わるいやつら小説「わるいやつら」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。

松本清張の長編小説『わるいやつら』は、単なる推理小説の枠を超え、人間の欲望と悪意が織りなす複雑な人間模様を描いたピカレスク・サスペンスとして位置づけられます。本作は、医師という社会的権威を持つ主人公が、その地位を悪用して犯罪に手を染めていく過程と、それに伴う人間関係の変質を極めて詳細かつ具体的に描出しており、読者は悪党がいかに悪事を重ね、いかに破滅していくかという主人公の行動と心理の軌跡に深く引き込まれることになります。物語の主軸が主人公の自堕落な生活と犯罪に置かれていることは、彼の行動が彼自身の破滅を招く直接的な原因となるという、勧善懲悪の枠を超えた「悪の連鎖」が描かれることを示唆しています。このジャンル設定は、単一の犯罪事件の解決に留まらず、主人公の人生全体における「悪」の軌跡を追うことで、人間の欲望や社会の暗部に対する松本清張の深い洞察が示されていることを意味します。

松本清張『わるいやつら』のあらすじ

物語の主人公は、東京都心の総合病院の二代目院長、戸谷信一です。彼は名医として知られた父・信寛から病院を継いだものの、医学への情熱を失い、病院は毎月赤字を抱える状態にありました。この赤字を埋めるため、戸谷は複数の愛人から金を巻き上げるという自堕落な生活に陥ります。彼は世間知らずでプレイボーイ的な側面を持つと評されますが、その本質は女に寄生し、性と財を吸い取る「蛭のような男」として描かれています。

戸谷は現在、独身で美貌の新進デザイナーである槇村隆子に強く惹かれ、彼女との結婚を夢見ています。この願望が彼にさらなる金銭を必要とさせ、より大きな犯罪への動機となります。戸谷の金銭的困窮は、病院経営の失敗と彼の放蕩生活に起因するものです。当初は愛人からの搾取で辛うじて凌いでいましたが、槇村隆子という「より高い目標」(社会的地位と美貌の獲得)を設定したことで、その欲望は際限なくエスカレートしていきます。

そんな中、戸谷の愛人の一人である横武たつ子は、深川の材木商の女将であり、病床にある夫を持つ女性でした。彼女は戸谷に多額の金を貢いでいましたが、夫の存在を疎ましく思っていました。たつ子は戸谷に夫の毒殺を依頼し、戸谷は医師としての知識と立場を利用してこれに協力します。戸谷は医師としての信用を悪用し、たつ子の夫の死亡診断書を作成し、最初の「完全犯罪」が成立したかに見えました。

たつ子の夫の死後、たつ子の家族が彼女の行動に疑念を抱き、彼女は店の金を自由に使えなくなります。金銭的な価値を失ったたつ子は、戸谷に結婚を迫るようになります。戸谷にとって、彼女はもはや金ずるではなく、秘密を知る邪魔な存在へと変貌します。そして、戸谷は、この秘密を知るたつ子を排除するため、戸谷の父の愛人であり、戸谷自身とも関係があった婦長・寺島トヨと共謀してたつ子を殺害するのです。

松本清張『わるいやつら』の長文感想(ネタバレあり)

松本清張の『わるいやつら』を読み終えて、まず感じたのは、人間の欲望がいかに際限なく膨張し、倫理的な境界線を容易に乗り越えさせてしまうかという普遍的なテーマが、恐ろしいほどに生々しく描かれているという点でした。主人公の戸谷信一は、一見すると「医師」という社会的権威を持つ人物でありながら、その内面は金銭欲と女への執着にまみれた、まさに「わるいやつ」そのものです。彼の行動は、単なる犯罪者のそれではなく、欲望に盲目になった人間の悲劇性を内包しているように感じられました。

物語は、戸谷が病院の赤字を埋めるために愛人から金を巻き上げるという、なんとも自堕落な生活から始まります。しかし、槇村隆子という新たな「獲物」に心を奪われたことで、彼の欲望は加速度的にエスカレートしていくのです。この過程が丹念に描かれることで、読者は戸谷の心理がどのように変質していくのかを追体験できます。当初は金銭目的だったはずの悪事が、やがて秘密の隠蔽や欲望の障害排除へと動機が変化していく様は、一度悪事に手を染めると、その泥沼から抜け出せなくなる人間の心理を鋭くえぐり出しています。

