小説「りぽぐら!」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。西尾維新さんといえば、言葉遊びの魔術師、あるいは奇才という言葉が真っ先に思い浮かびますが、この「りぽぐら!」という作品は、その呼び名が伊達ではないことを改めて証明して見せた、実験精神に満ち溢れた一冊と言えるでしょう。物語を紡ぐ上で根源的とも言える「文字」に大胆な制約を設け、その中でどれだけの物語が描けるのか、という挑戦状を読者に叩きつけてきます。
この作品は、単に奇抜なアイデアに留まらず、日本語という言語の奥深さ、そして制約があるからこそ生まれる創造性の発露を目の当たりにさせてくれる点で、非常に興味深い試みとなっています。まさに「活字を愛するすべての人に捧ぐ」という献辞が、本書の本質を的確に表していると言えるでしょう。読者は、物語を追うと同時に、作者が張り巡らせた言葉の仕掛けに意識的にならざるを得ません。
「リポグラム」という手法、つまり特定の文字を使わずに文章を構成するという技法が、本作の核となっています。しかし、西尾維新さんの手にかかると、それは単なる言葉遊びの域を超え、物語の雰囲気や登場人物の口調、さらには物語の展開そのものにまで劇的な変化をもたらす装置として機能します。この言葉の制約が生み出す特異な読書体験は、他ではなかなか味わえないものでしょう。
本記事では、そんな「りぽぐら!」の収録作品の核心に触れつつ、リポグラムという制約がそれぞれの物語にどのような影響を与えているのかを、できる限り具体的にお伝えしていきたいと思います。言葉の迷宮に足を踏み入れるような、刺激的な読書体験の一端でも感じていただければ幸いです。
小説「りぽぐら!」のあらすじ
「りぽぐら!」は、大きく分けて3つの異なるオリジナル短編と、それぞれに4つのリポグラム版(特定の仮名を使わずに書かれたバージョン)が存在する、非常に野心的な構成の作品です。さらに文庫版には、書き下ろしのリポグラム掌編も収録されており、まさに言葉の実験場といった趣ですね。
最初の物語は「妹は人殺し!」です。ある朝、主人公の「僕」は妹が誰かを殺したらしいと直感します。妹の部屋を調べると、ベッドの下からクラスメイトの少女と思われる遺体を発見。その夜、僕と妹は遺体を山に運びますが、僕はそこで妹をも殺害し、二人を埋めてしまいます。しかし翌日、僕が妹を殺したと直感した母親によって食事に毒を盛られ、意識が遠のく中、今度は父親が母親を殺すのだろうか、と連鎖する悲劇を予感しながら物語は幕を閉じます。家族間の凄惨な殺人の連鎖が描かれる、西尾維新さんらしいダークな世界観が展開されます。
次に収録されているのは「ギャンブル『札束崩し』」です。この物語の主人公は、莫大な借金を背負い、裏社会が取り仕切る非情な賭け事に参加させられることになります。そこで彼を待ち受けていたのは、同じく多額の借金を抱える他の男との、文字通り命を賭けた勝負でした。裏社会の閉鎖的で暴力的な雰囲気と、極限状態に置かれた人間の心理が描かれます。
三つ目の物語は「倫理社会」です。この世界では、「倫理ポイント」が通貨の代わりとして機能し、善行を積まなければ生きていくことさえ困難になるという、非常にユニークな設定が特徴です。道徳や倫理が社会システムの根幹をなし、人々の行動が常に評価され、数値化される社会。その中で生きる人々の姿を通して、倫理とは何か、善とは何かを問いかけるような、思索的な内容となっています。
そして文庫版には「地球にスペースはない」という掌編が追加されています。人口過密なのか、あるいは別の理由があるのか、地球にはもはや余裕がないという状況を示唆するタイトルです。この短い物語もまた、リポグラムの制約の中で紡がれており、凝縮された世界観と実験精神を感じさせます。これらの物語が、使用できる仮名を変えることで、どのように変貌を遂げるのか。それが「りぽぐら!」最大の読みどころなのです。
小説「りぽぐら!」の長文感想(ネタバレあり)
