小説「ツリーハウス」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。
角田光代さんが描く家族の物語は、いつも私たちの心のどこかにある、言葉にならない感情を丁寧に掬い上げてくれるように感じます。この「ツリーハウス」も、まさにそんな作品の一つです。新宿で中華料理店「翡翠飯店」を営む藤代家三代にわたる物語は、読んでいるうちに、まるで自分自身の家族の歴史を辿っているかのような、不思議な感覚に包まれます。
この記事では、まず物語の骨格となる部分、藤代家の歴史とその変遷を、物語の核心に触れつつお伝えします。なぜ彼らは「普通」とは少し違うと感じられるのか、その源流には何があったのか。物語の結末にも触れていますので、まだ知りたくない方はご注意くださいね。
そして、物語を読み終えて私が感じたこと、考えたことを、たっぷりと書き連ねてみました。藤代家の人々の生き方、時代の流れとの関わり、そして「家族」というものの形について、深く考えさせられました。皆さんがこの物語をどのように受け止められるか、共有できたら嬉しいです。
小説「ツリーハウス」のあらすじ
藤代良嗣(ふじしろ よしつぐ)は、新宿で中華料理店「翡翠飯店」を営む家に生まれ育ちました。中学生になる頃から、自分の家族がどこか他の家とは違う、奇妙なバランスの上に成り立っているように感じ始めます。家族それぞれが自分の世界を持ち、互いに深く干渉しない。それは気楽ではあるけれど、どこか頼りなく、まるで地面にしっかりと根を張っていないかのようでした。
高校生になり、将来を考える時期になっても、家族は相変わらず。そんなある日、祖父が自宅で亡くなっているのを良嗣が発見します。祖父の死をきっかけに、良嗣はこれまで知らなかった家族の歴史、特に祖父母の過去に興味を持つようになります。葬儀の後、祖母ヤエがぽつりと「帰りたいよう」と呟いた言葉が、良嗣の心を捉えました。
良嗣は一時就職したものの、違和感を覚えて退職。自分自身の生き方を見つめ直すと同時に、藤代家の「根っこ」を探るため、祖母ヤエ、そして父の弟である叔父の太二郎と共に、祖父母が出会ったという中国へ旅立つことを決意します。祖母にとっては、それは予期せぬ「帰郷」の旅でもありました。
旅の準備や道中、そして現地で触れる情報から、祖父母、泰造とヤエの満州での過酷な日々が少しずつ明らかになります。泰造は満州移民として渡ったものの厳しい現実に耐えきれず、ヤエもまた日本での生活から逃れるように満州へ渡り、バーで働いていました。二人は出会い、戦争の激化から逃れるようにして、中国人夫婦に助けられながら生き延びます。
終戦後、助けてくれた人々への後ろめたさを感じながらも、生きるために日本へ引き揚げてきた二人。何も持たずに帰国し、苦しい生活の中、中国で覚えた料理を頼りに「翡翠飯店」を築き上げたのでした。彼らは過去を多く語らず、ただひたすらに「今」を生きてきたのです。それは、良嗣の父・慎之輔や叔父・太二郎、叔母・今日子の世代にも、それぞれの形で影響を与えていました。
中国への旅を経て、良嗣は祖父母が何も持たずに日本へ帰ってきた背景にあるもの、そして藤代家を形作ってきたものが、確固たる「根っこ」ではなく、むしろ未来への漠然とした「希望」であったのかもしれない、と気づいていきます。家族とは何か、歴史とは何か、そして自分はどう生きていくのか。良嗣の探求は、静かに続いていくのでした。
小説「ツリーハウス」の長文感想(ネタバレあり)
この「ツリーハウス」という物語を読み終えたとき、心の中に深く、そして静かに響くものがありました。それは、藤代家という、どこか掴みどころのない、それでいて妙にリアルな家族の姿を通して、私たち自身の「家族」や「生きること」そのものについて、改めて考えさせられたからだと思います。物語の核心に触れながら、私が感じたことをお話しさせてください。
まず、主人公の良嗣が抱く「うちの家族は、ほかの家とは違うんじゃないか」という感覚。これが、物語の大きな駆動力になっていますよね。互いに干渉せず、個々が自由に振る舞う。一見、理想的な関係のようにも思えますが、良嗣はそこに「根っこのなさ」、つまり、拠り所となる確かな基盤がないような心許なさを感じています。この感覚、多かれ少なかれ、多くの人が家族に対して抱いたことがあるのではないでしょうか。特に思春期や、自分の人生の岐路に立ったとき、自分が属する「家」というものの輪郭を確かめたくなる。良嗣の疑問は、とても普遍的なものだと感じました。
