小説「みずから我が涙をぬぐいたまう日」のあらすじをネタバレ込みで紹介します。長文感想も書いていますのでどうぞ。この作品は、1970年に起きた三島由紀夫の事件に作家が向き合った、非常に濃密な一作です。魂を揺さぶるような問いを、読者に投げかけてきます。
物語は、病院の一室という閉鎖的な空間から始まります。主人公の「かれ」が、自らの過去を「遺言」として語るという、異様な設定です。この入れ子のような構造が、読む者をぐいぐいと引き込みます。これから語られる内容が、単なる思い出話ではないことを予感させるのです。
この記事では、まず物語の骨子となるあらすじを追い、その後、核心に触れるネタバレを含む深い読み解きと、私なりの感想を綴っていきます。「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という、一度聞いたら忘れられない題名が持つ本当の意味についても、じっくりと考えてみたいと思います。
大江健三郎文学の中でも、特に力強く、そして複雑な輝きを放つ「みずから我が涙をぬぐいたまう日」。その世界の深淵に触れることで、きっと何か新しい発見があるはずです。これから、その扉を一緒に開けていきましょう。
「みずから我が涙をぬぐいたまう日」のあらすじ
物語の舞台は、病院の一室です。35歳の小説家である主人公「かれ」は、自分が末期の肝臓癌に侵されていると信じ込み、ベッドの上で日々を過ごしています。彼のそばには「遺言代執行人」と彼が呼ぶ女性がおり、かれの語る言葉をひたすら記録しています。かれは緑色のセロファンを貼った水中メガネをかけ、現実から隔絶されたかのように、自らの「同時代史」を語り始めるのです。
かれが語りの中心に据えるのは、1945年8月16日、彼が10歳だった頃の記憶です。終戦の翌日、彼の父親は日本の敗戦を認めない若き将校たちに担ぎ上げられ、国体を守るために蹶起した、と彼は信じていました。四国の森の谷間で孤高に生きていた父親は、かれにとって英雄そのものでした。幼い彼もその蹶起の場に立ち会い、父の勇姿を目に焼き付けていたのです。
その英雄的な父親との日々を、かれは「ハピイ・デイズ」と呼び、切迫した死を前にした今、その記憶を必死に再構成しようとします。かれの語りは、父親への強い敬愛と、自らのアイデンティティがその記憶の上に成り立っていることを示唆します。しかし、その絶対的な記憶は、ある人物の登場によって静かに、そして決定的に揺さぶられ始めるのです。
ある日、かれの母親が見舞いに訪れます。そして、母親の口から語られる「真実」は、かれが信じてきた「ハピイ・デイズ」を根底から覆すものでした。かれの記憶の中で輝いていた英雄の姿は、母親の言葉によって無惨にも崩れ落ちていきます。物語はここから、かれの精神的な崩壊と再生の苦闘へと、大きく舵を切っていくことになります。
「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の長文感想(ネタバレあり)
この小説が発表されたのは1971年。前年に起きた三島由紀夫の自決という衝撃的な出来事を受け、大江健三郎氏が自身にとっての「天皇制」という巨大なテーマと向き合った作品です。 単なる物語としてではなく、作家の魂の叫びが聞こえてくるような、凄まじい熱量を内包しています。
物語の始まりからして、異様です。主人公の「かれ」は35歳。末期の肝臓癌だと信じていますが、実際には神経科の病棟に入院しています。 緑色の水中メガネをかけて外界を遮断し、「遺言代執行人」と呼ぶ妻に、自らの歴史を口述筆記させる。この設定自体が、主人公の歪んだ精神状態と、彼がこれから語る内容が客観的な事実ではなく、あくまで彼の内面で再構築された「真実」であることを示唆しています。
かれが語る「ハピイ・デイズ」。それは終戦直後、父が起こしたとされる蹶起事件の記憶です。かれの中の父は、敗戦を認めず国体を守ろうとした、孤高の英雄でした。この英雄的な父のイメージは、かれのアイデンティティそのものを形成する、絶対的な支柱となっていたのです。
しかし、ここからがこの物語の核心であり、強烈なネタバレの領域に入ります。見舞いに来た母親が語る事実は、かれの信じるすべてを破壊するものでした。母親によれば、父の蹶起は国を憂いてのものではなく、金銭目的の「にせ蹶起」だったというのです。しかも、失敗して死ぬことまで織り込み済みの、茶番でした。
英雄だと信じていた父の行動が、すべて偽りだった。この暴露は、かれの精神を根底から揺るがします。父という絶対的な存在が崩壊することは、彼がこれまでよりどころにしてきた価値観、つまりは父が象徴していた天皇や国家といった権威的なものすべてへの信頼が失墜することを意味しました。
この小説の題名「みずから我が涙をぬぐいたまう日」は、作中で蹶起の際に歌われたドイツ語の歌の一節に由来します。 それは「天皇陛下が、みずからその指で我々の涙をぬぐってくださるのを待ち望んでいる」という、悲壮で純粋な願いが込められた言葉でした。
