イリヤ・ムウロメツ小説「イリヤ・ムウロメツ」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

筒井康隆先生が、遠いロシアの地に伝わる英雄の物語を描いた一作。それがこの「イリヤ・ムウロメツ」です。皆さんは、ロシアの英雄叙事詩と聞くと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。もしかしたら、あまり馴染みがないかもしれません。しかし、本作はそんな方にこそ手に取っていただきたい物語なのです。

本作は、ただの外国の古いお話の翻訳ではありません。筒井先生ならではの筆致によって、壮大で、どこか物悲しく、そして圧倒的な力強さを持つ物語として、私たちの目の前に現れます。手塚治虫先生による挿絵が収録されている版もあり、物語の世界をより豊かに彩っています。

この記事では、まず物語の導入部分と展開を紹介し、その後で結末にも触れながら、この物語が持つ深い魅力について、たっぷりと語っていきたいと思います。一人の男の生涯を通じて、英雄とは何か、運命とは何かを問いかけるこの物語の核心に、一緒に迫っていきましょう。

小説「イリヤ・ムウロメツ」のあらすじ

物語は、ムーロムの町の近く、カラチャロという村から始まります。ここに、イワン夫妻という老夫婦が暮らしていました。長い間子宝に恵まれなかった二人の間に、ようやく授かった男の子、それがイリヤです。しかし、喜びも束の間、イリヤは生まれつき手足が動かず、三十年間もの間、暖炉の上から一歩も動くことができないのでした。

そんなある日、三人の巡礼の老人がイリヤの家を訪れます。両親が留守にしている中、老人たちはイリヤに声をかけ、立ち上がるように促します。すると不思議なことに、三十年間動かなかったはずのイリヤの身体に力がみなぎり、彼は自らの足で立ち上がることができたのです。老人たちは彼に特別な飲み物を与え、人並外れた強大な力を授けます。

力を得たイリヤは、両親に別れを告げ、愛馬と共にキエフの都を目指す旅に出ます。その道中、彼は恐ろしい森の盗賊「怪鳥ソロウェイ」を打ち負かし、タタール人の軍勢に包囲されたチェルニーゴフの町を解放するなど、次々と武勲を立てていきます。その活躍はすぐにウラジーミル公の耳にも届き、イリヤはキエフの都で最高の勇士の一人として迎え入れられることになります。

こうして、かつては無力だった男は、ロシア全土にその名を轟かせる偉大な英雄「イリヤ・ムウロメツ」として、その運命の道を歩み始めるのです。しかし、彼の前には、さらなる試練と、思いもよらない悲劇が待ち受けているのでした。物語はここから、英雄の栄光と苦悩を深く描き出していきます。

小説「イリヤ・ムウロメツ」の長文感想(ネタバレあり)

ここからは、物語の結末に触れながら、私が感じた「イリヤ・ムウロメツ」という作品の奥深い魅力について、存分に語らせていただきたいと思います。まだ未読の方はご注意ください。

まず、この物語の冒頭、イリヤが三十年間も動けない状態であったという設定に、私は強く心を掴まれました。英雄譚の始まりとしては、あまりにも静かで、絶望的です。しかし、この長い停滞の期間こそが、その後の彼の爆発的な活躍を、より鮮やかに際立たせるための重要な助走になっているのですね。

三人の老人との出会いは、まさに奇跡そのものです。外部からの絶対的な力によって運命が動き出すというのは、神話の定石かもしれませんが、筒井先生の筆にかかると、それが非常に荘厳で、有無を言わせぬ説得力をもって迫ってきます。イリヤが力を授けられる場面は、一人の人間が「英雄」へと生まれ変わる、聖なる儀式のようにも感じられました。

そして、イリヤに与えられた力が、あまりにも強大すぎたために一度調整される、というくだりも興味深い点です。これは、彼の力が単なる暴力装置ではなく、制御されるべき、そして正義のために使われるべきものであることを示唆しています。初めから、彼の英雄としての道には、重い責任が伴うことが運命づけられているのです。

旅の途中で出会う巨人スヴャトゴルとのエピソードは、この物語の中でも特に印象的な部分です。スヴャトゴルの妻に誘惑され、窮地に陥るイリヤ。しかし彼は、巨人に対して正直に真実を語ります。この誠実さこそが、彼の人間性の核をなすものであり、単なる怪力無双の男ではないことを示しています。

スヴャトゴルがイリヤの誠実さを認め、兄弟の契りを交わす場面は、胸が熱くなります。しかし、その友情は、スヴャトゴルの悲劇的な死によって終わりを迎えます。彼が棺に閉じ込められ、その命の泡をイリヤが受け継ぐことで、力の継承が完了する。この一連の流れは、英雄の成長が、他者の死や犠牲の上に成り立つという、物語の非情な一面を突き付けてきます。

キエフの都に到着し、ウラジーミル公や他の勇士たちに認められるまでの道のりは、読んでいて実に爽快です。特に「怪鳥ソロウェイ」との対決は、英雄譚らしい見せ場の一つでしょう。人の肝を潰すという口笛をものともせず、悪を打ち破るイリヤの姿は、まさしく頼もしき守護者そのものです。