特に印象的だったのは、戸谷が医師という「社会的権威」を悪用して殺人を手助けし、死亡診断書を偽造するという手口です。これは、彼が自身の職業的地位を倫理的な制約ではなく、犯罪遂行のための道具と見なしていることを浮き彫りにします。医師の信用が疑われなかったことで、戸谷は最初の「完全犯罪」に成功したと錯覚し、これが彼の傲慢さと過信を増幅させます。この初期の成功体験が、後のさらなる犯罪への敷居を下げ、彼の破滅への道を加速させていくのです。医療倫理の崩壊と、社会が専門職に与える信頼がいかに容易に悪用されうるかという、松本清張作品に共通するテーマがここには提示されています。

横武たつ子の夫の殺害、そしてたつ子自身の殺害へと続く連鎖は、戸谷の人間性の崩壊をまざまざと見せつけます。戸谷が人間関係を完全に道具として捉え、自己の利害のみで他者の価値を判断する冷酷さは、読んでいて背筋が凍るほどでした。一度は共犯者であったたつ子を、用済みとなれば躊躇なく殺害するという冷酷さは、彼の人間性の崩壊をこれ以上ないほどに示しています。そして、さらに藤島チセの夫をも同じ手口で殺害するに至っては、戸谷の犯罪に対する抵抗感は完全に麻痺してしまっているのがわかります。同一の手口で二度目の殺人を成功させたことは、戸谷の「完全犯罪」という幻想をさらに強化し、彼の過信を一層増大させていきました。

しかし、物語が進むにつれて、戸谷の「完全犯罪」が実は致命的なほころびを抱えていたことが徐々に明らかになっていきます。その最大の要因となるのが、共犯者である婦長・寺島トヨの存在です。彼女は戸谷の過去と現在の秘密を深く知る存在であり、戸谷は自身の秘密を共有するトヨの存在が次第に邪魔になり、脅威と感じるようになります。秘密を知る共犯者であるトヨの存在は、戸谷にとって最大の脅威となるのです。

そして、戸谷はモーテルで寺島トヨを絞殺し、その死体を林の中に投げ捨てるという凶行に及びます。戸谷はトヨの死体発見の記事がいつまでも報道されないことに安堵し、これで全ての秘密が闇に葬られたと確信します。彼はその後、自身の全ての情熱を槇村隆子に注ぎ込みます。この「完璧な隠蔽」という戸谷の認識は、後にトヨが生存していたという事実によって完全に打ち砕かれます。彼の傲慢さが、自身の破滅を招く決定的なほころびとなるのです。トヨの「死体発見の記事がいつまでも報道されなかった」という描写は、読者に不穏な予感を抱かせ、後の大どんでん返しへの見事な伏線となっていました。

追い詰められる戸谷の姿は、まさに転落の一途です。井上警部による捜査の開始は、戸谷の「完全犯罪」が幻想であったことを突きつける最初の具体的な兆候です。警察の捜査開始は、戸谷に精神的な圧迫を与え、彼の焦りや恐怖を増大させます。これにより、彼は冷静さを失い、さらなる判断ミスを犯す可能性が高まるのです。そして、追い打ちをかけるように、彼の友人であり、金銭問題や悪事を任せていた弁護士の下見沢作雄が、戸谷の預金を引き出して姿を消してしまうという裏切りが発生します。この金銭的な裏切りは、戸谷の経済的基盤を完全に破壊し、彼をさらに孤立させ、弱体化させる決定的な打撃となりました。

戸谷は、警察の取り調べや借金の催告に苦しめられ、精神的に追い詰められていきます。彼は、犯罪行為に手を染めているにもかかわらず、「計画は杜撰でその場限り、楽観的すぎ(というか嫌なことからは目をそらす性格)、人を見る目がない」と評されます。犯罪を行うのに必要な「冷徹さ」もなく、ただ楽観的な予測に従って破滅していくのです。彼の焦りや恐怖は、読者にも伝わるほどであり、その姿は哀れささえ感じさせます。

そして、物語の最大の転換点であり、衝撃の事実が明かされる瞬間が訪れます。追い詰められた戸谷は殺人容疑で逮捕されますが、ここで戸谷がモーテルで絞殺し、死体を林に遺棄したと確信していた寺島トヨが、実は生きていたことが明らかになるのです。トヨの生存は、戸谷の「完全犯罪」の幻想を完全に打ち砕き、彼を窮地に陥れる決定的な要因となります。この「大どんでん返し」は、まさに松本清張の真骨頂と言えるでしょう。

