小説「ブラック・ベルベット」のあらすじを物語の核心に触れる部分も含めて紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

本作は、恩田陸先生が描く神原恵弥シリーズの第3作目にあたります。イケメンで切れ者、だけど女言葉を使うという、一度読んだら忘れられない魅力的な主人公・恵弥が、今回も複雑な事件に巻き込まれていきます。舞台となるのは、エキゾチックな雰囲気が漂う中東のT共和国。おそらく、シリーズ1作目『MAZE』と同じくトルコがモデルになっているのでしょうね。

今回の物語は、過去作で登場した人物たちが再登場するのも見どころの一つです。恵弥の高校時代の友人である満や、元恋人の橘浩文、そして恵弥に依頼を持ちかける多田直樹など、シリーズを追いかけてきた方にはたまらない展開が待っています。もちろん、この作品から読み始めても十分に楽しめる、骨太なミステリ・サスペンスとなっています。

この記事では、まず物語の筋道を追いかけ、その後で物語の核心や結末にも触れながら、じっくりと作品の魅力について語っていきたいと思います。T共和国の独特な空気感の中で繰り広げられる、幾重にも重なった謎と、その先に待つ驚きの真実を、一緒に味わっていきましょう。

小説「ブラック・ベルベット」のあらすじ

世界中を飛び回り、新種の薬の種を探すプラントハンターであり、アメリカの大手製薬会社ウィザード・コーポレーションにも籍を置く神原恵弥。ある日、彼は国立感染症研究所の職員である多田直樹から、人探しの依頼を受けます。探しているのは、多田の義理の姉であり、水質浄化研究の権威であるアキコ・スタンバーグ博士。彼女はT共和国での国際会議の後、休暇を取って滞在しているはずが、予定を過ぎても帰国せず、消息を絶ってしまったというのです。

恵弥は依頼を引き受け、T共和国へ向かいます。しかし、彼にはもう一つ、個人的な目的がありました。それは、高校時代の恋人であり、現在は大手ゼネコンG建設に勤め、T共和国で巨大な橋の建設プロジェクトを指揮している橘浩文との再会です。橘は警察庁が武器輸出の疑いで密かに監視している人物でもありました。複雑な思いを抱えながら、恵弥は異国の地へと降り立ちます。

イスタンブールのホテルで橘と再会を果たした恵弥。二人は昔話に花を咲かせますが、恵弥は橘の表情にどこか暗い影を感じ取ります。その後、橘に勧められたレストランへ向かった恵弥は、窓の外で信じられない光景を目撃します。緑色のワンピースを着た東洋人らしき女性が、見知らぬ男にナイフで刺され、倒れる瞬間を。その女性は、スタンバーグ博士によく似ていました。

翌日、アメリカ人旅行客が通り魔に刺殺されたというニュースが報じられます。しかし、恵弥は違和感を拭えません。自分が目撃した女性は、写真で見たスタンバーグ博士よりも明らかに背が高かったのです。恵弥は事件の裏に何かあると直感し、調査を開始します。やがて、スタンバーグ博士が研究していた「ブラック・ベルベット」という謎の物質と、ウィザード・コーポレーションが関わる巨大な陰謀の存在が浮かび上がってきます。

スタンバーグ博士は、「ブラック・ベルベット」の研究過程で、ウィザード・コーポレーションがT共和国で秘密裏に生物兵器を製造し、その過程で環境汚染を引き起こしていた事実を掴んでいました。そのために命を狙われるようになった彼女は、自身の死を偽装する必要に迫られます。恵弥が目撃した殺人事件は、彼女が仕組んだ替え玉を使った芝居だったのです。真相を見抜いた恵弥は、彼女の安全を守るため、会社にはスタンバーグ博士は死亡したと報告します。

一方、橘もまた、父親への罪滅ぼしのために、T共和国での武器輸出に関わる情報を探り、日本の警察に流していました。恵弥は危険な行為だと忠告しますが、橘もまた、恵弥にウィザード・コーポレーションを辞めるよう勧めます。それぞれの秘密と目的が交錯する中、恵弥は帰国前、妹の和見に頼まれたトルコじゅうたんを探しにイスタンブールのバザールへ立ち寄ります。雑踏の中、緑色のワンピースを着て帽子で顔を隠した小柄な女性が、すれ違いざまに「恵弥さん、ありがとう」と囁き、人混みの中へと消えていくのでした。