さて、小説「りぽぐら!」について、さらに深く掘り下げていきましょう。この作品の面白さは、やはり何と言っても「リポグラム」という制約そのものと、それが物語に与える影響の多様性に尽きると思います。同じ筋書きのはずなのに、使用する言葉が変わるだけで、これほどまでに印象が、いや、もはや別の物語とさえ感じられるほどに変化するのかと、ページをめくるたびに驚かされました。
例えば「妹は人殺し!」のオリジナル版は、現代的な口語体で書かれた、生々しい感触のあるスリラーです。しかし、リポグラム版では、使用できない仮名に応じて文体が劇的に変わります。あるバージョンでは古風な文語調になり、まるで古典文学を読んでいるかのような錯覚に陥ります。「妹が人を殺したらしい」という冒頭の一文が、「我が愚妹、人を殺しけり」といった具合に変わるのですから、その変貌ぶりは凄まじいものがあります。この変化は、単に言葉遣いが変わるだけでなく、語り手の性格や、物語が持つ時間的な感覚までも変容させてしまう力を持っています。妹に対する呼称が「愚妹」となるだけで、語り手の冷徹さや突き放したような感情がより強調されるように感じました。
また、別のリポグラム版では、非常にぶっきらぼうで断定的な口調になったり、あるいは関西弁のような特定の地域性を感じさせる言葉遣いになったりもします。これらは、禁止された仮名を避けるために、作者が駆使した苦心の策なのでしょうが、その結果として生まれる文体のバリエーションが、実に豊かなのです。特に「た」や「る」といった、日本語において頻繁に使われる音が使えなくなると、現代的な言い回しは著しく困難になります。そこで、普段あまり使わない古めかしい表現や、あるいはひらがなを漢字に置き換えるなどの工夫が必要になるわけですが、その選択の一つ一つが、物語の質感を微妙に、しかし確実に変えていくのが面白いところです。
「ギャンブル『札束崩し』」でも、同様の驚きがありました。オリジナル版は、裏社会の緊迫感や非情さを前面に押し出した作品ですが、リポグラム版では、タイトルからして「貨幣戯れ『札束雪崩』」や「一命賭し『紙幣山崩し』」といったように、雰囲気が大きく変わります。「戯れ」という言葉からはどこか遊戯的な、あるいは皮肉めいたニュアンスが感じられますし、「一命賭し」となれば、より切迫した、命の重みが前面に出た印象を受けます。このように、使用できる言葉が変わることで、物語の焦点や強調される側面がシフトしていく様は、まさに圧巻でした。
ある読者の方が「こうも言葉遣いが違うだけで同じストーリーのハズなのに印象がちがうのか。時代も性別も自由自在だ」と評していましたが、まさにその通りだと感じます。リポグラムの制約によって、登場人物がまるで別人になったかのように感じられたり、物語の舞台となる時代設定まで変わってしまったかのように思えたりするのです。これは、西尾維新さんの卓越した言語感覚と、日本語という言語が持つ懐の深さの双方を示していると言えるでしょう。
そして、最も過酷な制約が課せられたとされるのが「倫理社会」です。この物語は、最大で16文字もの仮名が使用禁止になるバージョンがあると言われています。その結果、文体はもはや原型を留めないほどに変化し、読解にはかなりの集中力を要しました。しかし、その読みにくさ、あるいは異質さこそが、この作品のテーマ性と深く結びついているように感じられたのです。「倫理ポイントで運営される社会」という、どこか息苦しさを伴う設定が、著しく制限された言葉で語られることで、その社会の歪みや不自由さがより際立って感じられました。
あるバージョンでは、あまりにも使用できる言葉が少ないためか、文章が途切れ途切れになったり、非常に抽象的な表現に終始したりします。しかし、それがかえって、管理された社会におけるコミュニケーションの困難さや、個人の感情が押し殺されてしまう様を暗示しているかのようでした。「善人でなければ生活できない」という社会の息苦しさが、言葉の不自由さという形で、読者にダイレクトに伝わってくるのです。これは、リポグラムという手法が、単なる技巧に終わらず、物語のテーマ性を深める装置として見事に機能している証左と言えるでしょう。
