小説「モノグラム」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

江戸川乱歩が1926年に発表した短編「モノグラム」。一見すると、中年男性が過去の淡い恋を振り返る、少しセンチメンタルな物語のようにも読めます。しかし、そこは乱歩作品。単純なノスタルジーだけでは終わりません。

物語は、ある男と見知らぬ青年との奇妙な出会いから始まります。お互いに見覚えがあるような、ないような…。この「デジャヴ」にも似た感覚の謎を追ううちに、過去の記憶、忘れかけていた恋心、そして思いがけない真実が明らかになっていきます。

この記事では、「モノグラム」の物語の顛末、その結末に至るまでの流れを詳しくお伝えします。そして、物語を読み解く上で感じたこと、考えたことを、結末の暴露も含めてじっくりと語っていきたいと思います。乱歩が仕掛けた巧妙な罠と、人間の記憶や思い込みの不思議さを一緒に味わっていただければ幸いです。

小説「モノグラム」のあらすじ

四十歳で失業中の栗原一造は、ある日の午後、浅草公園のベンチで時間を持て余していました。すると、三十歳くらいの若者が隣に座り、「どこかでお会いしませんでしたか?」と話しかけてきます。栗原には若者の名前に覚えはありませんでしたが、確かにどこかで会ったことがあるような、妙に懐かしい感覚を覚えました。若者の笑顔が、かつて親しかった誰かの面影を帯びているように感じられたのです。

若者は田中三良と名乗りました。栗原と田中は、互いの経歴や過去の住まい、旅行先などを語り合いますが、二人が知り合う接点は見つかりません。にもかかわらず、話しているうちに、二人は以前からの知り合いであるかのような確信を深めていきます。しかし、それがいつ、どこでのことなのか、どうしても思い出せません。結局その日は、互いの連絡先を交換して別れることになりました。

数日後、栗原はふと思い立って田中の下宿を訪ねます。すると田中は、「わかりました。北川すみ子という女性をご存知ですか?」と切り出します。栗原はその名前をよく知っていました。北川すみ子は、栗原が学生時代に密かに心を寄せていた女性だったのです。仲間内ではいつも注目の的となる美しい人でしたが、栗原の片思いは実ることなく、彼はすみ子と同じ女学校出身のお園と結婚したのでした。

田中は、すみ子が自分の姉であることを明かします。姉は幼い頃に北川家へ養子に出され、女学校卒業後に田中家に戻るも、まもなく病気で亡くなったというのです。栗原は、田中の顔立ちにすみ子の面影があったことに納得します。田中は続けて、姉の形見だという古い懐中鏡を栗原に見せました。

その懐中鏡の裏蓋には、若い頃の栗原自身の写真が大切そうに隠されていました。田中はこの写真で栗原の顔を知っていたのです。さらに鏡の表には、SとIの二つのアルファベットを組み合わせた刺繍、すなわち「モノグラム」が施されていました。田中は、これは「すみ子のS」と「一造のI」に違いない、姉は栗原のことを想っていたのだ、と指摘します。

栗原は、懐中鏡とすみ子の写真を譲り受け、複雑な思いで家路につきます。かつて憧れたすみ子が、自分を好きでいてくれたかもしれない。信じられない気持ちと、抑えきれない喜びが交錯し、栗原はすみ子のことばかり考えるようになります。しかしある日、その懐中鏡と写真が妻のお園に見つかってしまいます。妻の激しい嫉妬を恐れる栗原でしたが、お園の反応は意外なものでした。彼女は懐中鏡を懐かしそうに手に取り、「あら、これは女学校の修学旅行の時に盗まれたと思っていた私の鏡じゃありませんか」と言ったのです。Sは「すみ子」ではなく「園」のS。写真も、お園自身が入れていたものだったのでした。すみ子の手癖の悪さは、女学校時代には有名な話だったという事実も付け加えて。栗原は、二重の意味で深く落胆したのでした。

