小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この物語は、辻村深月氏が紡ぎ出す、母と娘、そして友という、切っても切れない人間関係の深淵を描いた作品と言えるでしょう。誰もが心のどこかに隠し持つかもしれない感情の澱を、巧みに掬い上げています。

山梨の閉塞感漂う地方都市で育った二人の女性、神宮寺みずほと望月チエミ。彼女たちの幼少期からの繋がりと、時を経て変化していく関係性、そして決定的な断絶と再生が、読む者の心を揺さぶらずにはおかないでしょう。一見すると対照的な二人の母親との関係が、物語に複雑な陰影を与えているのは間違いありません。

本稿では、まず物語の骨子となる「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」のあらすじを紐解き、その後、ネタバレを多分に含みつつ、この作品が投げかける問いについて、じっくりと考えてみたいと思います。心の準備はよろしいでしょうか? 深く、そして少しばかり痛みを伴うかもしれない旅路へ、ご案内いたしましょう。

小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」のあらすじ

物語の舞台は、山梨県塩山市。この地で、神宮寺みずほと望月チエミは、幼い頃から姉妹のように育ちました。みずほの母は厳格で教育熱心、対してチエミの母、千草はおおらかで、みずほにとっては理想の母親像に映ったのかもしれません。二人は同じ幼稚園、小学校、中学校で学び、家族ぐるみの付き合いを続けます。しかし、高校進学を機に、二人の道は少しずつ離れていくのです。みずほは進学校を経て東京の大学へ、チエミは地元の高校、短大へと進み、地元企業に就職します。

時が流れ、30歳を目前にしたみずほは、東京でフリーライターとして自立した生活を送っていました。一方、チエミは地元で契約社員として働き、どこか満たされない日々を送っていたようです。疎遠になっていた二人ですが、ある日、みずほのもとに山梨県警の刑事が訪れます。告げられたのは、チエミの母・千草が自宅で刺殺体となって発見され、同居していたチエミが事件後、行方をくらませているという衝撃的な知らせでした。チエミの通帳やキャッシュカードもなくなっており、彼女は重要参考人とされていました。

信じがたい報せに、みずほはチエミの行方を追うことを決意します。チエミが事件前に訪ねたという小学校時代の恩師、添田紀美子先生の元へ向かいます。そこで、チエミが誰にも言えない秘密を抱えていたことを知るのです。チエミは妊娠しており、しかも相手は既婚者。添田先生に、富山県高岡市にある育愛病院の赤ちゃんポストに子供を預けるつもりであること、そして出産までの間、高岡にある先生の空き家を貸してほしいと頼んでいたのでした。先生がチエミに鍵を渡し、住所を教えた翌日に、千草の事件が報道されたのです。

みずほは、チエミが向かったであろう富山県高岡市へ。育愛病院を訪ねますが、個人情報を理由に協力は得られません。しかし、みずほ自身の流産の経験を打ち明け、親友を助けたい一心であることを訴えます。一方、事件当日、チエミは妊娠を母・千草に告げますが、猛反対されます。「自分を殺してから行け」と包丁を持ち出す母ともみ合いになり、偶発的に母を刺してしまったのです。千草は最期に「逃げなさい」と言い、「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」という数字を遺します。それはチエミの誕生日から取ったキャッシュカードの暗証番号でした。母が遺した金で、チエミは高岡へ向かうのです。しかし、その逃避行の先で、思いがけない人物との出会い、そして幼馴染との再会が待っているのでした。

小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」の長文感想(ネタバレあり)

さて、ここからは「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」の世界により深く分け入り、その核心に触れていくことにしましょう。ネタバレを避けたい方は、ここで引き返すのが賢明かもしれませんね。この物語が投げかけるものは、決して甘美なだけではありませんから。むしろ、苦味や痛みを伴う、人間の生々しい感情の交錯そのものと言えるでしょう。

まず、この物語の根幹を成すのは、疑いようもなく「母と娘」の関係性です。作中で示唆される『すべての娘は、自分の母親に等しく傷つけられている』という言葉は、重く、そして鋭く、読者の胸に突き刺さります。みずほとその母、チエミとその母・千草。二組の母娘は、実に対照的に描かれています。

みずほの母は、世間体を重んじ、娘に高い理想を課す、いわゆる「教育ママ」の典型かもしれません。コーラやスナック菓子を禁じ、テストの点数が良くても決して褒めず、「あなたならもっとできる」と期待をかける。娘の自立を促しているようでいて、その実、母親自身の価値観という名の檻に娘を閉じ込めようとしているかのようにも見えます。みずほが地元を飛び出し、東京で自立した道を歩むのは、この母からの精神的な独立を果たすためだった、とも解釈できるのではないでしょうか。しかし、興味深いのは、みずほが心のどこかで、そんな母の「ちゃんとした」部分に、ある種の憧憬や基準のようなものを抱いていたフシもあることです。

