」を名乗る矢神楓と名乗る謎めいた女性からの連絡。彼女は、伯朗の異父弟・矢神明人が失踪したこと、そして明人の父であり、矢神家の当主・康治が危篤状態にあることを告げます。楓と名乗るその女性は、明人の妻として康治を見舞いたいが、一人では怪しまれるため、兄である伯朗に同行してほしいと頼み込みます。

矢神家との関わりを避けてきた伯朗でしたが、楓の魅力と強い押しに抗えず、しぶしぶ同行することに。康治が入院する矢神総合病院、そして矢神家の親族会へと足を運ぶうちに、伯朗は一族が抱える複雑な人間関係と、康治の莫大な遺産を巡る不穏な空気を感じ取ります。康治の妹・波恵、異母弟・牧雄、異母妹・祥子とその夫・隆司、娘・百合華、そして康治の父の愛人の子でありながら養子となった佐代とその息子・勇磨。彼らは皆、それぞれの思惑を胸に秘めているようです。

楓は明人の行方を捜すため、一族のアリバイを探るなど積極的に行動しますが、その一方で、伯朗は楓のミステリアスな魅力に強く惹かれていきます。弟の妻かもしれない女性への禁断の想いと、明人捜索の使命感との間で、伯朗の心は揺れ動きます。楓もまた、時折見せる脆さや、伯朗への信頼のような態度が、彼をさらに混乱させます。

調査を進めるうち、伯朗は矢神康治が過去に「サヴァン症候群」に関する秘密の研究を行っていたこと、そしてその研究が、伯朗の実父・一清の死や、母・禎子の16年前の不可解な死とも関連している可能性に気づきます。楓と共に、禎子の遺品や関係者を訪ね歩く中で、矢神家に隠された暗い秘密と、明人失踪の真相が徐々に明らかになっていくのです。

小説「危険なビーナス」の長文感想(ネタバレあり)

さて、この「危険なビーナス」という物語、読み終えてまず感じたのは、巧みに仕掛けられた罠にまんまと嵌められた、というある種の心地よい敗北感でしたか。いやはや、東野圭吾氏の術中には、いつもながら感服させられます。平凡な獣医師・手島伯朗が、突如現れたファム・ファタール、楓によって日常を掻き乱され、巨大な謎と陰謀の渦に巻き込まれていく。この導入部からして、読者の心を掴むには十分すぎるほど魅力的です。

伯朗という男、実に人間臭い。獣医師としての腕は確かで、動物への愛情も深い。しかし、こと女性に関しては、どうにも脇が甘い。楓の、あからさまなまでの美貌と、時折見せる翳りに、いとも簡単に心を奪われてしまう。弟の妻(と名乗る)相手に、ですよ? 不謹慎極まりない、と眉をひそめる向きもあるでしょう。しかし、この伯朗の「惚れっぽさ」こそが、物語を駆動する大きな力となっているのは間違いありません。彼の葛藤や迷いが、読者の共感、あるいはもどかしさを誘うのです。まあ、美しい女性に弱いのは、男の性(さが)とでも言うべきものかもしれませんがね。

そして、楓。彼女こそ、この物語のタイトルたる「危険なビーナス」。序盤から中盤にかけて、彼女の正体は深い霧の中です。明人の妻というのは本当なのか? なぜそこまでして明人を探し、矢神家の秘密に首を突っ込むのか? 彼女の言動は時に大胆で、時に不可解。伯朗を翻弄し、読者をも煙に巻く。彼女が時折見せる伯朗への親密さや信頼感は、計算なのか、それとも…? このあたりの駆け引きは、実にスリリングでした。彼女の存在は、まるで夜の闇に咲く、毒を持つかもしれない美しい花のようでした。この比喩、一度だけ使わせていただきましょう。

物語の中核を成すのは、矢神家の複雑怪奇な人間関係と、そこに渦巻く遺産相続問題、そして康治が行っていた秘密の研究です。康治の父・康之介なる人物が、家の繁栄のためになりふり構わず築き上げた歪な家族構成。正妻の子、愛人の子、養子…。血縁と欲望が複雑に絡み合い、互いに牽制し、疑心暗鬼に陥っている。特に印象的なのは、伯朗の幼馴染でもある矢神勇磨。軽薄そうに見えて、実はかなりの切れ者。彼が楓に接近し、伯朗の嫉妬心を煽る場面などは、物語に良いスパイスを加えていました。他の親族たちも、それぞれに個性的で、一癖も二癖もありそうな人物ばかり。遺産を前にした人間の業というものを、まざまざと見せつけられる思いがします。

康治の研究、すなわち「サヴァン症候群」とその治療法、あるいは能力開発への応用。これがまた、物語に深みを与えています。伯朗の実父・一清が晩年に描いたというフラクタル図形のような奇妙な絵画「寛恕の網」。これがサヴァン症候群とどう関わるのか。そして、康治の研究が、単なる学術的な探求心からなのか、それとももっと暗い野望に基づいていたのか。科学の進歩と倫理の問題という、東野作品に通底するテーマがここでも顔を覗かせます。伯朗が獣医師の道を選んだ背景にある、幼少期の動物実験の記憶も、このテーマと巧みにリンクしていました。過去のトラウマと、現在進行形の謎が、伯朗の中で結びついていく過程は、ミステリとしての醍醐味の一つでしょう。