物語が動き出すのは、祖父・泰造の死です。家族が誰も涙を見せない葬儀の光景は、藤代家のドライな関係性を象徴しているかのようです。しかし、その死が、これまで蓋をされていた過去への扉を開くきっかけとなります。特に、祖母ヤエの「帰りたいよう」という一言。それは、単なる郷愁ではなく、彼女が生きてきた長い時間、そして語られなかった歴史の重みを感じさせる、非常に印象的な言葉でした。ここから、良嗣の「ルーツ探し」の旅が始まります。
祖母ヤエと叔父太二郎との中国への旅は、単なる観光旅行ではありません。それは、藤代家の、特に祖父母世代の「空白」を埋めようとする試みであり、過去と現在を繋ごうとする行為です。しかし、旅先で明らかになるのは、輝かしい成功譚や、感動的な再会の物語ではありませんでした。むしろ、戦争という大きな時代の波に翻弄され、必死に生き延びてきた、名もなき個人の姿でした。
満州での祖父母、泰造とヤエの出会いと生活。移民として渡ったものの挫折した泰造、日本から逃れるようにやってきたヤエ。二人が寄り添い、戦火を逃れ、中国人夫婦にかくまわれながら生き延びた日々。そして終戦後の引き揚げ。そこには、英雄的な行為も、劇的なドラマもありません。ただ、生きるために必死だった人々の姿があるだけです。角田さんの筆致は、そうした過酷な状況下での人間の弱さやずるさ、そして、それでも失われない生への渇望を、淡々と、しかし克明に描き出していきます。
興味深いのは、この祖父母の過去を知ったからといって、良嗣が感じていた「根っこのなさ」が完全に解消されるわけではない、という点です。むしろ、祖父母もまた、確固たる意志や計画性を持って生きてきたわけではなく、時代の流れの中で、その場その場を必死に生きてきた「流されてきた」存在だったのではないか、と良嗣は感じます。歴史という大きな物語と、個人のささやかな生活の間には、埋められない溝があるのかもしれません。祖父母の過去は、藤代家の「起源」を説明するものではあっても、現代に生きる良嗣たちの「支え」となるような、確固たる「根っこ」そのものではないのかもしれません。
物語は、良嗣の父・慎之輔の世代にも光を当てます。家業である中華料理店への反発、漫画家を目指して家を飛び出すものの挫折、そして弟・基三郎の死をきっかけに家業を継ぐ決意をする。彼の人生もまた、理想と現実の間で揺れ動き、「逃げる」ことと「向き合う」ことを繰り返しながら進んできました。インテリの女子大生だった文江との結婚も、どこか行き当たりばったりのようでありながら、それが藤代家の新しい世代へと繋がっていきます。
叔父の太二郎の人生は、さらに迷走しているように見えます。教師としての挫折、女子生徒との心中未遂、そしてカルト宗教への傾倒。彼は常に何かを探し求め、しかしどこにも安住の地を見つけられないかのようです。彼の不安定さは、藤代家に流れる「根っこのなさ」を、より象徴的に表しているのかもしれません。彼の存在は、読んでいて痛々しくもあり、しかし、その弱さや迷いに共感してしまう部分もありました。
そして、叔母の今日子。結婚生活での悩み、不妊、夫の不倫、そして離婚を経て、ゴールデン街で自分の店を持つ。彼女もまた、自分自身の力で人生を切り開こうともがいています。藤代家の人々は、皆、どこか不器用で、世渡り上手とは言えないかもしれません。しかし、それぞれが自分なりのやり方で、人生の困難に立ち向かおうとしている姿が描かれています。
忘れてはならないのが、若くして自殺した叔父・基三郎の存在です。学生運動に深く関わっていた彼の死は、藤代家の歴史の中に、ぽっかりと空いた穴のように存在しています。彼の苦悩や死の真相は、詳しく語られることはありません。しかし、その「語られなさ」が、かえって時代の大きなうねりと、それに翻弄された個人の悲劇を強く印象付けます。歴史の影の部分、言葉にならない痛みが、そこには確かに存在しているのです。
