小説「俗天使」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。太宰治の短編の中でも、少し変わった成り立ちを持つこの作品は、彼の創作の裏側を垣間見るような面白さがあります。ミケランジェロの絵画から始まり、過去の女性たちの記憶、そして一通の少女の手紙へと展開していく流れは、読んでいるこちらもどこか落ち着かない、不思議な気持ちにさせられます。
この記事では、まず「俗天使」がどのような物語なのか、その流れを詳しくお伝えします。物語の結末にも触れていますので、まだ読んでいない方はご注意くださいね。物語の核心部分を知ることで、より深く作品世界に入り込めるかもしれません。特に、後半に登場する手紙の部分は、この作品を理解する上でとても大切な要素となっています。
そして、物語の紹介のあとには、私がこの「俗天使」を読んで感じたこと、考えたことを、かなり詳しく書いてみました。なぜこの作品が「俗天使」と名付けられたのか、登場する女性たちはどのような存在なのか、そして太宰治自身の創作への葛藤がどのように表れているのか、私なりに解き明かしていきたいと思います。少々長くなりますが、作品への理解を深める一助となれば嬉しいです。
太宰治の作品は、暗いイメージを持たれがちですが、この「俗天使」には、そうした側面だけでなく、日常の中のささやかな出来事や、少女のみずみずしい感性が描かれています。複雑な構成の中に光る人間味や、創作の苦しみと喜びのようなものが感じられる、味わい深い一編です。ぜひ、この記事を通して「俗天使」の世界に触れてみてください。
小説「俗天使」のあらすじ
物語は、語り手である「私」(小説家)が、自宅で食事をしている場面から始まります。食卓に置かれたミケランジェロの「最後の審判」の写真版を見つめているうちに、「私」は描かれた聖母マリアの姿に心を奪われ、食欲を失ってしまいます。御子に寄り添い、静かにうつむく聖母の、気高く、しかし人間的な深い信頼の表情が、「私」の心を捉えて離さなかったのです。
食事を中断し、自室に戻った「私」は、雑誌『新潮』から依頼されている短編小説の執筆に取り掛かろうとします。締め切りは明後日に迫っています。しかし、先ほどの聖母子の姿が目に焼き付いて離れず、自分の書くものへの自信をすっかり失ってしまいます。「あれを見なければよかった」と後悔しながらも、書かなければならないという義務感に駆られます。
なかなか筆が進まない中、「私」はふと「私にも、陋巷(ろうこう)の聖母があった」という一文を思いつきます。そして、過去に出会った印象的な女性たちのことを書き始めます。一人目は、荻窪の下宿時代によく通った支那そば屋の女中さん。彼女は、「私」が食べ残したそばに、こっそりと卵を割り入れてくれたのでした。二人目は、盲腸で入院した際に出会った看護師さん。医師に内緒で、必要な薬品をもう一回分、無償で分けてくれたのです。
さらに、湯治場で見送りに来てくれた娘さんのことなども思い出し、書き連ねていきます。しかし、そうした「陋巷の聖母」と呼べるような女性たちの思い出もすぐに尽きてしまい、「私」は再び筆が止まってしまいます。「あとはもう捏造するより他はない」と考えた「私」は、ある少女から送られてきた手紙を、そのまま作品の中に組み込むことにします。
その手紙は、「をぢさん」(おそらく「私」=太宰治のこと)への近況報告のような内容です。母親が『女生徒』を読みたがったこと、買い物に行って口紅などを買ったこと、買ったお金入れの金具に自分の顔が映って可愛く見えたこと、しっかりしようと決意しても朝ごはんを見るとすぐにだらけてしまうことなどが、少女らしい、とりとめのない筆致で綴られています。
手紙の部分を書き終えた「私」は、「だらだらと書いてみたが、あまり面白くなかったかも知れない。でも、いまのところ、せいぜいこんなところが、私の貧しいマリヤかも知れない」と記します。そして、「実在かどうかは、言うまでもない。作者は、いま、理由もなく不機嫌である」という言葉で、この奇妙な構成の短編小説を締めくくるのでした。
小説「俗天使」の長文感想(ネタバレあり)
この「俗天使」という作品を読むと、いつも何とも言えない、ざわざわとした気持ちになります。太宰治の創作の現場、その生々しい葛藤がそのまま紙の上に現れているような、そんな印象を受けるからでしょうか。単なる物語として読むだけでなく、作者自身の息遣いまで聞こえてくるような、不思議な魅力を持った短編だと感じています。