戸谷は裁判にかけられ、殺人罪で終身刑を言い渡されます。彼は逮捕された後も、自身の不運を嘆くばかりで、反省の色は全く見せません。この自己中心的な態度は、彼の「反社会性パーソナリティ」を裏付けていると評されます。彼は最後まで、自分が散々やってきたことが返ってきただけで自業自得だとは考えず、ただ不運を嘆く愚かな人間として描かれるのです。

しかし、『わるいやつら』というタイトルが示すように、この物語の真の「わるいやつら」は戸谷信一だけではありませんでした。戸谷の逮捕後、物語の真の「わるいやつら」が明らかになります。それは、戸谷が心底惚れ込み、結婚を夢見ていた槇村隆子と、彼の友人であり弁護士の下見沢作雄であったのです。隆子は戸谷に気のあるふりをしながら、下見沢と結託し、戸谷を巧みに利用していました。彼らの真の目的は、戸谷病院の土地・建物、そして貯金を含む戸谷の全資産を巻き上げ、病院を乗っ取ることだったのです。彼らは戸谷の悪事を社会に暴露することで、彼を社会的に抹殺し、その資産を合法的に(あるいは巧妙に)手に入れたのです。

下見沢と槇村隆子こそが、物語のタイトルが示す「わるいやつら」の真の体現者であることが明らかになります。彼らは戸谷の衝動的で杜撰な悪事を、より大規模で計算された自身の目的(病院の乗っ取り)のために利用しました。これは、戸谷の悪が、さらに大きな悪の計画の「駒」に過ぎなかったことを示唆しています。戸谷の欲望と過信が、下見沢と隆子の巧妙な罠に彼を陥れる直接的な原因となるのです。

最終的に、戸谷が網走への移送中に目にするのは、かつて自身の病院があった場所に建つ「槇村洋裁学院・理事長下見沢」という看板です。これは、彼が全てを失い、最も信頼し、愛していた者たちに裏切られ、利用されたことを示す、哀愁漂う皮肉なラストシーンです。この結末は、松本清張が提示する「悪」の多層性と階層性を示しています。戸谷のような衝動的で愚かな悪党が破滅する一方で、下見沢や隆子のような、より冷徹で知的な悪党が勝利するという構図は、勧善懲悪の単純な枠を超えた、より深い社会批判を含んでいます。彼らの成功は、社会の隙間を巧妙に利用する者が最終的に利益を得るという、ある種の現実の残酷さを映し出しているのです。

この作品は、人間が持つ「悪」というものの深淵を覗かせ、読後に重い問いを投げかけてきます。表面的な悪と、その裏に潜むより計算された悪、そしてその悪が連鎖する中で生まれる皮肉な結末は、まさに松本清張の真骨頂であり、彼の作品が時代を超えて読み継がれる理由がここにあると感じました。

まとめ

松本清張の『わるいやつら』は、主人公・戸谷信一の悪行を通じて、人間の欲望と悪意が織りなす複雑な人間模様を描き出した傑作です。医師という社会的地位を悪用し、愛人たちを巻き込みながら悪事を重ねていく戸谷の姿は、まさに「わるいやつ」そのもの。しかし、彼の衝動的で杜撰な悪事は、より巧妙で冷徹な悪意を持つ者たちに利用され、最終的には彼自身の破滅を招くという皮肉な結末を迎えます。

物語は、読者に戸谷の悪行とその転落の過程を追体験させながら、彼の過信や判断ミスがいかに破滅を早めていくかを克明に描いています。特に、寺島トヨの生存という衝撃の事実や、下見沢作雄と槇村隆子による巧妙な裏切りは、物語をさらに深みのあるものにしています。彼らこそが真の「わるいやつら」であり、戸谷の悪を逆手に取って自らの目的を達成するという構図は、読者に強烈な印象を残すことでしょう。

『わるいやつら』は、単なる推理小説の枠を超え、人間の本質に潜む「悪」の多層性と、それが社会の中でいかに機能し、そして時に別の悪に利用されるかという、深い社会批判を含んでいます。勧善懲悪の単純な物語に留まらず、より複雑で現実的な人間の業を描き出した本作は、松本清張作品の中でも特に光る一作と言えるでしょう。読後には、人間の欲望の恐ろしさと、悪の連鎖がもたらす悲劇について深く考えさせられます。