良嗣たち、三代目の子どもたちの世代は、親や祖父母の世代とはまた違う空気をまとっています。兄の基樹、姉の早苗、そして良嗣。彼らは、より自由に、あるいは、より掴みどころなく生きています。親世代が経験したような、時代の大きな出来事との直接的な関わりは薄いかもしれません。しかし、彼らもまた、現代社会の中で、自分たちの生きる道を探しています。その姿は、現代を生きる私たちの姿と重なる部分も多いのではないでしょうか。
藤代家の「無関心」「無干渉」とも見えるあり方は、果たして良いことなのか、悪いことなのか。それは、簡単な二元論では割り切れない問題です。互いに縛り付けない自由さがある一方で、困ったときに寄りかかる場所がないような、孤独や不安も常に隣り合わせです。この物語は、「家族とはこうあるべき」という理想像を提示するのではなく、多様な家族の形があり得ることを示唆し、私たちに「家族」という単位の意味を改めて問いかけているように思います。
ここで、「ツリーハウス」というタイトルについて考えてみます。ツリーハウスは、文字通り、木の上に建てられた家。大地にしっかりと根を張っているわけではなく、どこか浮遊感があり、一時的な住まいのような印象も与えます。それはまさに、藤代家の姿そのものを象徴しているのではないでしょうか。確固たる大地(=根っこ、歴史、伝統)に支えられているわけではないけれど、不安定ながらも寄り集まり、互いの存在を支えにしながら、そこに「暮らし」を築いている。そんな家族のあり方を、このタイトルは巧みに表現していると感じます。
角田光代さんの文章は、派手さはないかもしれませんが、非常に緻密で、人々の感情の機微や、時代の空気を丁寧に描き出しています。特に、良嗣の主観的な視点と、歴史的な出来事を客観的に記述する視点が交互に現れる構成は、秀逸だと思いました。良嗣には知り得ない過去の事実が読者には開示されることで、歴史の大きさと、個人の視点の限界が同時に示されます。そして、何気ない日常の描写、例えば「翡翠飯店」の厨房の様子や、食卓の風景などが、驚くほど生き生きと描かれており、それが物語に確かな手触りを与えています。
物語の終盤、中国から帰国し、やがて静かに息を引き取る祖母ヤエ。そして、良嗣が至る結論。「自分たちの家族には根っこがないと思っていたが、祖父母は何も持たず出会い、何も持たずに逃げ帰ってきたのは、希望があったからだ」。この気づきは、非常に重要です。過去の歴史や血筋といった「根っこ」だけが、家族を形作るのではない。むしろ、未来へ向かう、たとえ漠然としていても「こうありたい」「生きていきたい」という「希望」こそが、人々を結びつけ、家族という形を作っていくのではないか。良嗣は、過去への探求を通して、未来への視点を得たのかもしれません。この結末は、静かでありながら、深い余韻を残します。藤代家の人々が、これからもきっと、ぶつかったり、離れたりしながらも、それぞれの「ツリーハウス」で生きていくのだろう、そんな予感を抱かせます。
まとめ
角田光代さんの小説「ツリーハウス」は、新宿の中華料理店「翡翠飯店」を営む藤代家三代の物語を通して、「家族」というものの不思議さ、そして時代の流れの中で生きる個人の姿を描き出した、深く心に残る作品でした。主人公・良嗣が感じる「根っこのなさ」への疑問から始まる物語は、祖父母の満州での過去へと遡り、戦争や時代の大きな出来事に翻弄されながらも必死に生きてきた人々の姿を浮かび上がらせます。
物語は、藤代家の人々が互いに深く干渉せず、自由奔放に生きる様子を描きます。それは一見ドライに見えますが、同時に、個々が抱える葛藤や弱さ、そして人生の選択を丁寧に掬い取っています。父・慎之輔の挫折と再起、叔父・太二郎の迷走、叔母・今日子の自立など、それぞれの人生が、時代の空気と共にリアルに描かれています。
良嗣は、祖父母の過去を知ることで、家族を繋ぐものが確固たる「根っこ」だけではないことに気づきます。何も持たずに戦後の日本で生きてきた祖父母が抱いていたであろう、未来への漠然とした「希望」。それこそが、不安定ながらも寄り集まって生きる藤代家を支えてきたのかもしれない、と。この気づきは、私たち読者にも、「家族」や「生きること」について新たな視点を与えてくれるように感じます。
「ツリーハウス」は、派手な出来事が起こるわけではありませんが、淡々とした筆致の中に、人間の営みの確かさ、そして時代の重みが凝縮された物語です。読み終えた後、自分の家族や、これまでの人生について、静かに思いを馳せたくなる、そんな一冊でした。