文庫版に追加された掌編「地球にスペースはない」も、非常に短いながら強烈な印象を残します。「一ページしかねえじゃねえか!」という読者の声もあったようですが、その極端な短さの中に、リポグラムの実験精神が凝縮されているように感じました。「地球は無駄空きが無だ」といったタイトルからも、閉塞感や切迫感が伝わってきます。この短い物語群は、まさに「何文字あれば小説は書けるのか!?」という本作の根源的な問いに対する、西尾維新さんからの一つの回答なのでしょう。
この「りぽぐら!」という作品全体を通して感じるのは、制約がもたらす創造性の爆発です。使えない言葉がある、という一見ネガティブな状況が、逆に作者の創意工夫を引き出し、通常ではありえないような多彩な文体や表現を生み出しています。「別の言葉に置き換える」「巧みに組み立て直している」といった作業は、想像を絶する困難を伴ったはずですが、その結果として生まれた文章は、まさに「超絶技巧」と呼ぶにふさわしいものでした。
もちろん、同じ物語を何度も異なる制約で読むというのは、ある種の「苦行」と感じる読者もいるかもしれません。特に、物語の筋を追うことだけを読書の喜びとしている方にとっては、少々退屈に感じられる部分もあるでしょう。しかし、この作品の真価は、そこにはないと私は思います。むしろ、言葉そのものに着目し、その変化や効果を味わうことにこそ、この作品を読む醍醐味があるのです。
西尾維新さんの作品は、しばしばその独特の言い回しや、複雑なプロット、そして何よりも言葉遊びが特徴として挙げられますが、「りぽぐら!」は、その中でも特に「言葉」という要素に極限まで焦点を絞った作品と言えるでしょう。彼の言語に対する並々ならぬこだわりと探求心が、これ以上ないほど純粋な形で結晶化したのが、この「りぽぐら!」なのではないでしょうか。
読みにくさを感じる部分や、繰り返しによって少々冗長に感じられる部分があったとしても、それを補って余りあるほどの驚きと発見が、この作品には満ちています。日本語の豊かさ、柔軟性、そして制約の中でさえも物語を紡ぎ出そうとする人間の創造力の逞しさ。それらを改めて感じさせてくれる、「りぽぐら!」はそんな稀有な一冊です。普段何気なく使っている言葉一つ一つが、いかに物語の世界を構築する上で重要な役割を果たしているのかを、痛感させられました。
この実験的な試みは、読者にもある種の能動的な関与を求めます。ただ物語を受け取るだけでなく、作者がどのような工夫を凝らし、どのように言葉を選んでいるのかを意識しながら読むことで、より深く作品を味わうことができるでしょう。それは、ある意味で、作者の「苦労」を追体験するような行為かもしれません。しかし、その先にこそ、この作品が用意した真の面白さが待っているのだと、私は確信しています。
まとめ
小説「りぽぐら!」は、西尾維新さんによる、言葉の可能性に挑んだ野心的な実験作です。同じ物語を、異なる文字制限(リポグラム)のもとで何度も書き直すという前代未聞の試みは、読者に新鮮な驚きと、これまでにない読書体験を提供してくれます。
物語の筋書きは同じでも、使用できる仮名が変わるだけで、文体、雰囲気、登場人物の印象までもが劇的に変化します。あるときは古風な文語調に、またあるときは特定の訛りを持つ話し言葉になったりと、その変幻自在ぶりは圧巻の一言。この変化を味わうことこそが、「りぽぐら!」を読む最大の楽しみと言えるでしょう。
もちろん、その実験的な性質ゆえに、読みにくさを感じたり、同じ展開の繰り返しに戸惑ったりする部分もあるかもしれません。しかし、その困難さの先にこそ、制約が生み出す創造性の輝きや、日本語という言語の奥深さを発見できるはずです。
「りぽぐら!」は、単なるエンターテイメント作品としてだけでなく、言葉と物語の関係について深く考えさせられる、知的な刺激に満ちた一冊です。西尾維新さんのファンはもちろんのこと、言葉の力や文学の新たな可能性に触れてみたいと考える全ての方に、ぜひ一度手に取っていただきたい作品です。