まず冒頭、ミケランジェロの「最後の審判」の聖母像に打ちのめされ、執筆意欲を失う語り手の姿には、創作者としての苦悩が痛いほど伝わってきます。偉大な芸術に触れたとき、自分の仕事が途端にちっぽけで、意味のないものに思えてしまう感覚。これは、何かを作り出そうとしたことのある人なら、少なからず共感できるのではないでしょうか。高尚なものへの憧れと、それに対する自身の無力感。そのアンバランスさが、作品全体の基調をなしているように思います。
聖母像の気高さに圧倒された語り手が、次に見出すのは「陋巷の聖母」です。路地裏のような、日常の片隅に存在する、名もなき女性たちの姿。支那そば屋の女中さんや、看護師さん。彼女たちの行為は、ミケランジェロの描く聖母のような壮大なものではありません。しかし、そこには見返りを求めない、ささやかだけれど確かな優しさ、温かさがあります。「私」が食べ残したそばにこっそり卵を入れてくれる行為は、貧しいけれど心温まる、まさに日常に潜む「聖性」と言えるかもしれません。
この支那そば屋の女中さんのエピソードは、特に心に残ります。誰に見せるでもない、ほんのささやかな親切。しかし、受けた側にとっては忘れられない記憶として残る。こうした日常の中の小さな光景を掬い上げ、「聖母」という言葉と結びつける太宰の感性は、やはり非凡なものだと感じます。壮大な宗教画の聖母と、路地裏の女中さん。その対比が鮮やかです。
次に登場する看護師さんのエピソードも同様です。規則を少しだけ曲げて、患者のために薬を余分に渡してくれる。これもまた、規則や効率といったものとは別の次元にある、人間的な温情です。医師に知られぬよう、というところが、その行為の「密やかさ」を強調していて、より印象的になります。語り手は、こうした女性たちの中に、ミケランジェロの聖母とは違う種類の、しかし本質的には通じるかもしれない「聖なるもの」を見出そうとしているのかもしれません。
そして、湯治場で見送りに来た娘さん。具体的なエピソードは多く語られませんが、これもまた語り手の記憶の中で、清らかな存在として輝いているのでしょう。これらの「陋巷の聖母」たちは、語り手の個人的な記憶の中に存在する、いわば「私的な聖母」です。普遍的な芸術作品としての聖母像とは対照的に、個人的な体験に基づいた、ささやかで、しかし確かな存在感を放っています。
しかし、こうした「陋巷の聖母」の記憶もすぐに尽きてしまう。創作の泉が枯渇してしまうのです。ここで語り手は、「あとはもう捏造するより他はない」と、ある種開き直ったかのように、少女の手紙を挿入します。この「捏造」という言葉が、非常に引っかかります。なぜわざわざ「捏造」と断る必要があったのでしょうか。実際には、この手紙は『女生徒』の素材となった日記を提供した有明淑という女性から太宰に宛てられた、実在の手紙が元になっていると言われています。
この手紙の部分は、作品の雰囲気をがらりと変えます。それまでの、やや観念的で内省的な語りから一転して、少女の瑞々しい日常が、そのままの言葉で綴られていきます。「お母さんが『女生徒』を読みたいとおっしゃいました」「あたしは、お金入れと、それから口紅も買ったんだけれど、こんな話、やっばり、つまらない?」といった言葉には、気取りと不安が入り混じった、思春期の少女特有の心理がよく表れています。
特に印象的なのは、新しく買ったお金入れの描写です。「口金にあたしの顔が小さく丸く映っていて、なかなか可愛く見えました」「これからあたしは、このお金いれを開ける時には、他の人がお金入れを開ける時とは、ちがった心構えをしなければならなくなりました」。この細やかな観察眼と、自分だけのささやかな秘密を大切にする気持ち。なんとも可愛らしく、少女らしい感性だなと感じます。ここには、ミケランジェロの聖母とも、「陋巷の聖母」とも違う、もっと軽やかで、移ろいやすい、しかし確かな生命感が溢れています。
手紙の中で、少女は「つまらない?」「だめだわね」と、しきりに「をぢさん」の反応を気にしています。『女生徒』の語り手(これも有明淑の日記が元ですが)が、もっと内面に向かって自由に語っていたのとは対照的です。これは、自分の日記が『女生徒』として発表され、多くの人に読まれたことで、他者の視線を意識するようになった少女の変化を表しているのかもしれません。かつては無垢な素材を提供してくれた存在が、今は書き手(太宰)の反応を窺うようになってしまった。