小説「ブラック・ベルベット」の長文感想(ネタバレあり)

恩田陸先生の描く神原恵弥シリーズ、その第3弾となる『ブラック・ベルベット』。この作品を読み終えた今、異国の喧騒と、幾重にも仕掛けられた謎、そして登場人物たちの複雑な想いが、まるで深い余韻のように心に残っています。まず語りたいのは、やはり主人公・神原恵弥の圧倒的な存在感ですよね。

恵弥は、見た目は精悍で端正な美青年でありながら、会話は常に女言葉。プラントハンターとして世界を駆け巡り、驚異的な映像記憶能力や地図を立体的に把握する能力を持つ、まさに超人的な人物です。しかし、その特異な設定は単なるキャラクター付けに留まらず、彼の内面や、周囲との関係性に深みを与えています。特に、性自認は男性でありながらバイセクシュアルという設定は、本作で再会する元恋人・橘浩文との関係において、切なくも複雑な陰影を投げかけているように感じました。

橘との再会シーンは、シリーズを読んできた者にとっては、待ちに待った瞬間だったのではないでしょうか。『クレオパトラの夢』で名前だけが登場し、その過去が示唆されていただけに、期待は高まります。しかし、実際に再会した橘は、恵弥が「澱のような濁った何かと、底知れぬ淵のような闇」を感じるほど、何かを抱え込んでいる様子。エリートコースを歩みながらも、恵弥との過去や自身の性的指向に悩み、父親への罪滅ぼしのために危険な調査に手を染める彼の姿は、物語のもう一つの軸として、恵弥の捜査と絡み合いながら展開していきます。二人の間の、言葉にはならないけれど確かに存在する緊張感や、かつての恋人同士だからこその遠慮のないやり取りは、読んでいて胸が締め付けられるようでした。

そして、この物語の舞台となるT共和国、おそらくはトルコでしょうが、その描写がまた素晴らしいのです。ヨーロッパとアジアが交錯するエキゾチックな雰囲気、イスタンブールの活気ある街並み、喧騒に満ちたバザール。まるで自分がその場にいるかのような臨場感あふれる描写は、恩田陸先生の真骨頂と言えるでしょう。シリーズ1作目『MAZE』が広大な荒野を舞台にしていたのとは対照的に、本作では市街地や観光地が中心となり、また違った趣があります。この異国情緒あふれる舞台設定が、恵弥のミステリアスな雰囲気とも見事に調和していると感じました。

物語の核となるミステリ要素も、本作は非常に複雑で重層的です。失踪した女性研究者アキコ・スタンバーグの行方、彼女が研究していた謎の物質「ブラック・ベルベット」、夢のような鎮痛剤「D・F」の噂、暗躍する「アンタレス」と呼ばれる人物、黒い苔に覆われた死体の噂、そして橘が抱える秘密…。次から次へと現れる謎、謎、謎。読んでいるうちに、「あれ、何が目的で、誰が怪しかったんだっけ?」と、良い意味で翻弄されてしまいます。

特に、スタンバーグ博士の失踪の真相には驚かされました。彼女は単に誘拐されたり殺害されたりしたのではなく、自らの意志で、巨大な陰謀から逃れるために、そして告発の機会をうかがうために、「死」を偽装する必要があったのです。恵弥が偶然(?)目撃した殺人事件が、実は彼女が仕組んだ替え玉を使った巧妙な芝居だったとは。しかも、その目撃者にウィザード・コーポレーションの関係者である恵弥を選んだという計算高さ。彼女の強い意志と覚悟には、ただただ圧倒されます。

アキコ・スタンバーグというキャラクターは、恵弥とはまた違うタイプの、強さと知性を兼ね備えた女性として描かれていますよね。水質浄化の専門家として、環境汚染という現代的な問題に立ち向かい、その過程で巨大企業の暗部、生物兵器製造という恐ろしい事実にたどり着いてしまう。彼女の研究対象である「ブラック・ベルベット」自体も、毒を中和するという、まさに光と影を併せ持つような存在として描かれており、物語全体に象徴的な意味合いを与えているように思えます。

そして、彼女を追う(結果的に助けることになる)恵弥の行動原理も興味深いところです。彼は製薬会社に籍を置きながらも、組織の論理に完全には染まらず、独自の価値観で動いているように見えます。スタンバーグ博士の計画を見抜きながらも、彼女の死を会社に報告し、結果的に彼女の逃亡を手助けする。それは単なる同情や正義感だけではない、もっと複雑な、彼自身の生き方や美学に基づいた選択だったのかもしれません。

