
小説『ブルータスの心臓』のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この物語は、野心という名の病に取り憑かれた男たちの、愚かしくも哀れな末路を描いた悲喜劇、いや、悲劇というべきでしょうな。一人の女を巡る完全犯罪計画が、いかに脆く、そして皮肉な結末を迎えることになるのか。実に興味深いではありませんか。
東野圭吾氏が初期に放ったこの一作、現代の洗練された作品群とはまた異なる、粗削りながらも迸るような情念を感じさせます。上昇志向、嫉妬、裏切り…人間の持つ業というものが、これでもかと詰め込まれている。完全犯罪を目論む者たちの浅はかさと、それを翻弄する見えざる手の存在。まさに、人間という存在の不可解さを描き出した作品と言えるでしょう。
本稿では、この『ブルータスの心臓』という作品の物語の筋立てを追いながら、その核心に隠された真実、そして登場人物たちの心理の深層に迫ってみたいと思います。もちろん、結末に至る重要な仕掛けについても触れざるを得ません。未読の方はご注意いただきたい。しかし、すでに読まれた方にとっては、改めてこの物語の持つ深淵を覗き込む良い機会となるはずです。さあ、始めましょうか。
小説「ブルータスの心臓」のあらすじ
舞台は、産業用ロボット開発で名を馳せる大企業、MM重工。そこで若きエリートとして将来を嘱望される研究者、末永拓也がこの物語の主役です。彼は貧しい出自ながらも、持ち前の野心と能力でのし上がり、ついには創業者一族の令嬢・仁科星子との結婚によって、会社のトップへの道を掴もうとしていました。彼の人生設計は、まさに順風満帆に進むかに見えたのです。
しかし、彼の計画に暗雲をもたらす存在が現れます。それは、愛人関係にあった同僚、雨宮康子。彼女が拓也の子を妊娠し、出産を望んでいると告げたのです。星子との結婚を目前にした拓也にとって、康子の存在は邪魔者以外の何者でもありません。自身の輝かしい未来のため、彼は康子を排除することを決意します。冷徹な判断ですが、野心のためなら手段を選ばない、彼の本質が露わになる瞬間です。
そんな折、拓也は星子の兄であり、自身の上司でもある仁科直樹から呼び出されます。そこには同僚の橋本敦司の姿も。驚くべきことに、直樹も橋本もまた、康子と関係を持ち、同様に妊娠を盾に脅されていたのです。共通の敵を持つ三人の男たち。直樹は、前代未聞の「完全犯罪殺人リレー」計画を提案します。大阪で康子を殺害し、三人がリレー形式で遺体を名古屋、厚木、そして東京へと運び、アリバイを完璧に作り上げるというものでした。
計画は寸分の狂いなく実行されるはずでした。A(直樹)、B(拓也)、C(橋本)の役割分担も決まり、運命の夜が訪れます。名古屋で待つ拓也のもとに、直樹が運転してきた車が到着する。しかし、拓也がトランクの中身を確認したとき、事態は予想もしない方向へ転がります。そこに横たわっていたのは、康子ではなく、計画の発案者であるはずの直樹の死体だったのです。完全犯罪計画は、開始早々に破綻を迎え、男たちは疑心暗鬼と恐怖の渦へと叩き落されるのでした。
小説「ブルータスの心臓」の長文感想(ネタバレあり)
さて、この『ブルータスの心臓』という物語、実に人間という生き物の業の深さ、そして愚かさを描き出した作品と言わざるを得ませんね。完全犯罪を目論む男たちの浅はかな計画と、それが思わぬ形で崩壊していく様は、ある種の滑稽さすら漂わせています。フッ、完璧な計画など、人間が介在する限り存在し得ないということでしょう。
まず注目すべきは、この「完全犯罪殺人リレー」という計画そのものです。一人の女を消すために、三人の男が共謀し、死体をリレー形式で運ぶことでアリバイを作り出す。一見すると巧妙な企みに思えますが、裏を返せば、それはあまりにも脆い砂上の楼閣に過ぎません。参加者全員が互いを完全に信頼し、寸分の狂いもなく役割を遂行するなど、土台無理な話なのです。ましてや、彼らはそれぞれに野心や保身という動機を抱えている。裏切りが起こらない方が不思議というものです。
発案者である仁科直樹が、真っ先にその計画の犠牲者となる展開は、まさに皮肉としか言いようがありません。彼は連判状まで用意し、裏切りを防ごうとしましたが、その連判状こそが、後に新たな疑念と殺意を招く火種となるのですから。直樹はカードマジックを得意としていたという伏線がありましたが、彼自身が仕掛けた計画の中に、「D」という予期せぬジョーカー、いや、死神が潜んでいたわけです。彼が殺されたことで、計画は根底から覆り、残された拓也と橋本は、互いを疑いながら破滅への道を突き進むことになります。
主人公である末永拓也。彼は貧しい環境から抜け出し、成功を掴むためならば手段を選ばない、典型的な上昇志向の塊として描かれています。社長令嬢との結婚という玉の輿を目前にして、邪魔な愛人を排除しようとする思考は、倫理観など欠片もない、剥き出しの欲望そのものです。しかし、彼の計画は序盤で頓挫し、状況は刻一刻と悪化していく。当初の被害者であるはずだった康子が生きており、共犯者だったはずの橋本が殺され、そして警察の捜査の手が迫る。追い詰められた拓也は、自ら手を汚して康子を殺害し、完全な殺人者へと変貌を遂げていきます。この転落の過程は、野心という名の魔物に取り憑かれた人間の末路として、実に克明に描かれています。彼が抱える父親への憎悪も、その歪んだ人格形成に影響を与えているのでしょう。しかし、その上昇志向も、結局は自らを破滅へと導く力にしかならなかった。哀れな男です。