ここで、櫻田俊子氏の論文にある解釈が興味深いものとなります。櫻田氏は、この手紙の少女こそが「俗天使」なのではないかと指摘しています。ミケランジェロの聖母や「陋巷のマリヤ」が、多くを語らず、ある種の聖性を保っているのに対し、手紙の少女は饒舌で、書き手の「御機嫌買い」のような側面を見せる。そして、結局のところ、語り手が求めるような「小説のネタ」になるような特別な話を提供できたわけではない。
この、書きたくても書けない語り手と、何かを伝えようとするけれど、どこか空回りしてしまう手紙の少女。両者は、創作(あるいは自己表現)の苦しみという点で、どこか重なり合っているように見えます。かつて『女生徒』という作品を生み出すきっかけを与えてくれた少女は、語り手にとって「天使」のような存在だったかもしれません。しかし今、彼女自身もまた、表現することの難しさや他者の視線といった「俗」なるものに囚われている。その意味で、彼女は「俗」なる世界に生きる「天使」、「俗天使」なのではないか、という解釈です。
この解釈を踏まえると、タイトル「俗天使」の意味がより深く理解できる気がします。「俗」でありながら「天使」でもある、という矛盾した存在。それは手紙の少女だけでなく、もしかしたら語り手自身、太宰治自身の姿を映しているのかもしれません。高尚な芸術に憧れながらも、日常の俗事や創作の苦悩から逃れられない。聖なるものと俗なるものとの間で揺れ動く、人間の姿そのものを「俗天使」という言葉で表現したのではないでしょうか。
そして、最後の「作者は、いま、理由もなく不機嫌である」という一文。これもまた、非常に印象的です。書き終えた安堵感ではなく、むしろ不満や苛立ちのようなものが漂っています。これは、出来上がった作品に対する自己評価の低さの表れなのでしょうか。それとも、創作という行為そのものがもたらす、割り切れない感情なのでしょうか。あるいは、「捏造」という手段を使ってしまったことへの後ろめたさのようなものも含まれているのかもしれません。明確な答えはありませんが、この「不機嫌」さが、作品に独特の後味を残しています。
「俗天使」は、構成が入り組んでいて、一見すると何を言いたいのか掴みにくい作品かもしれません。しかし、ミケランジェロの聖母、「陋巷の聖母」、そして「俗天使」としての少女という、三様の女性像を通して、太宰治が「聖」と「俗」、「芸術」と「日常」、「創作」と「現実」といったテーマについて、深く思索していたことがうかがえます。書けない苦しみ、それでも書かなければならないという切迫感、そして書き上げた後の割り切れない思い。そうした創作者の生々しい姿が、この作品の核心にあるように、私には感じられるのです。
まとめ
太宰治の短編小説「俗天使」について、物語の筋立てと、ネタバレを含む詳しい内容、そして私なりの長文での読み解きをお届けしました。ミケランジェロの絵画に心を奪われ、執筆に行き詰まった語り手が、過去の記憶の中の「陋巷の聖母」たちを思い出し、最終的には少女の手紙を「捏造」として組み込むという、少し変わった構成の作品です。
物語の紹介では、語り手の苦悩から始まり、支那そば屋の女中や看護師といった日常に生きる女性たちのささやかな聖性、そして後半に挿入される少女の手紙の内容まで、結末に触れながら詳しく解説しました。この手紙の部分が、『女生徒』との関連も含めて、作品理解の鍵を握る要素となっています。
そして、私が感じたこととして、「俗天使」というタイトルに込められた意味や、登場する女性たちの対比、太宰自身の創作への葛藤などを掘り下げてみました。「聖」と「俗」の間で揺れ動く人間の姿や、書くことの難しさと向き合う作者の生々しい感情が、この作品の深い魅力となっていると感じます。特に、手紙の少女を「俗天使」と捉える解釈は、作品を読み解く上で非常に興味深い視点です。
「俗天使」は、太宰作品の中でも特異な位置を占める短編ですが、そこには彼の文学の本質に触れるような要素が詰まっているように思います。この記事が、「俗天使」という作品への興味を深め、より豊かな読書体験を得るための一助となれば幸いです。ぜひ、ご自身の目で読んで、その独特の世界観を味わってみてください。