しかし、この物語はイリヤを単純な正義の味方としてだけ描きません。彼がキエフを不在にしている間に、都が怪物イードリシチェ・ポガーノイエに蹂躙されるという展開は、英雄の存在が絶対的な安寧を保証するものではないという現実を示しています。英雄がいなければ、平和はたやすく崩れ去る。その危うさが、物語に緊張感を与えています。

乞食に変装して敵の懐に潜り込み、怪物を打ち倒すという解決策は、イリヤの知略と大胆さを見事に描き出しています。力だけでなく、知恵をも併せ持つからこそ、彼は真の英雄たりえるのです。この「変装」というモチーフは、筒井先生の他の作品にも通じるものがあり、外見と本質の関係性を問う、深いテーマ性を感じさせます。

私がこの物語で特に人間味を感じて好きなのが、ウラジーミル公との対立のエピソードです。あれだけの武勲を立てたにもかかわらず、宴会に呼ばれなかったことに激怒したイリヤが、教会の屋根を矢で射落とし、それを酒場で人々に振る舞う場面。これは、彼のプライドの高さと、同時に権力者におもねらない気骨、そして民衆への優しさを示しています。

この行動は、単なる乱暴狼藉ではありません。それは、英雄としての自分の価値を認めない権威に対する、正当な異議申し立てなのです。そして、公に謝罪させた上で、民衆のために酒場を解放させるという結末は、彼が誰のために戦う英雄であるかを明確に示しており、非常に痛快でした。

物語が終盤に差し掛かると、雰囲気は一変し、深い悲劇の色を帯びてきます。強敵として現れた若き勇士ボドソコリニクが、かつてスヴャトゴルの妻との間に生まれた、自らの息子であったという事実。これほど残酷な運命があるでしょうか。父と子が、互いの素性を知らずに殺し合うというのは、古今東西の悲劇に共通するテーマですが、イリヤの物語においても、それは凄まじい衝撃をもって描かれます。

和解しようと試みるイリヤの願いもむなしく、息子は彼を裏切ります。そしてイリヤは、自らの手で息子を討ち果たさなければならなくなる。英雄として国を守り続けてきた男が、最も守りたかったであろう血の繋がりを、その手で断ち切らなければならない。このエピソードは、英雄が背負う孤独と、その力の代償の大きさを、痛いほどに感じさせます。

そして、物語は最後の戦いへと向かいます。タタール人の大軍勢を打ち破り、大勝利を収めるイリヤたち。しかし、その勝利の直後、仲間の勇士の一人が放った傲慢な一言が、全てを暗転させます。「天の軍勢さえも我々には敵わないだろう」と。この一言が、神々の怒りを買ってしまうのです。

死んだはずの敵兵が蘇り、無限に襲いかかってくるという展開は、絶望的です。人力ではどうすることもできない、超越的な力の前で、最強を誇った勇士たちが為す術もなく追い詰められていく。ここでイリヤたちは、自分たちが戦っている相手が、人間の敵ではなく、自らの驕り(おごり)が生み出した「天罰」であることに気づきます。

この最後の戦いは、英雄の力の限界を示しています。どれほど強大な個人であろうと、天意や運命といった、より大きな力の流れには抗えない。その無力さを悟ったイリヤたちが、祈りを捧げると、彼らは皆、石像と化してしまうのです。

この「石化」という結末は、非常に示唆に富んでいます。彼らは敗北したのでしょうか。それとも、永遠の英雄として、その地に刻み込まれたのでしょうか。私は、これは一種の救済だったのではないかと感じています。戦い続ける宿命から解放され、永遠の安息を得た。そして、彼らの物語は、後の世に語り継がれる伝説となった。そう考えるのが、最もふさわしいように思えるのです。

筒井康隆先生は、このロシアの英雄叙事詩を、単に現代語訳するのでなく、登場人物たちの血の通った感情や、物語の持つ非情なまでのダイナミズムを、見事に描き切りました。壮大な冒険活劇でありながら、一人の人間の栄光と悲劇を追った、重厚な人間ドラマでもある。だからこそ、「イリヤ・ムウロメツ」は、時代や国を超えて、私たちの心を揺さぶるのではないでしょうか。

まとめ

この記事では、筒井康隆先生の小説「イリヤ・ムウロメツ」の物語の筋道と、その奥深い魅力について、結末の内容にも触れながら詳しく語ってきました。三十年間動けなかった男が、奇跡的な力と運命を得て、ロシアを代表する英雄へと駆け上がっていく様は、圧巻の一言です。

しかし、この物語の真骨頂は、輝かしい成功譚に留まらない点にあります。権力への反骨、予期せぬ悲劇、そして自らの驕りが招く神罰。英雄イリヤが経験する栄光と苦悩の振れ幅は、非常に大きく、だからこそ彼の人間性に深く共感させられます。

筒井先生は、この壮大な物語を、読者が息をのむような迫力ある筆致で描き出しています。英雄とは何か、力とは、運命とは。読み終えた後、そんな普遍的な問いが、ずしりとした手応えと共に心に残るはずです。

まだこの傑作に触れたことのない方は、ぜひ手に取ってみてください。きっと、イリヤ・ムウロメツという一人の英雄の生涯に、心を奪われることでしょう。壮大で、少し物悲しい、忘れがたい読書体験があなたを待っています。