一方、チエミの母・千草は、おおらかで、娘の自由に任せるタイプの母親として描かれます。「女の子は地元で就職して結婚するのが幸せ」と考え、娘の成績にも寛容です。食べたいものを与え、多くを求めない。一見すると、理想的な優しい母親に思えるかもしれません。事実、幼いみずほは、この千草に強く惹かれ、「チエミのお母さんが自分のお母さんだったら」と願ったほどです。しかし、この「優しさ」や「放任」が、チエミの自立心や主体性を育む上で、必ずしも良い影響ばかりを与えたわけではない、という見方もできるでしょう。チエミが常に誰かの判断を仰ぎ、自分一人ではなかなか行動に移せない性格になった背景には、この母の「甘さ」が一因となっているのかもしれません。そして、チエミ自身もまた、厳格ながらも娘に高い目標を設定するみずほの母のような存在に、密かな憧れを抱いていたのではないでしょうか。

まるで合わせ鏡のように、互いの姿を映し出しながらも、決して完全に重なることのない関係性。隣の芝生は青く見える、とはよく言いますが、母娘の関係においても、この言葉は真理の一端を突いているのかもしれません。みずほは千草の寛容さに、チエミはみずほの母の厳格さに、それぞれが自分に欠けていると感じるものを相手の母親に見出し、羨望する。しかし、現実はどうでしょう。どちらの母親が「正解」で、どちらが「間違い」なのか。そんな単純な二元論で割り切れるはずもありません。母親もまた、一人の未熟な人間であり、手探りで子育てという未知の領域を進んでいるに過ぎないのですから。その過程で、良かれと思ってかけた言葉や行動が、意図せず娘を傷つけてしまう。あるいは、娘が求めるものとは違う形でしか愛情を表現できない。そうした行き違いや誤解が積み重なった先に、この物語の悲劇があると言えるでしょう。

そして、この複雑な母娘関係は、みずほとチエミ、二人の幼馴染の関係性にも色濃く影を落とします。幼い頃は純粋な友情で結ばれていた二人ですが、成長するにつれて、互いに対する羨望、嫉妬、そして優越感や劣等感といった、より複雑な感情が絡み合ってきます。

東京でフリーライターとして活躍し、洗練された生活を送るみずほ。彼女は、地元に残り、変化のない日常を送るチエミや、合コンに明け暮れる他の女性たちに対し、どこか見下したような視線を向けている瞬間があります。自立している自分と、誰かに依存しなければ生きていけないように見える彼女たち。その対比の中で、自身の優位性を確認しているかのようです。しかし、その一方で、みずほ自身もまた、故郷や過去の人間関係から完全に自由になっているわけではありません。チエミの事件を知り、危険を顧みず彼女を追う行動の根底には、かつての純粋な友情と共に、チエミに対するある種の責任感や、もしかしたら優越感とは裏腹の、断ち切れない繋がりへの執着があったのかもしれません。

対するチエミは、常にみずほに対して強い劣等感を抱いています。勉強もでき、自分の意見をはっきりと言え、行動力もあるみずほ。そんな彼女と自分を比較し、落ち込む。地元の短大を出て、契約社員として働く現状に不満を感じながらも、自ら環境を変える勇気を持てない。そんな彼女が、みずほと同じ大学のサークルにいたという大地と付き合うことで、一時的にみずほと同じステージに立てたような錯覚を覚える心理は、痛々しいほどにリアルです。大地が他の女性と結婚すると知ってもなお、彼の子を妊娠することで、みずほとの「同じ年の子供を産む」という幼い日の約束を果たそうとする行動は、歪んだ形ではありますが、みずほへの強い対抗意識と、母親になることへの切実な願いの表れと言えるでしょう。

この二人の関係性は、単なる個人の問題に留まらず、現代社会が抱える様々な問題を映し出しているようにも思えます。地方と都会の格差、正規雇用と非正規雇用の壁、女性の生き方の多様化とそれに伴う葛藤、SNS時代の他者との比較による自己肯定感の揺らぎ。辻村氏は、こうした社会的な背景を巧みに織り込みながら、登場人物たちの心理を深く掘り下げていきます。合コン仲間たちの会話に垣間見える、他人の持ち物やステータスへの執着、結婚に対する焦りや嫉妬。チエミの会社の同僚が彼女に向ける、「自己責任」という名のもとに発せられる鋭い批判。これらの描写は、読んでいて決して心地よいものではありませんが、私たちの周りに確かに存在する現実の一側面を切り取っていると言えるでしょう。