そして、物語は終盤、驚愕の真実へと突き進みます。まず、楓の正体。彼女は明人の妻などではなく、なんと警察官だった。明人の失踪事件、そして矢神家にまつわる黒い噂を内偵するために、伯朗に近づいたのです。これには、私も含め、多くの読者が「やられた!」と思ったのではないでしょうか。彼女のこれまでの言動、伯朗への態度、そのすべてが「潜入捜査」の一環だったかもしれない、と考えると、伯朗への同情を禁じえません。しかし、彼女が伯朗に見せた人間的な感情は、すべてが演技だったのでしょうか? そのあたりは、読者の想像に委ねられている部分もあり、後味に複雑な余韻を残します。

さらに衝撃的なのは、16年前に事故死とされていた母・禎子の死の真相です。これもまた、事故ではなく、殺人だった。そして、犯人は…まさかの人物。これもまた、見事などんでん返しと言えるでしょう。明人が長年抱いていた疑念が、最悪の形で証明されてしまったわけです。この真相が、矢神家の闇の深さを改めて浮き彫りにします。

明人の失踪については、彼自身が康治の研究の危険性に気づき、自らの意思で身を隠していた、というものでした。最終的には無事が確認され、一件落着とはなりますが、彼が抱えていたであろう恐怖や葛藤を思うと、単純に喜べる結末でもありません。

康治の研究データは、最終的に破棄されることになります。非倫理的な実験の数々、その危険な成果が世に出ることは防がれましたが、康治自身の罪が問われる描写は希薄です。このあたり、少し物足りなさを感じる向きもあるかもしれません。しかし、物語は伯朗が日常を取り戻し、楓との間に新たな(しかし、以前とは質の異なる)関係性を築きながら未来へ歩み出すところで幕を閉じます。楓が残していったミニブタ「ハクちゃん」は、二人の奇妙な関係を象徴するかのようです。

ミステリとしての構成について言えば、伏線の張り方、ミスリードの誘い方、そして終盤のどんでん返しと、非常に計算され尽くしていると感じます。参考にした文章にあった「どっきりカメラ」という表現も、言い得て妙かもしれません。読者は伯朗と共に、仕掛けられた壮大な「どっきり」のターゲットにされているような感覚を味わうでしょう。ただ、細かな点を突けば、例えば「泥棒が普通に家の電気をつけて物色するのか?」といった疑問や、「スマホがあるならGoogle Earthで確認すれば…」といった現代的なツールを使わない不自然さなども、確かに無くはありません。しかし、それらは物語の大きな流れと、エンターテインメント性を損なうほどのものではない、と私は考えます。

「危険なビーナス」は、恋愛ミステリの皮を被りつつ、家族の絆、科学倫理、人間の業といった重層的なテーマを内包した、読み応えのある作品です。伯朗の成長(あるいは、翻弄されっぷりを楽しむべきか)、楓の謎めいた魅力、矢神家の面々の愛憎劇、そして二転三転する真相。東野圭吾氏らしい、科学的知見と人間ドラマの巧みな融合が見られます。エンタメ作品としての面白さと、考えさせられるテーマ性が、絶妙なバランスで成り立っていると言えるでしょう。

結局のところ、人間は美しいもの、そして謎めいたものには抗いがたい魅力を感じてしまう生き物なのかもしれません。伯朗が楓に惹かれたように、私たち読者もまた、この「危険なビーナス」という物語の持つ魔力に、知らず知らずのうちに引き込まれてしまうのです。まあ、たまにはそんな翻弄される読書体験も、悪くないものですよ。

まとめ

東野圭吾氏の小説「危険なビーナス」は、平凡な獣医師・手島伯朗が、失踪した弟の妻を名乗る謎の美女・楓と共に、複雑な矢神一族の秘密と陰謀に迫る物語です。物語は、伯朗の視点で進み、読者は彼と共に楓の正体、弟の行方、そして一族に隠された過去の謎解きに引き込まれていきます。

矢神家の莫大な遺産、当主・康治が行っていたサヴァン症候群に関する倫理的に問題のある研究、そして16年前に起きた母・禎子の不可解な死。これらの要素が絡み合い、物語は二転三転しながら驚愕の真相へと突き進みます。特に、楓の本当の身分と、禎子の死の真相が明かされる場面は、大きな衝撃を与えるでしょう。

結局のところ、この作品は単なるミステリに留まらず、家族の歪んだ絆、科学と倫理の相克、愛と欺瞞といった普遍的なテーマを内包しています。東野圭吾氏ならではの巧みなストーリーテリングと、魅力的な(そして危険な)登場人物たちが織りなす人間ドラマは、読後も深い余韻を残します。謎解きのカタルシスと、ほろ苦い現実がないまぜになった、忘れがたい読書体験となるはずです。