しかし、父の行動の欺瞞が暴かれた後では、この言葉は残酷なほど空虚に響きます。誰かに涙をぬぐってもらうことなど、もはや期待できない。天皇という絶対的な他者に救いを求めるのではなく、自らの手で涙をぬぐわなければならないという絶望的な状況。これこそが「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という題名に込められた、痛切な意味だったのではないでしょうか。
かれが信じ込んでいた「癌」という病も、実は父親と一体化したいという彼の歪んだ願望の産物であったことが示唆されます。英雄的な死を遂げた(と信じていた)父と同じように、自らも死にゆく存在であると思い込むことで、父の偽りの物語を必死に維持しようとしていたのです。
この物語は、ひとりの男の精神的な崩壊の記録です。しかし、それだけでは終わりません。絶対的な権威であった「父」の死と、その幻滅を経験したかれが、そこからいかにして自己を再構築していくのか。その苦闘のプロセスこそが、この「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という作品の主題なのだと感じます。
大江作品に特徴的な、粘りつくような濃密な文体は、まさにかれの混乱した内面を追体験させるための装置として機能しています。 一文が非常に長く、入れ子構造になった文章は、読む者に高い集中力を要求します。しかし、その困難な読書体験の先にこそ、この物語が持つ本当の力が見えてくるのです。
父という存在へのこだわりは、大江文学において繰り返し描かれるテーマです。 この「みずから我が涙をぬぐいたまう日」でも、そのテーマは極めて先鋭的な形で追求されています。理想化された父、そして裏切られた父。その両極の間で引き裂かれる息子の姿は、普遍的な父子関係の葛藤の物語としても読むことができます。
作中、かれの語りを冷静に記録し、時に批評的な言葉を挟む「遺言代執行人」の存在も重要です。彼女は、かれの主観的な世界に唯一差し込まれた、客観的な視点とも言えます。彼女の存在によって、読者はかれの語る物語を鵜呑みにすることなく、距離を保ちながら読み進めることができるのです。
物語の結末は、明確な救いが描かれているわけではありません。父の偽りを受け入れ、絶対的な権威の不在という現実に直面したかれが、そこからどう立ち上がっていくのか。その答えは、読者一人ひとりに委ねられているように思います。
他者に涙をぬぐってもらうのではなく、「みずから」の力で生きていかなければならない。その困難さと尊さを、この「みずから我が涙をぬぐいたまう日」は私たちに突きつけてきます。それは、三島事件という歴史的な出来事を背景に持ちながらも、現代を生きる私たちにとっても決して無関係ではない、普遍的な問いかけです。
この小説は、安易な感動やカタルシスを与えてはくれません。むしろ、読後には重い問いを突きつけられ、しばらくその世界から抜け出せなくなるような、強烈な体験が待っています。しかし、それこそが文学が持つ本来の力なのでしょう。
偽りの英雄譚が崩壊した後に、何が残るのか。この物語は、その問いに対する一つの答えを、壮絶な形で示しています。ネタバレを知った上で改めて読むと、かれの語る言葉の端々にある痛切な響きが、より深く胸に迫ってくるはずです。
「みずから我が涙をぬぐいたまう日」は、読む者の価値観を揺さぶり、思考を促す、真に力のある作品です。一度読んだだけではその全てを理解することは難しいかもしれません。しかし、時間を置いて再読するたびに、新たな発見がある。そんな奥深さを持った、稀有な一作だと私は思います。
まとめ:「みずから我が涙をぬぐいたまう日」のあらすじ・ネタバレ・長文感想
この記事では、大江健三郎の小説「みずから我が涙をぬぐいたまう日」について、物語の導入となるあらすじから、核心に触れるネタバレ情報を含んだ感想までを綴ってきました。病院の一室で語られる、父という英雄の記憶が、いかにして崩壊し、主人公の内面を破壊していったかをお話ししました。
この物語の衝撃は、英雄譚の崩壊だけに留まりません。題名にもなっている「みずから我が涙をぬぐいたまう日」という言葉が、当初の悲壮な願いから、誰にも救いを求めることのできない絶望的な状況へと意味を変えていく過程は、読む者の胸に深く突き刺さります。
父という絶対的な権威、そしてそれが象徴する国家や天皇といった存在への信頼が失われた時、人は何を頼りに生きていけば良いのか。この作品は、その重い問いを私たちに投げかけます。簡単な答えはありませんが、その問いと向き合うこと自体に、この作品を読む価値があるのだと感じます。
難解な文体でありながらも、一度その世界に入り込めば、強烈な引力で読者を引きずり込む力を持った「みずから我が涙をぬぐいたまう日」。まだ読んだことのない方には、ぜひ一度、この濃密な読書体験を味わってみていただきたいと願っています。




