そして、物語は衝撃的なクライマックスへと向かいます。母を殺めてしまったチエミの逃避行。その過程で出会う大学生・山田翠との束の間の穏やかな日々。しかし、それも長くは続かず、再び追われる身となります。偽名を使い、変装し、孤独と恐怖の中で彷徨うチエミ。そんな彼女の前に現れたのは、探し続けていたみずほでした。「チエ」と呼びかける声。それは、過去と現在、そして未来を繋ぐ希望の響きだったのかもしれません。車道に飛び出し、抱き合う二人。周囲の喧騒も、二人にとっては遠い世界の出来事のようです。

この再会の場面で、チエミがみずほに向かって叫ぶ「お母さんに会いたい!」という言葉。これが、この物語の核心であり、最も胸を打つ瞬間と言えるでしょう。憎しみや怒りではなく、ただ、母に認められたかった、愛されたかったという、娘としての根源的な渇望。それは、チエミだけのものではなく、もしかしたら、みずほの中にも、そしてこの物語を読む多くの娘たちの心の中にも存在する叫びなのかもしれません。どんなに傷つけ合い、すれ違ったとしても、母を求める娘の想いは、簡単には消えないのです。

そして、物語のタイトル「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」の意味が明かされる時、私たちは再び衝撃を受けることになります。それは、チエミの母・千草が最期に遺した、娘の誕生日から取られたキャッシュカードの暗証番号。ただの数字の羅列ではありません。それは、娘を逃がし、生きてほしいと願った母の、最後の、そして究極の愛情表現だったのではないでしょうか。妊娠を猛反対し、包丁まで持ち出した母。しかし、その根底には、娘が不幸になることを誰よりも恐れる、歪んでしまった母性があったのかもしれません。普段は娘の言いなりだった千草が、人生で唯一、娘に強く反対したのが、この妊娠についてだったという事実。それは、娘の将来を案ずるが故の行動だったと解釈することもできるでしょう。このタイトルに込められた母の切ない想いを知る時、単純な善悪では測れない、母娘関係の複雑さと、その奥にある愛の深さに、改めて気づかされるのです。

この物語は、読後に決して爽快な気分だけを残すわけではありません。むしろ、ずっしりとした重さと、考えさせられる多くの問いを投げかけてきます。母と娘の関係、友情の在り方、人生の選択、そして罪と赦し。登場人物たちの誰かに感情移入し、共感する部分もあれば、理解し難いと感じる部分もあるでしょう。しかし、それこそが、この物語が持つリアリティであり、魅力なのかもしれません。完璧な人間など存在せず、誰もが矛盾や葛藤を抱えながら生きている。その事実を、辻村氏は容赦なく、しかしどこか温かい眼差しで見つめているように感じられます。

読み終えた後、自身の母親との関係や、大切な友人との関係について、改めて考えさせられる人も少なくないはずです。もしかしたら、心の奥底にしまい込んでいた、些細な、あるいは大きな傷の記憶が呼び覚まされるかもしれません。しかし、それは決してネガティブな体験ではなく、自分自身や他者との関係性を見つめ直し、より深く理解するための一歩となるのではないでしょうか。「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」は、そんな静かな、しかし確かな力を秘めた作品である、と私は思います。

まとめ

辻村深月氏の「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」は、母と娘、そして友という普遍的なテーマを扱いながら、その関係性の複雑さ、そして時に残酷な現実を鋭く描き出した作品と言えるでしょう。対照的な二組の母娘、そして幼馴染であるみずほとチエミの関係を通して、愛情、憎しみ、羨望、劣等感といった、人が抱える様々な感情が、実に生々しく、そして巧みに描き出されています。

物語は、殺人事件とその容疑者となった女性、そして彼女を追う幼馴染というミステリーの様相を呈しながら進行しますが、その核心にあるのは、切っても切れない人間関係の深淵です。『すべての娘は、自分の母親に等しく傷つけられている』という作中の言葉は、多くの読者の心に深く響き、自身の経験と重ね合わせてしまうのではないでしょうか。そして、タイトルの「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」に込められた意味が明かされる時、母の歪んだ、しかし切実な愛情表現に、私たちは言葉を失うことでしょう。

読後感は、決して軽いものではありません。むしろ、重く、考えさせられる部分が多いかもしれません。しかし、それこそが、この作品が持つ力であり、魅力なのではないでしょうか。人間の弱さや醜さから目を逸らさず、しかし、その奥にある希望や救いの可能性をも示唆する。この物語は、私たち自身の人間関係を見つめ直す、一つのきっかけを与えてくれるに違いありません。