小説「モノグラム」の長文感想(ネタバレあり)

江戸川乱歩の「モノグラム」を読み終えた時、多くの読者は栗原と同じように、二重のがっかり感を味わうのではないでしょうか。淡い期待が見事に裏切られる結末は、乱歩らしいと言えば乱歩らしいのですが、どこか物悲しさも漂います。今回は、この作品が持つ多層的な魅力、特に記憶の曖昧さや思い込みの力について、結末の内容に触れながら深く掘り下げてみたいと思います。

まず、主人公である栗原一造の置かれた状況が、物語に深みを与えています。四十歳で失業中、公園のベンチでぼんやりと過ごす彼の姿には、人生の停滞感や、どこか満たされない思いが滲み出ています。そんな彼の前に現れた田中三良という青年との出会いは、単調な日常に差し込んだ一筋の光のように感じられたのかもしれません。

栗原が田中に感じた「どこかで会ったことがある」という感覚。これは、物語の重要な仕掛けの一つです。読者も栗原と共に、その既視感の正体を探っていくことになります。そして、それがかつての片思いの相手、北川すみ子の面影であると判明した時、栗原の心には忘れかけていた青春時代の甘酸っぱい記憶が蘇ります。失われた時間を取り戻すかのように、彼の心は色づき始めるのです。

しかし、この物語の巧みさは、栗原のすみ子に対する記憶が決して客観的なものではないことを示唆している点にあります。彼はすみ子を「クイーン」として理想化し、美しく輝かしい存在として記憶の中に留めています。片思いというフィルターを通して見た彼女の姿は、現実のすみ子とは異なっていた可能性が高いのです。この美化された記憶こそが、後の大きな勘違いを生む土壌となります。

田中三良の役割も非常に興味深いですね。彼は単なるメッセンジャーではなく、栗原の過去を現在に引き戻す触媒として機能します。彼が持ってきた懐中鏡と、そこに隠された栗原自身の若い頃の写真。そして決定的なのが、SとIのモノグラムです。これが「すみ子のS」と「一造のI」だと田中が指摘した瞬間、栗原の中で眠っていた希望が一気に燃え上がります。

ここで「デジャヴ」について考えてみましょう。栗原と田中が互いに感じた既視感は、単に田中がすみ子に似ていたからだけなのでしょうか。もちろん、それが大きな要因であることは間違いありません。しかし、それだけでは説明しきれないような、もっと深いレベルでの魂の共鳴のようなものを二人は感じていたのかもしれません。あるいは、失業という状況が栗原の精神状態に影響を与え、過去の出来事や人物に対する感受性を高めていたとも考えられます。人間の記憶や認識がいかに曖昧で、主観的なものであるかを、このデジャヴの描写は巧みに示唆しています。

「世界には自分に似た人が三人いる」という俗説がありますが、この物語は顔の類似性が引き起こすドラマを描いています。田中がすみ子に似ていたこと、そして栗原がその類似性に強く引かれたこと。それは、単なる外見の問題だけではなく、栗原が心の奥底で求めていた何か、失われた過去への憧憬と結びついていたのではないでしょうか。顔が似ているという事実が、彼の願望を投影するスクリーンとなったのです。

そして、物語の核心である「モノグラム」。SとIの刺繍は、栗原にとって、長年の片思いが報われるかもしれないという甘美な可能性の象徴となります。失われた青春、報われなかった恋心が、この小さなモノグラムによって肯定されるかのように感じられたのでしょう。彼は、このモノグラムに自身の願望を重ね合わせ、都合の良い解釈へと突き進んでしまいます。

しかし、その希望は脆くも崩れ去ります。Sはすみ子ではなく、妻である園のイニシャルだった。このどんでん返しは、読者に衝撃を与えると同時に、栗原の勘違いがいかに根深いものであったかを明らかにします。彼は、目の前にある事実(妻の持ち物である可能性)よりも、自身の願望(すみ子が自分を想っていてくれたという期待)を優先してしまったのです。

