小説『マスカレード・イブ』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。東野圭吾氏が手掛ける「マスカレード」シリーズ、その第二幕として世に放たれたのがこの『マスカレード・イブ』。華やかな一流ホテル「ホテル・コルテシア東京」とその姉妹ホテル「ホテル・コルテシア大阪」を舞台に、宿泊客たちが隠し持つ”仮面”の下の素顔と、そこに蠢く事件の影を描いた短編集ですな。
前作『マスカレード・ホテル』で読者を魅了した、あのホテルウーマン・山岸尚美と刑事・新田浩介。彼らがまだ出会う前の物語、いわば”前日譚”が、ここに収められています。若き日の彼らが、それぞれの持ち場でいかにしてプロフェッショナリズムを磨き上げ、後の活躍に繋がる経験を積んでいったのか。その過程を垣間見ることができる趣向、というわけです。
この記事では、『マスカレード・イブ』に収録された四つの物語の概要と、その核心に触れる部分、そしていささか辛口かもしれませんが、私の個人的な評価を綴っていきましょう。これから本書を手に取る方も、既に読了された方も、しばしお付き合いいただければ幸いです。ただし、核心部分に触れますゆえ、未読の方はご注意を。
小説「マスカレード・イブ」の概要
『マスカレード・イブ』は、四つの独立した物語から構成される短編集です。一流ホテルを舞台に、宿泊客や従業員、そして捜査官たちが織りなす人間模様と、そこに潜むミステリが描かれています。
第一話「それぞれの仮面」では、ホテル・コルテシア東京のフロントクラークとなった山岸尚美が主役です。彼女がまだ若手だった頃、大学時代の元恋人が客として現れます。彼は愛人が失踪したと尚美に相談を持ちかけますが、その裏には予期せぬ計算が隠されているのです。ホテルという舞台で、尚美が顧客の”仮面”と自身の過去に向き合う姿が描かれます。
第二話「ルーキー登場」は、若き日の新田浩介に焦点を当てます。警視庁捜査一課に配属されたばかりの新米刑事・新田が、実業家殺害事件の捜査に挑みます。持ち前の鋭い観察眼で偽装工作を見抜く新田ですが、事件の奥には、巧妙に人を操る女性の影が…。後の彼の捜査スタイルの萌芽が見て取れる一編と言えましょう。
第三話「仮面と覆面」では、再び舞台はホテル・コルテシア東京へ。美人女流作家を一目見ようと集まったオタクグループと、その作家の”秘密”を守ろうとする尚美たちの攻防が描かれます。覆面作家の正体をめぐる騒動は、予想外の結末を迎えます。人々の思い込みや”見た目”という仮面がテーマとなっていますな。
第四話、表題作でもある「マスカレード・イブ」では、ホテル・コルテシア大阪の開業応援で現地に赴いた尚美と、東京で発生した大学教授殺害事件を追う新田、二人の視点が交錯します。容疑者のアリバイ工作、二つの事件を結びつける意外な繋がり、そして『マスカレード・ホテル』へと続く事件の予兆が描かれ、シリーズの連続性を強く感じさせる中編となっています。
小説「マスカレード・イブ」の長文評価(ネタバレあり)
さて、ここからは『マスカレード・イブ』の核心に踏み込み、私の評価を述べさせていただきましょう。前作『マスカレード・ホテル』が、ホテルという閉鎖空間で連続殺人犯を追うという、緊迫感あふれる長編であったのに対し、本作は四つの独立したエピソードを連ねた短編集。正直なところ、前作ほどのスケール感や読後感は期待しない方がよろしいかと存じます。良くも悪くも、これは”前日譚”であり、主要キャラクターの”人物紹介”と”シリーズのテーマ提示”に重きを置いた作品、という印象が拭えません。