忘れてはならないのが、シリーズの「癒し担当」とも言われる時枝満の再登場です。1作目では料理上手な一面を見せていましたが、本作ではT共和国で焼き鳥屋を複数経営する実業家として登場。その人懐っこい見た目とは裏腹に、広い人脈を駆使して恵弥の調査をサポートする姿は、頼もしくもあり、彼の多面的な魅力を改めて感じさせます。彼のような存在がいることで、シリアスで重厚な物語の中に、ふっと息をつける瞬間が生まれているのは間違いありません。個人的には、恵弥の妹・和見との今後の関係も気になるところです。

物語の終盤、橘が抱えていた秘密も明らかになります。警察官僚の父親が期待したであろう「普通の人生」を歩めなかったことへの罪滅ぼしとして、父親の退職を前に、武器輸出に関する情報を集めていたという事実。恵弥の忠告も聞かず、危険な領域に踏み込んでいく彼の姿は痛々しくもありますが、それもまた彼の選択なのでしょう。恵弥との別れ際の、「早くウィザード・コーポレーションを辞めてフリーになれ」というアドバイスは、橘なりの友情や心配の表れだったのかもしれませんね。

そして、ラストシーン。妹に頼まれたトルコじゅうたんを探しに訪れたバザールの雑踏で、恵弥は緑色のワンピースを着た小柄な女性とすれ違います。帽子で顔は隠されていますが、その女性が「恵弥さん、ありがとう」と囁く。それは、死んだはずのアキコ・スタンバーグ博士その人でした。彼女は生き延び、どこかで反撃の機会をうかがっている。恵弥への感謝の言葉を残し、再び人混みの中へと消えていく彼女の後ろ姿は、鮮烈な印象を残します。この結末は、決して単純なハッピーエンドではありませんが、一筋の希望と、物語の続きを予感させる、非常に巧みな終わり方だと感じました。

『ブラック・ベルベット』というタイトルも、物語全体を象徴しているように思います。スタンバーグ博士が研究していた黒い苔のような物質そのものを指すと同時に、滑らかで美しいけれど、どこか暗く、秘密を隠し持っているような、そんなイメージ。恵弥や橘が抱える内面の複雑さや、物語に漂う陰謀の匂いとも重なります。

この作品は、神原恵弥シリーズの第3作目として、過去作で築き上げてきたキャラクターや世界観をさらに深掘りしつつ、単体のミステリ・サスペンスとしても非常に高い完成度を誇っています。複雑に絡み合った謎が、最後には見事に一つの線へと収束していく構成力は、さすが恩田陸先生と唸らされるばかりです。

読み終えた後には、イスタンブールの喧騒や、登場人物たちの息遣い、そして「ブラック・ベルベット」が持つ不思議な質感が、強く心に残ります。恵弥の次なる冒険、そしてスタンバーグ博士のその後、橘との関係の変化など、今後のシリーズ展開への期待もますます高まりました。

まとめ

恩田陸先生の『ブラック・ベルベット』は、魅力的なキャラクター、複雑に絡み合う謎、そして異国情緒あふれる舞台設定が見事に融合した、読み応えのあるミステリ・サスペンスでした。主人公・神原恵弥の個性的な魅力はもちろん、元恋人・橘との再会や、消息を絶った女性研究者・スタンバーグ博士を巡る陰謀など、複数のストーリーラインが巧みに織りなされています。

T共和国(トルコ)の街並みや空気感が伝わってくるような臨場感あふれる描写も、物語への没入感を高めてくれます。次々と提示される謎に翻弄されながらも、最後にはそれらが綺麗に収束していく展開は、まさに圧巻の一言。読み終わった後には、爽快感とともに、深い余韻が残ることでしょう。

神原恵弥シリーズのファンにとっては、過去の登場人物たちの再登場など、嬉しい要素が満載の一冊です。もちろん、この作品から初めてシリーズに触れる方でも、独立した物語として十分に楽しむことができます。骨太なミステリやサスペンスが好きな方、異国の雰囲気を味わいたい方、そして何より、一筋縄ではいかない魅力的な登場人物たちの物語に触れたい方におすすめしたい作品です。

手に取れば、きっとあなたも『ブラック・ベルベット』の世界に引き込まれ、恵弥と共にT共和国の謎を追うことになるはずです。