北川すみ子の人物像も、この物語の重要な要素です。栗原の記憶の中では美化された存在ですが、妻お園の口から語られる彼女は「手癖が悪かった」という、全く異なる側面を持っています。このギャップは、人の記憶がいかに一面的であり、都合よく編集されうるかを示しています。栗原は、すみ子の美しい側面だけを見て、その裏にあるかもしれない影の部分には目を向けていなかったのかもしれません。

妻お園の最後の告白は、物語を一気に現実へと引き戻します。彼女の冷静な口調と、懐中鏡に対するあっさりとした反応は、栗原の感傷的な思い込みとは対照的です。彼女がヒステリー持ちであるという伏線も、最後の場面で効果的に機能しています。普段感情的な彼女が、この件に関しては淡々としている。その対比が、真相の持つ重みを際立たせています。お園の言葉は、栗原の甘い夢を打ち砕くと同時に、彼が築き上げてきた過去のイメージそのものを揺るがすのです。

このどんでん返しは、単に驚きを与えるだけでなく、人間の「思い込み」や「自己中心的な解釈」という普遍的なテーマを浮き彫りにします。私たちは誰しも、自分が見たいように世界を見て、聞きたいように物語を解釈してしまう傾向があります。栗原の失敗は、他人事ではなく、私たち自身の心の中にも潜んでいる可能性を示唆しているのです。

物語の舞台である大正末期から昭和初期にかけての時代背景も、作品の雰囲気を醸し出す上で重要です。モダンな響きを持つ「モノグラム」というタイトルと、懐中鏡という少し古風な小道具。西洋文化が流入し、人々の生活や価値観が変化していく時代の空気感が、栗原のノスタルジーと微妙に響き合っています。江戸川乱歩の初期作品には、このような日常に潜む奇妙さや、人間の心理の襞を描き出すものが多いですが、「モノグラム」もその系譜に連なる作品と言えるでしょう。

最終的に、栗原が味わった「二重のがっかり」。それは、すみ子が自分を好きではなかったという事実と、その勘違いの元となった懐中鏡が、実は妻のものであり、しかもそれをすみ子が盗んだ可能性が高いという、二つの失望です。しかし、このがっかり感の先には、何があるのでしょうか。単なる失望だけでなく、人間の滑稽さや、どうしようもない哀愁のようなものも感じられます。理想化していた過去の偶像が崩れ去った時、彼は現実の妻との関係性や、自身の現在と向き合わざるを得なくなるのかもしれません。読後には、少しほろ苦い、しかし忘れがたい余韻が残ります。

まとめ

江戸川乱歩の短編「モノグラム」は、失業中の中年男性・栗原が、見知らぬ青年・田中との出会いをきっかけに、過去の淡い恋と向き合う物語です。二人が互いに感じた既視感の謎、そして青年が持っていた姉の形見である懐中鏡のモノグラムが、物語を思わぬ方向へと導いていきます。

栗原は、SとIのモノグラムを、かつて片思いしていた北川すみ子と自身のイニシャルだと信じ込み、彼女もまた自分を想っていてくれたのではないかと期待を膨らませます。失われた青春を取り戻すかのような甘美な夢に浸る栗原でしたが、その期待は脆くも崩れ去ることになります。

結末では、その懐中鏡が実は妻・お園のものであり、Sはお園のイニシャルだったことが判明します。さらに、すみ子がお園からそれを盗んでいた可能性まで示唆され、栗原は二重の衝撃を受けるのです。このどんでん返しは、乱歩作品ならではの妙味であり、読者に鮮烈な印象を残します。

「モノグラム」は、単なる恋愛譚やミステリにとどまらず、人間の記憶の曖昧さ、都合の良い思い込み、理想と現実のギャップといった普遍的なテーマを描き出しています。読後には、少し切なく、ほろ苦い、しかし人間の性を考えさせられる深い余韻が残る、味わい深い一編と言えるでしょう。