まず「それぞれの仮面」。ホテルウーマンとしてのキャリアを歩み始めたばかりの山岸尚美が描かれます。フロントに配属されて間もない彼女の前に、大学時代の元カレ・宮原が現れる。聞けば、不倫相手の西村美枝子が自殺を仄めかして失踪したという。尚美はホテルウーマンとしての職務と個人的な感情の間で揺れ動きながらも、真相を探ろうとします。このエピソードのミステリ要素は、率直に言って凡庸です。失踪した女性の行方も、その動機も、さほど意外性はありません。むしろ、注目すべきは尚美の過去と、彼女がホテルという場所で何を学んでいくのか、という点でしょう。宮原のような男と付き合っていた過去を持つ尚美が、一流ホテルのフロントで毅然と客と向き合う姿には、成長の軌跡が感じられます。しかし、西村美枝子のキャラクター造形はややステレオタイプで、物語に深みを与えているとは言い難い。彼女の計算高さも、どこか浅薄に見えてしまうのです。そして、先輩クラーク久我の「プレジデンシャル・スイート以外は満室」という対応。これが一流ホテルのやり方かと問われれば、首を傾げざるを得ませんな。物語の都合が見え隠れしてしまうのは、少々興醒めです。尚美のホテルウーマンとしての矜持や葛藤を描こうとしている点は評価できますが、ミステリとしては物足りなさが残ります。
次に「ルーキー登場」。こちらは若き日の新田浩介が主役です。捜査一課の新人として、実業家・田所昇一殺害事件を担当します。ホワイトデーの夜に起きたこの事件、当初は単純な強盗殺人かと思われましたが、新田は被害者の妻・美千代の些細な言動から、巧妙な偽装工作を見抜きます。料理教室の生徒・横森仁志が犯人として逮捕されますが、真の黒幕は美千代。彼女が横森を巧みに誘導し、夫を殺害させた、というのが真相です。このエピソードは、東野作品らしい「悪女」が登場する点で、先の「それぞれの仮面」よりは興趣をそそります。美千代の周到さと冷徹さは、まさに”仮面”を被った人間の恐ろしさを体現していると言えましょう。新田の閃きや推理の過程も、彼のキャラクター性を際立たせる上で効果的です。しかし、これもまた、トリック自体に驚きは少ない。むしろ、新田というキャラクターが、いかにして事件の”本質”を見抜く刑事へと成長していくのか、その一端を示すためのエピソードという側面が強いように感じられます。「マスカレード」というテーマには合致していますが、ミステリとしての斬新さには欠ける、というのが正直な感想です。新田のルーキー時代の未熟さや、先輩刑事・本宮とのやり取りは、後の活躍を知る読者にとっては興味深い部分かもしれませんが、それだけでは物語全体の評価を引き上げるには至りません。
第三話「仮面と覆面」。再び舞台はホテル・コルテシア東京。人気美人女流作家タチバナサクラがお忍びで宿泊するという情報を聞きつけ、五人のオタクグループがホテルに押しかけます。尚美はトラブルを未然に防ごうと奔走しますが、実はタチバナサクラの正体は玉村薫という中年男性だという。しかし、尚美は缶詰のはずの玉村が外出する姿を目撃し、疑問を抱きます。このエピソードは、”覆面作家”という設定自体は面白いものの、展開はやや安直に感じられます。オタクグループの描写も、やや記号的で深みがありません。彼らが作家の”仮面”を剥がそうとする行動と、それを阻止しようとするホテル側の攻防は、コメディタッチで描かれていますが、どこか上滑りしている印象を受けます。そして、最大の”捻り”である、本当のタチバナサクラは玉村の娘だった、という結末。これは、伏線が十分に機能しているとは言えず、唐突感が否めません。ミステリの醍醐味である「驚き」というよりは、「後出しジャンケン」のような印象です。まるで月の裏側のように、普段は見せない顔を持っているものですな、人間というものは。しかし、それを効果的に見せるための仕掛けが不足していると言わざるを得ません。尚美の機転やホテルウーマンとしてのプロ意識は描かれていますが、物語全体の構成としては凡庸な出来栄えです。