そして、物語の鍵を握る悪女、雨宮康子。彼女もまた、したたかな計算高さで男たちを手玉に取り、自らの望むものを手に入れようとします。拓也、直樹、橋本、さらには彼らの父親である社長の仁科敏樹とも関係を持っていたというのですから、その業の深さには呆れるほかありません。彼女は一体、誰の子どもを身ごもり、何を求めていたのか。金か、地位か、それとも単なる破滅願望だったのか。結局、彼女の計算高さも、自らの死を招く結果となりました。男たちの野心と欲望の渦の中で、彼女は駒として利用され、そして使い捨てられた。ある意味、この物語で最も哀れな存在だったのかもしれません。
この連続殺人の真犯人は、実に意外な人物でした。工場の片隅で黙々とロボットと向き合っていた男、酒井悟郎。彼は、拓也たちが属するエリート集団とは対極にいるような存在です。しかし、彼の中にもまた、歪んだ情念が渦巻いていた。同僚であり、想いを寄せる中森弓絵の婚約者への嫉妬。そして、自分だけが日の当たらない部署に追いやられているという不満。それらが、ロボットの誤作動に見せかけた殺人という凶行へと彼を駆り立てたのです。この最初の殺人が、すべての悲劇の始まりでした。
悟郎の犯行は、直樹によって見抜かれ、彼はその弱みを握られて利用されることになります。康子殺害計画において、直樹は悟郎を「D」として組み込み、自らの手を汚さずに康子を殺害させようとした。しかし、悟郎は考えます。「どうせ殺すなら、自分を利用した直樹を殺すべきだ」と。そして、直樹が用意した毒物を利用し、逆に直樹を殺害。さらに、連判状から拓也と橋本の存在を知り、彼らにも毒物を送りつけ、橋本を殺害に至らしめます。彼の動機は、嫉妬や不満といった個人的な感情から発したものでしたが、それは連鎖反応のように、次々と新たな殺意を生み出していくのです。悟郎が抱える「人間らしい仕事がしたい」という願望も、皮肉なことに、彼を人間性を欠いた殺人者へと変貌させる一因となったのかもしれません。登場人物たちの欲望は、まるで底なし沼のように、互いを引きずり込んでいくのです。
終盤、拓也は独自の調査で悟郎の犯行にたどり着き、実験室で対決します。しかし、あと一歩のところで弓絵に邪魔をされ、形勢は逆転。そして、拓也は自分が開発したロボット「ブルータス」に、悟郎の操作によって殺害されるという、あまりにも皮肉な結末を迎えます。このタイトル回収は見事と言うほかありません。「ブルータス、お前もか」。シーザーが信頼していた者に裏切られたように、拓也もまた、自らが心血を注いで生み出した存在によって、その命を奪われるのです。それは、開発者(親)が被造物(子)に討たれるという、科学技術の進歩がもたらすかもしれない未来への警鐘のようでもあり、また、拓也自身の父への憎しみが、形を変えて自分に返ってきたかのようでもあります。
拓也と直樹は、境遇こそ違えど、共に父親との確執を抱えていました。もし、康子という存在がなければ、彼らは歪んだ形ながらも、ある種の共感を抱く友人になれたのかもしれません。しかし、現実は非情です。彼らは互いを排除すべき敵とみなし、破滅への道を突き進んだ。人間関係の複雑さ、そして運命の皮肉を感じずにはいられません。
この作品は、東野圭吾氏の初期作品ならではの、荒々しいエネルギーに満ちています。トリックやプロットに若干の粗さを感じる部分がないわけではありませんが、それを補って余りある人間ドラマの濃密さがあります。野心、嫉妬、裏切り、復讐といった人間の負の感情が、これでもかと描かれ、読者を息苦しくさせるほどです。特に、登場人物たちがことごとく救いようのない状況へと追い込まれていく様は、ある種の様式美すら感じさせます。結末を知っていても、いや、知っているからこそ、彼らの破滅への道のりを冷ややかに、しかし興味深く見つめてしまうのです。
ロボット工学という当時の最先端技術を背景にしながらも、描かれているのは極めて普遍的な人間の愛憎劇。技術が進歩しても、人間の本質は変わらないということでしょうか。フッ、実に示唆に富んだ物語ではありませんか。このやるせない読後感こそが、本作の持つ魅力なのかもしれません。
まとめ
さて、東野圭吾氏の『ブルータスの心臓』について、あらすじから始まり、ネタバレを含む詳細な感想、いや、私なりの解釈を述べてきましたがいかがでしたかな? 野心に燃えるエリート研究者が、愛人の妊娠という躓きから、完全犯罪という泥沼へと足を踏み入れ、ついには自らが作り出したロボットによって破滅するという、実に皮肉に満ちた物語でした。
「完全犯罪殺人リレー」という大胆な計画は、人間の持つ裏切りや計算違いによって、いとも簡単に崩れ去ります。登場人物たちは、己の欲望や保身のために互いを疑い、陥れ、そして殺し合う。その様は、人間の愚かさや業の深さをまざまざと見せつけてくれます。真犯人の動機や、タイトルにもなっている「ブルータス」の意味が明らかになる終盤の展開は、まさに圧巻と言えるでしょう。
初期の作品ゆえの荒削りな部分も散見されますが、それを補って余りある濃密な人間ドラマと、読者の予想を裏切る展開は、さすが東野圭吾氏といったところです。人間の暗部を覗き見たいという欲求を持つ諸君には、ぜひ手に取っていただきたい一冊と言えますね。ただし、読後、しばらく人間不信に陥ったとしても、それは自己責任ということで。