最後に、表題作「マスカレード・イブ」。これは他の三編に比べてボリュームがあり、中編と呼ぶべき作品です。ホテル・コルテシア大阪の開業応援に派遣された尚美と、東京で大学教授・岡島孝雄殺害事件を追う新田。二人の視点が交互に描かれ、物語が進んでいきます。容疑者として浮上した准教授・南原定之のアリバイ工作。当初、彼は京都にいたと主張しますが、新田たちの捜査で嘘が暴かれ、事件当日はホテル・コルテシア大阪に宿泊していたことが判明します。ここで、新田と尚美の”接点”が生まれるわけです。事件の真相は、南原と、彼と不倫関係にあった実業家・畑山玲子による”交換殺人”。南原は岡島教授を、玲子は過去に自分を陥れたホステス・伊村由里を、互いに殺害し、アリバイを工作していたのです。この交換殺人というプロット自体は、ミステリの定石ではありますが、特に畑山玲子の動機付けには疑問符が付きます。彼女が「南原に完璧なアリバイがあるとまずい」と主張する理由が、どうにも腑に落ちない。物語の都合に合わせたような、やや強引な設定に感じられます。また、新田とコンビを組む所轄の刑事・穂積理沙の存在も、どこか中途半端です。彼女のキャラクターが物語に深みを与えているとは言い難く、もしかすると映像化を意識したキャラクター配置なのかもしれませんな。とはいえ、このエピソードは、新田と尚美がそれぞれの場所で”プロフェッショナル”として事件に向き合う姿を描き、後の『マスカレード・ホテル』での共闘を予感させる点で、シリーズにおける重要性は高いと言えるでしょう。エピローグで語られる、『ホテル』の事件の発端も、シリーズファンにとっては見逃せないポイントです。しかし、ミステリとしての完成度という点では、やはり疑問が残ります。
『マスカレード・イブ』は、前作『マスカレード・ホテル』の成功を受けて書かれた、ファンサービス的な側面が強い作品と言えるでしょう。新田浩介と山岸尚美という魅力的なキャラクターの”過去”を描くことで、シリーズの世界観を補強する役割は果たしています。ホテルという舞台設定、”仮面”というテーマも一貫しており、東野作品らしい読みやすさは健在です。しかし、個々のエピソードのミステリとしての質は、正直なところ玉石混交、いや、”石”の方が多いと言わざるを得ません。トリックや動機に斬新さはなく、展開も予想の範囲内に収まるものがほとんどです。キャラクターの魅力に依存している部分が大きく、物語自体の力で読者を引き込む力は、前作に比べて格段に弱い。特に、ミステリとしての緻密さや驚きを期待して読むと、肩透かしを食らう可能性が高いでしょう。これは、あくまで新田と尚美、そして「マスカレード」の世界観を楽しむための”前菜”あるいは”幕間劇”のようなもの。メインディッシュたる『マスカレード・ホテル』をより深く味わうための副読本、と捉えるのが妥当かもしれません。穿った見方をすれば、人気シリーズを延命させるための”つなぎ”の作品、という評価もできてしまう。もちろん、東野圭吾氏ほどの作家ですから、単なるつなぎで終わらせるはずもなく、キャラクターの深掘りやテーマの再提示といった意図は感じられます。しかし、作品単体としての完成度を問われれば、手放しで称賛するには躊躇を覚える、というのが偽らざる評価です。辛口すぎるとお思いかもしれませんが、期待値が高かっただけに、この評価はやむを得ないところです。
まとめ
東野圭吾氏の『マスカレード・イブ』、これは『マスカレード・ホテル』で我々を魅了した世界観の”前日譚”を描いた短編集です。若き日の山岸尚美と新田浩介が、それぞれの持ち場でいかにしてプロフェッショナルとしての礎を築いていったのか、その過程を垣間見ることができます。ホテルという華やかな舞台の裏側で交錯する人々の”仮面”と”素顔”、そしてそこに潜む事件の数々。
四つの物語は、いずれも「マスカレード」というテーマで貫かれていますが、ミステリとしての出来栄えには、正直なところばらつきがありますな。キャラクターの魅力に頼る部分が大きく、物語自体の意外性や深みという点では、前作に及ばないというのが私の見解です。特に、トリックやプロットの斬新さを期待すると、少々物足りなさを感じるかもしれません。
とはいえ、シリーズのファンにとっては、主要キャラクターの過去を知り、後の物語への繋がりを発見する楽しみがあるでしょう。新田と尚美が、いかにしてあの鋭い観察眼とプロ意識を培ってきたのか。それを知ることで、『マスカレード・ホテル』や続編を、より深く味わうことができるはずです。本作は、シリーズを読み進める上での”通過点”として、あるいはキャラクターたちの”オリジンストーリー”として読むのが、最も賢明な愉しみ方と言えるのではないでしょうか。